1950年代から70年代の日活を振り返る──白鳥あかね氏へのインタビュー
映画館に熱気があった「第二黄金期」に映画産業を支えていた技術者たちが次々と鬼籍に入って行く中、彼らへの聞き取り調査は急務となっている。なぜ彼らに訊かなければならないのか。それは撮影所システムが稼働していた、映画製作の体制が整っていた時期を知る、貴重な語り部だからである。撮影所システムの弊害は当時から指摘されており、昨今もその負の側面に関する研究の成果が発表されている。その一つが、極端なまでに男性社会であった点である。当時映画会社の助監督募集は、男性のみが対象であった。一方で撮影所システムは、映画作りのための各分野における高度な技術を培い、その技術を後続に受け継ぐことを可能とし、よって質の高い映画作りを保証する制度であった。総合芸術と言われる映画製作の現場で、当時各ポジションに就いた職人ともいうべき各々のスタッフたちが、何を行っていたのか。現場で何が起こっていたのか。分野によっては明らかになっているものの、長年注目されなかったひとつひとつを掘り起こし、書き残していくことは、映画学者の一つの使命ではないか。
そんな中、本稿では、元日活専属のスクリプター白鳥あかね氏とのインタビューを通じて、第二黄金期における映画製作の一部を明らかにしたい。白鳥氏は、1955年、日活が映画製作を再開した翌年に日活へ入社し、1980年に退社するまで、中平康、斎藤武市、今村昌平、藤田敏八、神代辰巳、西村昭五郎、根岸吉太郎などの監督の作品に関わった人物である。白鳥氏は、日活が1971年にポルノ映画製作へ舵を切った際、多くの同僚が会社を去ったのにも拘らず、日活にとどまった。その上、男性向けポルノ作品製作の世界へ果敢に飛び込み、スクリプターとしての仕事を全うしたことが最大の偉業と捉えられ、昨今盛んに行われているポルノ映画を対象とした研究において、その仕事ぶりや彼女による言葉に言及する研究者は少なくない。しかし、私が白鳥氏への聞き取りを思い立った理由は、実は全く別にあった。
彼女の著書、『スクリプターはストリッパーではありません』(以下『スクリプター』)を読み進めると、彼女がスクリプターの枠にとどまらず、言わば頼れるお母さん的な存在として、製作中の様々なシーンでアドバイスを求められていた事実が窺える。そして、度々映画衣裳の決定に関わっていたことが記されていた点に、私は注目した。自身の研究テーマは「森英恵と映画衣裳」であるが、1954年より7年以上日活作品の衣裳を多数製作した森氏は白鳥氏と協働したはずである、と推測した私は、衣裳に関する現場の様子や、衣裳担当者の具体的な仕事について、詳細に訊いてみたいと思った。これが第一の理由である。
第二の理由は、白鳥氏が女性であることに因る。前述したように、当時の映画製作現場は極端にオス化した世界であり、スクリプターの仕事は例外的に女性が担っていた。その上、完全にタテ社会である製作現場で、男性たちは序列を意識し、自らの身の位置を把握しながら、役割を担っていたのである。女性監督の数が確実に増加し、「21世紀の女の子」といった映画タイトルが躍る今こそ、白鳥氏のような映画人にお話を伺うことに意義があるのではないか。そう思った私は、取材当時87歳であった彼女に書籍にはないことを訊ければと願いつつ、質問を投げかけた。
意外だったのは、ロマンポルノの製作現場で抱いた感情が、必ずしも前向きなものばかりではなかったと伝えられたことである。そして、ロマンポルノという、男性による世界への彼女なりの応答が『私のSEX白書 絶頂度』(曽根中生監督、白鳥あかね脚本、1976年)であったと知り、改めて、時に割り切れない思いを抱えながら、長年ポルノ製作に白鳥氏が携わっていたことを思い知らされた気がした。
