研究ノート

アウレーリ、タフーリ、ロッシ、ポレゼッロ──建築理論における「ヴェネツィアン・セオリー」の水脈

片桐悠自

アルド・ロッシ(Aldo ROSSI, 1931-1997)の逝去20周年を兼ね、2018611-13日に「国際アルド・ロッシ会議」(International Conference Aldo Rossi)が催された(Fig.1)。この国際会議は、ミラノコムーネの援助のもと、ミラノ工科大学で開催され、ヨーロッパ各国だけなく、北アメリカ、東アジア、オセアニア地域にわたって十数か国から研究者が集まった。ロッシの家族も駆けつけ、大いに賑わった当シンポジウムは、定期的に続くのか、今のところ不明であるが、人文学的交流の場としての継続が期待される。

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Fig.1. International Conference Aldo Rossi, 2018.

思えば、建築分野で個人名を冠した「国際学会」が開催されるのは珍しい。芸術と工学の間を行き来しながら、現状の社会体制と産業体制に密接に結びついている建築領域では、個人名をどこまで、「作家」として扱ってよいものか、悩ましいものである。

おそらく他の工学教育もそうだろうが、建築教育では、基本的に良き就職人となることを前提に多くの学生が学んでいる。大学理系教育としての設計課題では、モダニズム運動の建築文化を学び、ある程度の「モダニズム様式」を翻案して課題を提出しなければ、評価対象になりにくいというのが実情である。

私見では、モダニズム様式のこのようなヘゲモニーは、戦後の資本主義体制の下、徐々に旧西側諸国で定着していったと考えられる。アルド・ロッシという人物は、こうした工学教育の実務主義に異を唱え、学園闘争下の実験的な教育に携わるうちに、1971年11月にミラノ工科大学の教職を追われた*1

*1 1968年前後にロッシが関わった学内闘争ならびに、1971年の罷免の状況、彼の助手であったジョルジョ・グラッシ(Giorgio GRASSI, 1935-)との建築教育上の関係については、以下を参照; ANDREOLA, Florencia Natalia, ARCHITETTURA INSEGNATA ALDO ROSSI, GIORGIO GRASSI E L’INSEGNAMENTO DELLA PROGETTAZIONE ARCHITETTONICA (1946-1979), Dottorato di ricerca in Architettura, Scuola di Dottorato in Ingegneria Civile e Archit ettura Università di Bologna, 2015; http://amsdottorato.unibo.it/7465/1/Andreola_Florencia_tesi.pdf

ミラノ工科大学罷免後、スイス・チューリッヒ工科大学(ETH-Z)の客員教授を経て、1974年にヴェネツィア建築大学(IUAV)に赴任し、1997年に没するまで教鞭を執った。1968年前後の大学紛争へコミットした際にロッシは、モダニズム様式偏重の「職能主義professionalismo」への嫌悪を顕にしている。

君が私の学生だった頃、確か68年ぐらいに私たちは「テンデンツァ」について議論した。それは、私たちの建築とインターナショナルスタイルとの違い、職業主義の建築との違いについて説明するためだった。ここで、私たちはテンデンツァこそ建築のオルタナティブであると話したね。つまり、それは、政治・文化について議論しイタリアの現実について一致団結する意識であり、私たちの忌々しい母校ミラノ工科大学のような大学において、我が物顔にはびこるアカデミズムと商業主義の制度を粉砕するための意識なんだ。さもなくば、「合理的建築["Arch. razionale"]」の意義なんてなくなってしまうだろう*2

*2 ROSSI, Aldo, I quaderni azzurri, copia anastatica a cura di F.Dal Co, Electa, 1999. [以下『青のノートI quaderni azzurri』各巻について、QA(巻号)と執筆された日付を表記]; QA25の1979年6月18日における弟子のボニカルツィへの手紙の下書き.

