パネル1 それぞれの政治的図像学
日時:2020年8月8日(土)10:00 - 11:30
・ラインハルト・コゼレックの政治的イコノロジー──記念碑研究におけるイメージの意義/二宮望(京都大学)
・ジョルジュ・ディディ゠ユベルマンの政治的転回におけるゴヤの位置づけ/佐藤香奈穂(京都大学)
【コメンテーター】田中純(東京大学)
【司会】二宮望(京都大学)
政治的図像学ないし政治的イコノロジーの先駆者としてのアビ・ヴァールブルクの遺産をそれぞれの仕方で継承したラインハルト・コゼレックとジョルジュ・ディディ゠ユベルマン。本パネルでは、前者の記念碑研究に着目した二宮望氏の報告と後者の「政治的転回」をゴヤの作品とともに論じた佐藤香奈穂氏の発表が行われ、政治的イコノロジーの二つの「変奏」が検討された。
二宮氏の発表は、概念史という研究手法を開拓した歴史家コゼレックにおいて、言語ではなくむしろイメージを主題化するイコノロジーの方法がいかなる意義を有するのかを明らかにするものだった。それを通じ、イコノロジーによって言語を扱う概念史が相対化され、歴史という場が新たに重層性を帯びて現れてくるさまが見て取られた。コゼレックの記念碑研究において、死者の追悼とともに生き延びた者の国民的アイデンティティを涵養する装置すなわち「意味伝達の母体Sinnstifter」であった19世紀の記念碑は、二度の世界大戦によってその機能を喪失することになる。二宮氏はこうした歴史認識をもとにロダン《青銅時代》の分析や記念碑論争でのピエタ像への批判を行うコゼレックの手つきに、イコノロジー的な方法論を読み取っている。ではこうした方法意識はどこに由来するか。二宮氏はコゼレックが1963年に「政治的イコノロジーについて」というタイトルの原稿を書いていること、またマルティン・ヴァルンケをはじめとする美術史家との共同研究に、その答えを求める。コゼレックは、「情念定型」やイメージの「残存」といった語彙のもとに通時的な集合的記憶を重んじるヴァールブルクとは異なって、むしろある時代が共有する共時的な社会的・政治的感性を重視する。なかでも二宮氏が着目するのは、その際にコゼレックが用いる「時代の潮目=閾Epochenschwelle」という語彙である。大戦のような時代の潮目を経ることでそれ以前とは異なるものとなった社会的感性にとって、過去の感性が保存された記念碑は無関心・誤解の対象とならざるを得ない。二宮氏はこのように過去と現在をはじめとする種々の両義性を内包する記念碑に、複数の時間性が並存し相互浸透するものとしての、コゼレックの重層的な歴史の捉え方を示唆していると見る。
二宮氏はまたコゼレックが個人的に撮影した様々な記念碑写真を取り上げ、その独特なスタイルは、複数の時間性の空間的並存を可視化する身振りであったと主張する。写真は「洗濯機ののぞきガラス」(コゼレックの表現)の向こう側で回転し絡まり合う衣服のごとく、被写体が有する複数の過去を撮影者の現在において重層化させ結晶化させるものである。写真のイメージは歴史の複数の時間性を再確認させるのだ。二宮氏は以上を踏まえ、コゼレックにとってイメージ研究やイメージの実践は決して単なる余技ではなく、むしろ自身の歴史概念そのものを変容させる重要な契機だったと結論づけた。
続く佐藤氏の発表は、ディディ゠ユベルマンが2000年代以降の著作で示す政治的なものへの関心の深まりを、彼のゴヤへの言及を軸に、またヴァールブルクとの関係のもとでたどり直すものであった。ディディ゠ユベルマンは02年にヴァールブルク論『残存するイメージ』を発表するが、佐藤氏はディディ゠ユベルマンがその前後で、ヴァールブルクの鍵概念である「情念定型(パトスフォルメル)」をゴヤの作品に見出していたのではないか、という見立てを提示する。そしてヴァールブルクとゴヤの結びつけ──ゴヤの作品は『ムネモシュネ・アトラス』では扱われておらず、両者の結びつけはディディ゠ユベルマンの「方法的直観」に基づくのだが──の具体化が、ディディ゠ユベルマンがキュレーションを手掛けた10年の「アトラス──世界をいかにして背負うのか」展であり、11年の著作『アトラス、あるいは不安な悦ばしき知』である。佐藤氏はディディ゠ユベルマンの論述に即しつつ、《理性の眠りは怪物を生む》等のゴヤのイメージの分析を通じ、ヴァールブルクにおけるトラウマとしての戦争のヴィジョンの重大性を、すなわち政治的領域の重要性を確認する。