このインタビューを通じて、日本映画史を彩る数々の作品に関わった彼女から見えた映画製作の様子、当時の時代の空気を伝えられればと願って止まない。
衣裳部と衣裳デザイナーについて
辰已:私は日活の50年代の衣裳を研究対象としておりますが、白鳥さんは当時、森さんと一緒にお仕事をされることはありましたか。
白鳥:ええ、50年代の日活は、かなり森さんに頼ってましたね。日活初期の女性衣裳は全部森英恵さんだったから、衣裳合わせではお会いしました。当時私はまだ駆け出しだったから、映画作りの最初の方の打ち合わせに出ていたかは覚えてないけれど、最終的な衣裳合わせにはスクリプターも参加することになっていました。
辰已:白鳥さんの御本(『スクリプター』)によれば、衣裳部の方々からよく相談されることがあったようで、白鳥さんも衣裳の決定に関わっておられたのでしょうか。
白鳥:衣裳部はよく頼りにしてくれました。衣裳部という場所にはたたき上げの人が多くて、もともとは衣裳を「管理する」ことから始まった部なんです。日活には衣裳専門の会社が撮影所に常駐していて、そこの人たちが、破れた衣裳を繕ったり、洗濯したりして清潔に保ち、シーン毎に正確に衣裳を準備し、撮影が終わったらまた洗ったりと、管理をするんです。彼らは衣裳を根本的に考えたり発想したりする人では全くなく、だから森英恵さんが必要だったんです。そこが撮影所システムの問題だな、と私は思っていました。だから森さんがいなかったら何も始まらない、というのが当時の日活で、私も森さんの新宿のお店に行って、そこで会議をさせてもらったりしましたよ。衣裳は森さんにお任せ、という感じで、森さんが全権を握っていて。でも当時私はまだ駆け出しだったから、会議の隅っこで観察、という感じ(笑)。
辰已:衣裳部は男性中心だったんでしょうか。
白鳥:そうです。衣裳部の仕事は重労働で、何十人もの衣裳を管理しなければならないから。それに、男性が衣裳部にいるというのは、昔からの伝統だと思います。
辰已:日活のスター俳優であった石原裕次郎さんや小林旭さんの衣裳も森さんがデザインされていたのですか?
白鳥:彼らのはどうだったかな。ただ言えるのは、森さんがすべての映画に関わっていたわけではないこと。例えば「〇〇組の一員」といった、特定の監督の作品についた場合は森さんが考えたけれど、担当でなければまったくやっていなかった。そこははっきりしていましたね。
辰已:50年代から60年代にかけての日活映画の魅力って、私は衣裳にあると思うのですが、いかがでしょう?
白鳥:うん、それは大きいですね。映画というのは時代の最先端を行っていなければいけない、という意識があって、それは、衣裳、美術、といった、目に見えるものに表されるわけ。だからそういったものが画面に残っているというのは、とっても大事なことだと思います。森さんがついた作品であれば森さんが衣裳デザインをされたけれど、森さんがつかなかった場合は、監督の趣味。セカンドの助監督になると衣裳を担当させてもらえて、監督或いは俳優さんと相談しながら、イメージを作っていく。でもやっぱり一番大事にされるのは、役に対する監督のイメージね。例えば、この役柄は穏やかな性格だから緑、とかだったら、それを基本に、衣裳プランを立てる。日活も初期はお金があったから、森さんのような専門家を引き込んでできたけれど、斜陽期に入ってお金が無くなってくると、助監督が知恵を絞ってやってましたね。でもそれが、監督になるための重要な勉強だったの。
辰已:森さんの印象はどんな感じでしたか?