建築教育の職能主義に闘争し、異を唱える理論家ロッシの志を現代に受け継いでいるのが、ピエール・ヴィットーリオ・アウレーリ(Pier Vittorio AURELI 1973-)であるといえるだろう。IUAVで学んだアウレーリは、建築における現代的な論客の代表格に据えられる。近年訳されたThe Project of Autonomy (2008, 邦題『プロジェクト・アウトノミア』)をはじめ, The Possibility of an Absolute Architecture (2011), City as the Project (2014)などで知られるアウレーリの著作は、ロッシのマルキスト的な理論的側面を継承し、現代的な状況のなかで再構築する意欲的な試みを志向している。

本ノートは、アウレーリの解釈の一助として、IUAVで教鞭を執った3名の人物、ロッシ、マンフレード・タフーリ(Manfredo TAFURI 1935-1994)、ジャンウーゴ・ポレゼッロ(Gianugo POLESELLO 1930-2007)を取り上げたい。彼らは、アウレーリがかつて学んだIUAVで建築教育に携わり、実務主義に〈対抗コントロ〉しながら、思想的水源をもとに建築理論を構築した先賢たちである。

この3名は、アウレーリへの影響が示唆されるだけでなく、1968年以降の建築教育にも強い教育的影響を及ぼした建築運動「テンデンツァ La Tendenza」に少なからずコミットしていた人物であった。特にロッシとタフーリの交流はよく知られているところである。断片的ではあるものの、3者の歩みと交わりを拾いながら、「ヴェネツィアン・セオリー」の水脈を辿ることにしたい。


1.〈限界の思考〉としてタフーリ/ロッシを措定すること

20世紀末を代表する建築史家・理論家、マンフレード・タフーリは、発展史観にに支えられたモダニズムの単線的な歴史にも、ポストモダン的な際限のない言語ゲームにも与しない。こうしたタフーリの立場を、岡田温司は『イタリアン・セオリー』の中で、以下のように指摘する。

『球と迷宮』においてタフーリはフーコーに依拠しながら、唯一の歴史、「真の歴史」といったイデオロギーを批判するが、同時に、複数性や多様性の認識それ自体がひとつの統一的な原理となってしまう、という危険性も指摘している。それぞれの立場のもつ危険性にも気づいているタフーリにとって、(ベンヤミンやカッチャーリにとってもそうであるように)弁証法の安易なジンテーゼ(総合)はむしろ拒絶され、危機や葛藤や不一致こそが重要な課題となる。かすかな“開かれ”、変容の声を聞く能力としての天使が姿をあらわすのは、そこにおいてである*3

*3 岡田温司『イタリアン・セオリー』, 中央公論新社, 2014, p.133.

歴史家・建築家のイデオロギー嗜好ならびに嗜好の体系化の危険性に自覚的な点を探りながら、どちらにも与しない立場を選択するというタフーリのアクチュアリティを、岡田は、「限界の思考」と名付ける*4IUAVで教鞭を執っていた、「否定の思考」で名高い哲学者マッシモ・カッチャーリとタフーリの間に思想的交感があったという岡田の指摘は、鋭い補助線をなしている。

*4 Ibid., pp.174-175.

タフーリにおける「限界の思考」の源泉を探るにあたって、1960-70年代におけるアルド・ロッシとの交流が手がかりとなる。ロッシの日記を兼ねた手記『青のノートI quaderni azzurri』には、タフーリからの賛辞の手紙が書き写されている。

マンフレード・タフーリの手紙とその返事。彼の見解はいつも興味深い。

「君の翻案とは、シクロフスキーがフォルマリズムについて行ったそれである。砦ではためく軍旗の色を決して持たない芸術についての」[...]

「再び私は芸術の道のりを定義づけたいのだ。芸術の道のりは、その反復に感じられ、それは現実との関係、軍旗の色への闘争との関係を、感情のため、いわゆる魂のために、定義することだ。」

私にはとても美しく感じられた。たとえ、批評家というものが物事をこれまで体系化してきたとしても。

実際、おそらく、芸術家にとっては三者以上の事物も、二者も、その全て真実である。

「物体性を欠いた君の物体は、一瞬のうちに空虚となってしまうような意味を喚起し、世界を拒否するのだ。それはまさしく〈個人的詩学〉としての性質をもつ。物体のごまかしがより少なくなるほど、それらは、ヘルメス的沈黙の内に閉じこもってゆく。」

たぶん、その通り。何故だろう?打算の感覚?たぶん違う。でも意味を前にしたときのなんらかの弱さかもしれない。つまり、すべての意味に「不可[insufficienza]」を押すこと*5

*5 ROSSI, op.cit., 1999; QA(10)19711121日の記述.