発表は次いで、ディディ゠ユベルマンが16年の「蜂起」展や近年の著作で焦点を当てる民衆や名もない人々の蜂起のモチーフにとって、《戦争の惨禍》をはじめとするゴヤのイメージが決定的な影響を及ぼしていることを指摘する。佐藤氏によれば、こうしたディディ゠ユベルマンの政治的プログラムの賭金は次の点に存する。すなわち、蜂起の主体として取り上げられる民衆は「われわれに直接関係しているにも拘わらずそれまでわれわれの関心を逃れていた」存在なのであって、なすべきはこうしたいわば不可視の存在を「可感的にする」ことなのである。佐藤氏がまず具体的に取り上げるのは、かつて(あるいは今でも)受動的に悲しむ役割を押し付けられていた女性が、《戦争の惨禍》において発射台に手を置き武装する身振りである。佐藤氏はこの「未熟な手」の形象を、女性労働者の蜂起を促したローズ・ツェーナーの手や、メキシコの貧しい女性たちの手に結びつける。ここで手の形象が重要なのは、発表においてそれが最終的に、政治的実践のなかで(武器ではなく)カメラを持ち自らイメージを生み出す非専門家の「未熟な手」に繋げられるからである。佐藤氏は蜂起という政治的行為においてイメージを生み出すことが「再主体化」の契機であることを指摘し、発表を終えた。
田中純氏によるコメントでは、コゼレックの馬への関心や宮本常一の写真との連関性、またヴァールブルクとゴヤの近接性など多岐にわたる論点が提示され、また感性の断絶として語られたコゼレックの「時代の潮目」それ自体を感覚するという視座がありえるのではないか、ディディ゠ユベルマンにおける「接近の身振り」や「再主体化」の行為主体は誰なのか、といった点について問いかけがなされた。とりわけ二つの発表にまたがる大きな問いとして、コゼレックが歴史への眼差しを「洗濯機のガラスののぞき穴」の比喩で語り、ディディ゠ユベルマンが名もない人々の身振り、蜂起を論じるとき、そこでの歴史叙述者自身の立場・責任はどこにあるのか、という疑問が提示された。安全な立場からの傍観者に甘んじるのではなく、いかにして歴史家が構成したイメージを民衆へ実践的に手渡せるのか、という問いかけである。この問いは、コメントの最後でも触れられたことだが、新型コロナウイルス禍やBlack Lives Matterといういわば歴史の潮目に実際に身を置く我々という立場から発せられたものであろう。歴史を扱う学が歴史を扱う学としていかに現在とアクチュアルな関係を結ぶのか。本パネルは全体としてその問いを開くものであったと言えるだろう。
パネル概要
芸術や宗教に劣らず、政治がイメージ研究の取り組むべき領野の一つであることは、近年の研究によってたびたび指摘されるところである。そこでは、歴史資料としての価値もさることながら、政治を構成するための手段としてイメージの意義が問われているのである。こうした問題提起は、政治空間がさまざまな感性の布置を前提としていることを示唆する。それでは、政治はイメージにおいていかに経験されるのか。本パネルが定位するのは、こうした次元である。