白鳥:とにかく謙虚な方だった。それから、衣裳のテーマといった大筋のことを監督とよく話し合っていた記憶があるわね。私から見れば森さんは雲の上の人だったけれど、あんまり細かいことを言わない人だった印象がある。やはり一流の人は謙虚よね。
映画製作と女性たち
辰已:映画製作に関わっていた女性について、色々訊かせてください。日本映画の第二黄金期と呼ばれる時代において今より圧倒的に数が少ない女性が果たした役割は、どのようなものだったのでしょうか。
白鳥:基本的にスクリプターはいつも女性の仕事でしたね。ただ、松竹大船撮影所だけは男性。というのも、助監督のセカンドがスクリプターをやるという伝統があって、監督になるためのプロセスとしてやることになっていたの。そうして演出のすべてを学ぶ。でも松竹以外の会社では女性がやっていた、というのも女性の方が細やかで気が付くし、スタッフの中に女性がいると雰囲気が柔らかくなるということもあって、女性がスクリプターを担っていたのね。他にはメイク担当の人が主に女性だったけれど、メイクの人は現場にいない場合が多かったから、現場にいる女性は監督にベッタリとついているスクリプターね。だから私はよく、スクリプターは看護師の婦長さんであるというのを、よく後輩たちに言っていたの(笑)。とにかく院長である監督のそばにいて、色んなことに目を光らせていなければいけないと。さらに映画には編集作業がある。その編集への橋渡しがスクリプターであるから、現場の空気を編集に伝える。だからそういう意味では、同時に脚本の書き方も学べるの。
辰已:撮影スタッフが男性ばかりであった中での苦労は何でしたか。
白鳥:私は逆に楽しかった思い出の方が多いわね。恐らく日活撮影所のカラーというのがあって、日本で一番古い映画会社であったけれど、戦後製作を再開したのが一番遅かったから、何となく開けた雰囲気があって、先輩が後輩に厳しくあたることがあまりなかったの。どちらかと言えば新人を大事に育てるみたいな、そういう会社だったから。
辰已:ただ日活の映画を色々観ていると、例えばロマンポルノとかは女性が男性に痛めつけられるような場面が多く、そのような映画をつくる女性観を持った男性陣と働くのは一体どんなものだったのかと思ったりして。
白鳥:だから私は不満だったの。つまりいつも女の人が泣かされていて、男の目線からしか描かれていなかったので、それで自分も脚本を書こうと思い、また、書きませんかとプロデューサーに言われたこともあったので、それで自立する女を描きたくて描いたわけ。それが『私のSEX白書 絶頂度』(1976年)。やっぱり自分が動くしかないと思ったの。このまま男にだけ任せておいたらロクなロマンポルノはできないと(笑)。そういう意味では挑戦してよかったと思う。
辰已:『恋人たちは濡れた』(1973年)でのレイプシーンとか、今見ても衝撃的ですね。よく女優もあの役を引き受けたなぁ、と(笑)。
白鳥:まぁ、それは仕事だからね(笑)。でも神代さんはずいぶんフェミニストな方だったのよ。女優さんが役を演じたがらない場合は撮影をストップさせて、辛抱強く待ったりもしたし。何十人ものスタッフが、天気がいい中でポケ―っと待っててね。それで女優は納得できるまでフラフラ歩いてて。その気持ちはやはり女性じゃないとわからないのね。「今、私はどうしてここでこんなことをしてるんだろう」と、女優は目覚めて突然思うわけ。私はその気持ちがよく分かったから、決して無理強いしないで本人の好きなようにさせたの。でも私はロマンポルノに関わったおかげで本当にいろんなことを学んだわね。人間の心理もそうだし、後に本を書くのにとても役立ったわよ。会社がロマンポルノに路線変更するとなったとき、ポルノへの偏見を持った人は辞めざるを得なかったけれど、私や神代さんは、とにかく映画なら何でもいいや、と(笑)。自分たちは映画を作りたいのだから、石に齧りついても撮影所にいるしかないと。そういう人だけが日活に残ったの。逆に、映画に対して熱い思いを持った人だけ残ったから、会社は選別する必要が全くなかった。だから世の中不思議よね(笑)。それで夫(白鳥信一監督)も日活に残ったから、生活に不自由はしなかった。