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Fig.2. ROSSI, Fountain in Segrate, 1965-1967.

例えば、ロッシによるパルチザン追悼モニュメント「セグラーテの噴水」(1965, Fig.2)は、「原始の小屋」でもあり、新古典主義のフォリーでもあるかのような佇まいを見せている。エスキースの段階でC.N.ルドゥーの「河川管理人の家」を参照して設計された一方で、アドルフ・ロースとミース・ファン・デル・ローエに私淑し、ル・コルビュジエやアトリエ5の作品を参照していたロッシは、明快に「モダニズム様式」を踏襲している。タフーリが「ヘルメス的沈黙」「シクロフスキー的翻案」というフレーズで語らんとするロッシの魅力は、打放しコンクリートと白いペンキの仕上げで構成されたモニュメントの「貧しさ」と、様式上の判断が宙吊りにされたかのようなそっけない構成にあると示唆される。

後にタフーリは、『球と迷宮』で、ロッシの構成上の詩学に、「沈黙」を読み取り、モダニズムともポストモダンとも異なる独自の位置づけを与えた。ロッシもまた、タフーリの評価を継続して追っており、『球と迷宮』での言及を手記に書き写している*6。ロッシの方もまた、「無意味の意味」を評価するタフーリの言に心惹かれ、互いに意識し合いながら、交流関係を深めていた。

*6 Ibid.; QA(27)の1980年3月27日の記述ならびにQA(28)の1980年4 月20日から8月までに記入された箇所.


2. 境界リミタリオの都市計画:「チェントロ・ディレツィオナーレ」から「シティ・ウォール」へ

今から約半世紀前の1962年に行われた「トリノのチェントロ・ディレツィオナーレ設計競技」には、タフーリが設計をおこなっていた頃の提案が残されている。

タフーリは、ヴィエーリ・クィリチ(Vieri QUILICI)、ジョルジョ・ピッチナ―ト(Giorgio PICCINATO)とともに「Studio AUA (Architetti Urbanisti Associati)」を設立し、1964年まで設計活動を行っていた*7。著書The Project of Autonomyでアウレーリは、Studio AUAの「トリノのチェントロ・ディレツィオナーレ」設計競技案(Fig.3)と、ポレゼッロ、ロッシ、ルーカ・メーダらのグループの提案(Fig.4)を対置する。

*7 Studio AUAにおけるタフーリの活動は以下も参照 ;FRAJNDLICH, Rafael Urano, Dois projetos: os anos de formação de Manfredo Tafuri, pós v.23 n.39 , são paulo, junho 2016, pp.72-90, https://www.researchgate.net/publication/305077131_Dois_projetos_os_anos_de_formacao_de_Manfredo_Tafuri

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Fig.3. Studio AUA, Centro Direzionale di Torino, 1962.

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Fig.4. POLESELLO, ROSSI, AND MEDA, Centro Direzionale di Torino, 1962.

新しい都市のスケール-寸法ディメンションというテーマを、文化的・技術的価値を以って、メガストラクチャーや有機主義的建築といった、開かれた形式に翻案するエントリー作品が数多く見受けられたことは驚くに値しない。タフーリとピッチナートに率いられたStudio AUAの作品もその中に含まれている。

ロッシ、メーダ、そしてポレゼッロは、こうしたシナリオに対抗するかのように、内側に中庭の形式を持つモニュメンタルな正方形状の建物という禁欲的で閉じられた形態を提案した。彼らの提案は、19世紀後半のトリノ中心市街地に巨大なシナゴーグとして建造されたアレッサンドロ・アントネッリの〈モーレ〉のアルターエゴとして、弁証法的に自身を対置させる。モーレ・アントネッリアーナの正方形平面形式と、ロッシ-メーダ-ポレゼッロの中庭型建造物は、ともに巨大構造物としての都市の中でのモニュメンタルな例外性としての位置づけにもかかわらず、トリノの市街を構成するチェス盤のようなローマン・グリッドから押し出されたものとして位置づけられるのだ*8

*8 AURELI, Pier Vittorio, The Project of Autonomy Politics and Architecture within against Capitalism, Princeton Architectural Press, 2008, p.67.