発表では、まず二宮が、ドイツの歴史家ラインハルト・コゼレックの記念碑研究を取り上げながら、彼の政治的イコノロジーと呼ばれるプロジェクトを分析する。そうした議論に即して、視覚的な経験の変容のなかで浮かび上がってくる「政治的感性」についてさらに考察を加える。つぎに、佐藤は、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのテクストに依りながら、ゴヤによって描かれた身振りのイメージに焦点を合わせる。ヴァールブルクにおけるイメージの弁証法を手がかりにしながら、蜂起という身振りの残存が歴史の要請であることを論じる。
以上の発表を通して、イメージ経験が歴史へと接近するひとつの可能性をひらくものであることを明らかにしたい。そうした議論の中から、政治的図像学の理論的・文化史的射程と課題を描き出すことが、本パネルの最終的な目的となる。
ラインハルト・コゼレックの政治的イコノロジー──記念碑研究におけるイメージの意義/二宮望(京都大学)
本発表は、ドイツの歴史家ラインハルト・コゼレックが記念碑研究を通して構想していた「政治的イコノロジー」について論じる。概念史とともに知られるこの歴史家は、九〇年代に入り、それまで単発的に行っていた記念碑研究の成果を矢継ぎ早に発表する。そこでは、それまでの言語中心的な歴史学からは一転して、イメージ、そして感性の問題が前面に押し出されてくる。
コゼレックのこうした新たな研究領域の開拓は、同時代に活発な議論を巻き起こしたホロコースト記念碑計画を背景にしている。事実、彼はこの記念碑論争に際し、知識人として積極的な発言を行っている。計画中の記念碑案に対して向けられたその批判は、近代のとば口から徐々に変質していく記念碑の社会的意味を問う彼の研究に裏付けられている。コゼレックによれば、そうした記念碑の歴史的変容が最も顕著に現れてくるのは、その形態においてである。造形イメージの分析に当てられた彼の研究は、それゆえ、政治的イコノロジーと名付けられた。
発表では、まず彼の論争での発言と記念碑研究を取り上げて、それらの内的連関を指摘する。さらに、そうした研究を支えたコゼレックの写真コレクションの存在や、「詩学と解釈学」やアビ・ヴァールブルクとの関係についても言及する。こうした議論を通して、コゼレックの政治的イコノロジーの眼目が、時代の「政治的感性」を可視化させることにあった点を明らかにしたい。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの政治的転回におけるゴヤの位置づけ/佐藤香奈穂(京都大学)
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは2009年に始まるシリーズ「歴史の眼」(全6巻)における一連の論考で、政治的表象において抑圧されたものを形象化する多様な方法を明らかにした。加えて、この著者自らのキュレーションによる「アトラス」展(2010)と「蜂起」展(2016)が呈示した数多の作品は、イメージに反映される政治があたかも自明的なものであるかのような印象を与えた。ゆえに先行研究は、「歴史の眼」の幕開けをディディ=ユベルマンの政治的転回として位置づけることになる。
これに対し本発表は、「歴史の眼」の傍らで著された美術史的著作を再考することで、その政治的転回においてゴヤのイメージが重要な役割を担っていることを指摘する。上述の展覧会で明示的になったこの啓蒙時代の画家への関心は、「ゴヤの不在」が指摘されるアビ・ヴァールブルクに照らし合わせるといっそう意義深い。ディディ=ユベルマンの主要な思想的背景であるヴァールブルクが図像に読み取られた意味の「落下」を形象化するのに対し、理性の「落下」という近代的徴候のただなかに立ち上がる感性に形態を与えたのがゴヤである。そしてこの画家の身振りが20世紀の写真と結びつくとき、歴史に埋もれた名もなき人々の「蜂起」は眼前のものとなる。発表ではディディ=ユベルマンのゴヤ論の検討を通じて、「可感的にする」(2013)という標語に折りたたまれた美術史と政治の可塑的な連続性を明らかにする。