辰已:団地妻シリーズとか、必見ですね(笑)。
白鳥:そうね。団地は不倫の象徴、みたいな(笑)。大学の先生もロマンポルノを推奨している、とよく聞くわよ。
辰已:ロマンポルノの頃の衣裳はどのように準備していたのでしょうか。森さんのような専属デザイナーを雇うお金もなかったでしょうし。
白鳥:70年代になると、倉庫に結構衣裳がたまってきたの。それで、たまった衣裳を使って何とかやりくりしていたわね。監督が希望する衣裳がどうしてもない場合は、新調する。それでも一着かせいぜい二着ね。あとはちょっと直したりしながらすべて使い回して、工面するようになったわね。でも逆に衣裳部の人たちと工面するのが私は楽しかったわよ(笑)。
辰已:そう言えば、私が日活の女性と言って他に思い出す人は水の江滝子さんですが。
白鳥:あ、水の江さんね。素敵な方だった。宝塚出身なだけあって、すごく男っぽくてハキハキしててね。だから水の江さんの言うことは誰もが何でも受け入れていた。明るい性格だったし、彼女が言うことはみんな納得して聞いてたわね。とにかく人を動かす力があった。
辰已:白鳥さんから見て、水の江さんは日活にとってどんな存在だったと思いますか。
白鳥:やっぱり初期の人材不足の時、切り盛りする人がいなかったときに、てきぱきと動いて、当時の日活をリードしたという意味では、ものすごく貢献した人だと思う。プロデューサーだけが良い企画だと思っていても、とにかく俳優や監督に人望がないとただの役立たず。男性でも彼女の言うことはよくきいていて、とにかく別格だった。彼女がいたからこそ、日活は日本で一番古い会社なのに一番近代的だったのかな、という気はする。何でも言いやすい環境をつくってくれたから、私は何か思ったら何でも言っていた(笑)。
撮影現場において
辰已:白鳥さんは神代監督以外では斎藤武市監督とずいぶん組んでおられましたが、渡り鳥シリーズはその中でも代表作ですよね。
白鳥:それこそ、あのシリーズの女性衣裳は森さんが担当よ。あれは歌がいいわよね。ロマンがあって。あの映画では神代さんがチーフ助監督だったの。だから渡り鳥シリーズが持っていたロマンティシズムがそのままロマンポルノに引き継がれている、と、私はつくづく思ったの。一緒に渡り鳥を作っていた人たちはずいぶん辞めたけど、チーフ助監督の神代さんとスクリプターの私は残って、そのままロマンポルノを作って、渡り鳥の面影をどこかに残したのね。自分たちの中に流れている血、みたいなものが自然に反映された、と。ただ技巧的につくる訳ではなく、人間には感性というものがあるから、渡り鳥の感性がそのままポルノに繋がっている、という。映画は機械が作るものではなく、人間が作るものだから。
辰已:作品群からは、渡り鳥の作品はどれも西部劇を始めとしたハリウッド映画やヒッチコックの影響が見受けられるのですが、スタッフの皆さんもそのように感じていましたか。
白鳥:私たちスタッフはそこまで意識してはなかったわね。ただ確かにこの(『スクリプター』に掲載された小林旭の写真)馬に乗った姿の構図は完全にハリウッド映画よね。
辰已:なので斎藤監督にハリウッド映画が与えた影響は大きかったのか、と。
白鳥:いや、斎藤さんへはむしろ小津安二郎さんの影響が強かった。いつも小津先生の話をしていて、とにかく松竹時代に養った小津さん仕込みの美的感覚を何とか映画に生かしたい、とずっと思っている人だったのね。だから単なる西部劇を作ろうとは思ってなかった。日活に来て宍戸錠たちを使って西部劇スタイルの作品を作ったけれど、その根底に流れているのは小津安二郎の精神だから、あのような抒情的な画面が生まれたんじゃないかな。大ヒットもしたし。斉藤さんもセカンド助監督としてスクリプターの仕事を松竹大船で学んだから、私のことも演出を理解できる人間として育てようとしてたわね。