タフーリ、ピッチナート、クィリチによるStudio AUAの提案は、ガスタンクかと見紛う巨大な円筒を中心に据えたメガストラクチャーを都市の内部に配置している。巨大構造物の拡張可能性を仄めかしながら都市のコアを計画する提案は、当時のイタリアでも取り沙汰されていた日本のメタボリストたちの提案を彷彿させる。こうした提案は、土地投機と無限の開発を推進する建築家のエゴとして、後世のディスクールで批判対象となる*9

*9 アウレーリのロッシ論は、The Project of Autonomyの前年に発表された以下の論考を参照。Studio AUAの提案はアレッツォの1963年の会議で都市計画的成果として発表されたが、ロッシはこれを激しく批判した; AURELI, Pier Vittorio, "The difficult whole", Log (9), 2007, p.53.

「開かれた都市計画」を鋭く批判したものとしてアウレーリが評価するのが、ポレゼッロ、ロッシ、メーダら「SDA (Studio di Architettura)」の提案である。いみじくも、アウレーリは、後に批評家として名を成したタフーリらの提案よりも、ロッシが批評的であったと指摘する。アウレーリによれば、SDAのトリノの提案は、当時のトリノの労働運動の深化ならびに資本家を含む支配階層との対立を表明したものであった。

(SDAの提案の)ハードコアな特徴は、労働者権力の新しい地理的状況を露呈していたトリノという都市のうちにあって、市民的レファレンスとなることを提案したがゆえに、支配階級の利益を代表する人々に糾弾されたのだ。こうした人々は、労働の効率主義かつ未来主義的なエデンを表す「チェントロ・ディレツィオナーレ」というレトリックに、彼らの権力を隠して置きたかったのだ*10

*10 Ibid., p.68.

SDAの提案した巨大構造物は、コンペの入賞者の一人であるカルロ・アイモニーノによって評価されたものの*11、入賞に至るどころか、リジェクトされ、「反動的建築」「スターリニズム建築の中庭」という批判を受けた。原初的な幾何学の示す形態の強さは、正統派のモダニストたちの反感を買ったのである。

*11 「ポレゼッロ-ロッシのグループの提案においては、都市的レベルでの形態を想定可能なようには思えないが、これは、設定された機能的量から求められた帰結であり、そのレベルに対応した建築的«次元»についての帰結であるように見える。そこから反復可能となるような(«モデル»となるような)形態的解決が導かれる」; AYMONINO, Carlo, Il significato della città, Marsilio, 2000, p.59.

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Fig.5. HEYS, Architecture’s Desire, 2004.

付言するなら、アウレーリは、「チェントロ・ディレツィオナーレ」を描いたロッシのスケッチをArchitecture’s Desire (The MIT Press, 2004, Fig.5)の表紙にすることをK・マイケル・ヘイズに提案した。トリノの市街のグリッドの形式とモーレ・アントネリッアーナの平面が並べられたこのスケッチでは、正方形形式による建築と都市の対応が表現され、トリノ市街のグリッドの都市組織を援用し、正方形という「閉じた形式」が提示されている。

アウレーリは、マルティーノ・タッターラ(Martino TATTARA)とともに主宰する設計事務所DOGMAの計画「シティ・ウォールCITY-WALLS」(2004, Fig.6)は、SDAのトリノの案の影響が顕著である。このアンビルトのプロジェクトは、5km四方の正方形内部に、十字型の巨大構造物が反復され、予め確定した「境界」を形作る。閉じられた領域として境界を決定し、開発を内部に収めるという点で、ポレゼッロ、ロッシ、メーダの提案の影響が色濃く現れている。

建築は、計画-投企[progetto]として、「開発」という行為を免れ得ない。ある閉じられた境界内で、グリッドを面ではなく、線として、十字形の巨大構造物を反復した。アウレーリは近年の論考で、人類史上何度も反復されてきた、建築と都市に用いられてきたグリッドの形式を、土地所有におけるオブジェクティブな技術として捉え、先史時代を視野に系譜学的に論じている*12が、この提案は、碁盤目状に無限に展開されるグリッド状の都市計画に対するオルタナティブとして意図されている*13

*12 AURELI, Pier Vittorio, Appropriation, Subdivision, Abstraction: A Political History Of Urban Grid, Log(44), Fall 2018, pp.139-167.
*13 アウレーリの「シティ・ウォール」は以下の書籍でヴィジュアライズされ、アルキズーム[Archizoom]との「ノー・ストップ・シティ」の対照がなされている。分担執筆者の大村高広による論考も参照; 図研究会『図5:建築と都市のグリッド』, 東海教育研究所, 2020, pp.106-107.