辰已:斎藤監督は厳しかったですか。
白鳥:とてもやさしかったわよ。俳優にもスタッフにも。だから斎藤さんと神代さんは名コンビだった。
辰已:面白いですね。中平康監督も製作が再開された初期に活躍しましたが、中平監督との仕事の思い出はありますか。
白鳥:あまりに昔のことであんまり覚えてないんだけれど、感動した記憶はある。とにかく言うことが新しくて、もちろん考えることも新しい。ただ、中平さんの初監督作品(『狙われた男』(1956年))と私のスクリプター一本立ち初作品が同じで、会社としては初めて同士でどうなんだろう、と。でも人材不足でそんなことも言っていられなかったのね(笑)。それに中平さんが「大丈夫だよ」と言ってくれたのが大きかった。彼も松竹大船出身で、スクリプターの仕事を助監督セカンド時代に学んでいたから。だから私をスクリプターにしてくれたのは、中平さんと斎藤さん、この松竹出身の二人ね。私はラッキーなの。中には泣かされてスクリプターになれずに辞めていった人もいるし。映画の撮影って特殊で、大勢の人と働けるコミュニケーション力が大事な世界だから。そして特にスクリプターにはそれが求められるから、人望がないとだめね。私に人望があったかというと…だけど、当時は私もかわいかったのかな(笑)。だからかわいがられて成長したのよね。松竹出身の中平さんと斎藤さんのお陰ね。
辰已:あと、白鳥さんが関わられた映画で外せないのが、『人魚伝説』(1984年)ですよね。
白鳥:あぁ、撮影が大変だったからね。この映画でも主演の白都真理が途中で動かなくなっちゃったから、監督が何とか動いてもらおうと、彼女に延々と話すわけ。その間私たちはずっと待ってなければならず…というのは、色んな撮影で経験しているんだけれども。やっぱり写す方と写される方は根本的に違うのよね。写される方は身一つでやらなければならない。だから写される方の身になったら気持ちがわかる。でも素晴らしい天気なのに撮影が進まないということが本当に多くて、それがこの映画の記憶ね。普通なら、段取りさえ整っていればちゃんと撮影が進むのに。でも女優さんの気持ちは大事だから、無理強い出来るものではない。毎日がそんな戦いだったわね。女優さんだって覚悟のうえで仕事を引き受けているはずだけれど、理屈と感性って別物で、いざとなると身体が動かなくなる。理性では「私は女優だし、スタッフを困らせている」と分かっていても、実際問題として身体が動かない、と。そんな苦労は本当に多かった。逆に、それでも映画を作りたい人が最後に残ったわよね。だから皆口には出さないけれど、同志意識みたいなのは確実にあった。ロマンポルノを支えたものも、その意識だったと思うのよ。それでみんな体張ってやっていた。女優さんはもちろん、スタッフのみんなもね。
仕事を通じての思い出
辰已:体張ってやっていた人がいた一方で、スクリプターの仕事を続けず辞めた人は多かったのでは。
白鳥:もちろん。子供がいじめられるとか、態が悪いとかね。或いは若い女性の場合では、親が理解しないという理由の人も。だから逆に、世間を気にしない、何が何でも映画を作り続けたい人だけ残ったのよ。同僚の夫とも退職絡みの話は一切しなかった。でも二人とも残ったのよね。夫婦といえども意思決定の自由はあるから、もし夫が日活を辞めたいのなら止めるつもりはなかったんだけど。それに当時夫は結構テレビの仕事で売れていたし(笑)。路頭に迷うこともなかった。
辰已:とは言え、子育てしながらのお仕事は大変だったと思いますが。
白鳥:それに関しては、私は親に感謝している。母が高校教員だったのもあり、共働きへの理解があったから、子供の保育園へのお迎えなどいつもしてくれたの。さすがに40日間のブラジルへのロケ撮影(『地球40度線 赤道を駈ける男』(1968年)のこと)には反対されたけど(笑)。でもその撮影は本当に楽しかった。今の若い人には若いうちに何でも挑戦してほしいと思う。若い時は二度と戻ってこないから。
辰已:あと、今村昌平監督との仕事もすさまじかったようですね。
白鳥:ハハハ、でもイマヘイさん(今村監督のこと)にはかなりお世話になったから逆らえなかったのよ。結婚式まで面倒見てもらってさ。結婚したくてしょうがない浦山(桐郎)に「お前は結婚どうすんだ!」と白鳥は脅されて刺身のツマにされたのね。で、二組でイマヘイさんに頼めば彼も(面倒を見るのを)断らないだろう、と浦山が目論んだ結果、白鳥はたいして結婚する気もなかったのにすることになったの。だから白鳥はかわいそうだったの(爆笑)。幡ヶ谷の公民館を美術の人たちが飾って、式を挙げてくれたの。日活の職員全員が来てくれたから、撮影はお休みよ(笑)。当時は『幕末太陽伝』(1957年)の撮影中だったから、フランキー堺と小沢昭一が司会をやってくれたの。最前列には川島雄三。大口開けて笑ってた。
辰已:映画から受ける印象とは違いますね(笑)。しかしいい時代でしたね。
白鳥:そうね。これから上り坂という時だったしね。イマヘイさんはお祭り騒ぎが好きな人だったし。
辰已:でも今村監督の映画は真逆な内容ですね。人間の醜さを徹底的に描く姿勢とか。
白鳥:うん、イマヘイさんとは何本も仕事したけれど、あの、徹底的なリアリズムはすごいわよね。それは一つの映画の在り方だと思う。でも私は日活に入って、素晴らしい師匠たちに巡り合えて、本当に幸せな映画人生だったと思う。
辰已:そういった素晴らしい映画人の方々がみんな亡くなってしまわれて、残念で仕方ありません。
白鳥:だから私にこの本(『スクリプター』)を書くことを勧めくれた人たちは、このタイミングしかないと思ったんだと思う。つまり、これからどんどん映画が移り変わって行く時代において、書き残しておくべきことは今じゃないと書けない、そう思ったんでしょうね。出版社はすごいと思う。この本が残ったことだけでも自分は幸せだと思う。
辰已:私も読んでいて、わからなかったことが判ったりしてとてもありがたい本です。
白鳥:あ、こうして若い世代の人が読んでくれて、とてもうれしい。現場の雰囲気が伝わるのは大事なことよね。
面会を終えて心に残ったこと、それは、白鳥氏が持ち続けた映画製作への情熱である。ライフステージにおいて、妊娠や子育てといった女性ならではの局面を迎えながらも、「映画をつくりたい」という自らの意志を貫いた白鳥氏は、デザイナー人生70年を迎える森英恵氏への共感を隠さなかった。こうした女性に活躍の場を与えた戦後の日活もまた、当時においては良い意味で特殊であったのではないか。1954年の製作再開後の日活は、助監督やアシスタントの立場からなかなか抜け出せない自らの現状を打破したいと願う、エネルギーに溢れた若者たちで活気があったと白鳥氏は述懐していた。戦後の高度経済成長に加え、水の江滝子の存在もあり、日活は女性の活躍に対しても他社と比較し開かれていたのかもしれない。
1960年代に入ると日活の経営は悪化の一途をたどったが、女優の育成に力を注いだ点は特筆に値しよう。そしてロマンポルノ時代の女優たちが90年代以降も映画とテレビの両方で活躍したことは言うに及ばない。改めて、女性映画人による働きへの注目が今後も必要であることを痛感した。
面会は、2020年2月23日、川崎市アートセンターにて行われた。インタビューを快諾してくださった白鳥あかね氏、川崎市アートセンターの皆様、白鳥氏と私の橋渡し役を担ってくれた秋永広美氏には、この場をお借りして感謝の意を表したい。
辰巳知広(京都大学)