その意味で、「シティ・ウォール」はグリッド区画と土地所有の関係をマニフェスト的に図示している。

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Fig.6. DOGMA, CITY-WALLS, 2004.

資本主義的開発の無限の成長に与さず、かといって開発それ自体を否定しないDOGMAの姿勢は、タフーリ的な「限界の思考」のプロジェクトとしても解釈できるだろう。資本主義社会の際限のない成長と建築家による開発の寄与への葛藤が示されており、アンビルトのプロジェクトであるという点からも、ドライな批評性を示しているといえるだろう。


3.ジャンウーゴ・ポレゼッロ:「オッカムの剃刀」と清貧さ

アウレーリ自身は深く踏み込んでいないものの、興味深いことに、彼の思考の先鋭化からの単純幾何学への好みには、SDAによるトリノの計画をロッシとともに主導したポレゼッロの建築思想が関わっていると筆者は睨んでいる。IUAV出身であるポレゼッロはロッシ、メーダとともに、1960年代初頭に、SDAを設立する。数年で協働は解消されたものの、ロッシ急逝の一年後にIUAVで追悼シンポジウムを主催するなど、両者は深い関係にあった*14

*14 なお、1960年代初頭のSDA[Studio di Archietttura]の共同設立期のポレゼッロ-ロッシの共有理念とトリノの提案におけるポレゼッロの寄与については拙論を参照; 片桐悠自「ジャンウーゴ・ポレゼッロの設計思想とアルド・ロッシとの円柱論争”—「ポレゼッロ-ロッシ」の青春時代の協働とテンデンツァ運動への理論的寄与, 『日本建築学会計画系論文集』, 85, 777, 202011, pp.2437-2445.

ジュゼッペ・サモーナとイニャーツィオ・ガルデッラの薫陶を受けたポレゼッロは、IUAVの教員となり、ロッシ、タフーリ、アイモニーノらと長年の同僚であった。同じくIUAVの同僚であったカッチャーリは、1992年のポレゼッロ作品集の序文において、その構成要素の少なさを称賛する。

ポレゼッロの「図式-計画スケーマ」は大変な複雑さに達しているものの、それでもなお理念のシンプルさを表明し続けている。「シンプルさとは真実のサインである」[Simplex sigillum veri]。多様性、発展、境界[fine]への最大限の配慮といったものによって、原初的な幾何学、根源的な細胞が決して隠されることはない。最小限の文字と音が言葉の無限の発明に生命を与えたように、リスト化された最小限の要素が建築を個別化する。〈経済性〉のこの原則は―まさしくオッカムの剃刀として―冗長ではなく多様性を、〈誘惑“se-duzioni”〉ではなく発展を、可能にし、むしろ強く要求する。組み合わせの解決の豊かさとは、根源的な〈テクスチャ“trame”〉の最大の清貧さ[la massima povertà]を以って到達したところで初めて、〈興味深く-魅力的に”interessante”〉なるのだ*15

*15 CACCIARI, Massimo, "Sul metodo di Polesello", Gianugo Polesello: Architettetura 1960-1992 (Documenti di Architettura), Electa, 1992, p.7.

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Fig.7 POLESELLO, Project for the Office for Chamber of Deputies, Rome, 1966.

この建築家は、実現された作品は少ないものの、「トリノの提案」以降も、強い幾何学的図式を用いた設計活動を一貫して継続した。ポレゼッロの初期の代表作である「ローマの下院議会新庁舎案」(1966, Fig.7)は、限りなく正三角形に近い二等辺三角形が平面形式に選択され、原初的な幾何学の探求の試みが見られる。

この提案の三角形平面は、ポレゼッロの原初的な幾何学への志向が顕著に現れるとともに、トリノの提案で選択された正方形および円形と関連づけられる。同時に、幾分飛躍的かもしれないが、三角形内部のストライプ状の分割の構成は、後に、レム・コールハースが「ラヴィレット公園設計競技案」で、妹島和世が「再春館製薬女子寮」で提示したストライプ状の分割の構成を、アナロジカルに予感させる。

ポレゼッロの厳格な幾何学を語るにあたり、カッチャーリが言及するポレゼッロの「清貧さ」には、イタリア的アクチュアリティとして何度も立ち現れるアッシジの聖フランチェスコが示唆される。建築思想に「貧しさ」の美学を見出すにあたり、イタリアに絶えず立ち現れる聖人をポレゼッロになぞらえ、幾何学の「清貧さ」を讃えているのだ。

なお、ここで、カッチャーリが言及する「シンプルさとは真実のサインである [Simplex sigillum veri]」というフレーズは、アントニオ・ネグリによる同名の論考*16の掛詞となっている。ネグリがマイケル・ハートとの共著『帝国』を締めくくったのもアッシジの聖フランチェスコであることからも、カッチャーリは、袂を分かったはずのネグリの思想をポレゼッロに見ているのかもしれない。

*16 Negri, Toni, Simplex sigillum veri. Per la discussione di Krisis e di Bisogni e teoria marxista, Aut Aut (155-156), 1977, pp.180-195. 以下も参照; ASSENNATO, Marco "Il dispositivo Foucault: Un seminario a Venezia, dentro al lungo Sessantotto italiano", http://www.engramma.it/eOS/index.php?id_articolo=3419

原初的な幾何学を用いたポレゼッロの探求については、間瀬正彦の研究により、グリッド状の架構モデュールに公倍数を用いた2つの基本値があることが明らかにされている*17。ある意味で、グリッド・モデュールによる立方体格子の志向は、J.N-L.デュランが目指した立方体格子*18の先鋭化ともいえ、モデュールにおける「貧しさ」をも志向している。

*17 1990年代のIUAVに留学し、ポレゼッロに直接師事した間瀬は、帰国後、彼のモデュールに関する形態分析を、学位論文として提出した。ポレゼッロの断面図・平面図において、公倍数となる15mが基準となる3.75m3mという大小2つのモデュールが用いられていることが明らかになっている。建築技術と意匠が一体となった構成論的研究として、デュランとの関わりも示唆される。「デュランにおいては、〈軸間〉を単位とした平面格子を高さへ拡張して立体格子を構成しようとしていたことは指摘されることだが*、ポレゼッロにおいても同様のことが指摘できる」;間瀬正彦『建築設計計画過程の体系化に関する研究-ジャンウーゴ・ポレゼッロの設計方法の分析を通して』, 東北大学大学院工学系研究科博士論文, 1994, p.17.
*18
デュランの立方体格子への志向とその実践における葛藤については以下を参照。なお、間瀬(1994)でも、本論文がポレゼッロの手法とデュランの手法が対置的に触れられている。; 加藤道夫「J.N.L.デュランのコンポジションについて」, 『日本建築学会計画系論文報告集』, 第 440 号 , 1992 年 10月, pp.149-156. https://www.jstage.jst.go.jp/article/aijax/440/0/440_KJ00004077084/_article/-char/ja/

ある意味では、アウレーリらが「シティ・ウォール」で境界づけたグリッド形式とは、ポレゼッロが試みたグリッド・モデュールへの興味および形式の「貧しさ」の継承であるとみることもできよう。IUAVで長年教鞭をとり、ディーンも務めたポレゼッロの形態的志向が現代に継承されている可能性を指摘した上で、一度筆を置きたい。

図版引用
Fig.1, 2. 筆者撮影.
Fig.3. Frajndlich(2016)
Fig.4. Canadian Centre for Architecture, last accessed on 31 July 2020.
Fig.5. Architecture's Desire | The MIT Press, https://mitpress.mit.edu/books/architectures-desire
Fig.6.『図5:建築と都市のグリッド』(2020)
Fig.7. Gianugo Polesello 1960-1992 (1992)

片桐悠自(東京理科大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年10月20日 発行