単著

前川修

イメージのヴァナキュラー 写真論講義 実例編

東京大学出版会
2020年4月

前著『イメージを逆撫でする』から程なくして刊行された本書は、著者がその理論編に続く実例編として、これまでに発表した9本の論考に大幅な修正をくわえて収録した著作である。その表紙を開いた読者は冒頭、2011年の震災直後に瓦礫の中で集められたアルバムの台紙から無数の匿名写真を引き剥がすという、ショッキングな体験をめぐる記述に出会う。そうして写真の生々しい手触りを刻み込まれると、その後には19世紀を中心とする写真の数々を実際にひとつずつ手でめくるような緻密な検証が積み重ねられていく。つまり、この著作のページを読み進めることが、そのなかであらためて写真をめくるという入れ子状の経験を引き起こすのであり、そのことは本書の表紙を飾る鈴木のぞみによる写真作品にも示されている

各章で紹介される実例を並べてみる。写真史の起点に刻み込まれたW.H.F.トルボットの写真集に始まり(第一章・二章)、美術史の授業では馴染み深い、だが今ではコンピュータに取り込まれたスライド写真(三・四章)、また匿名の人々が残したダゲレオタイプや写真の縁や装飾といった事物を経て(五・六章)、世紀転換期のアマチュア写真家たちによるアルバムと19世紀に大流行をみたカルト・ド・ヴィジット(七・八章)、そして現在へとやや時間は飛び、デジタル化以降のセルフィを扱った終章によって本書は締め括られる。

なかでも中核部分となる五章と六章で、タイトルにもある「ヴァナキャラー」の意味するところが明確化されたことに本書の意義のひとつを確認してみる。それは専門家によるものではなく、美的ないし商業的価値が認められるわけでもなく、つまりは歴史に埋もれた平凡な写真群のことであるのだが、それ自体はかくも否定的なかたちで定義されることが少なくなかった。それでいて歴史上、数としては圧倒的なものであるはずのヴァナキュラー写真は、それぞれに感情的かつ情動的な強い負荷を帯びることによって独自の物質性を打ち出すことにもなる。建築論や人類学の知見も採り入れつつ、こうして「ヴァナキュラーな」写真に着目することは、従来の写真史やデジタル化による抹消に抗うための戦略であるばかりか、人間の身体との親密な関係によって近代と呼ばれる時代を突き動かす原動力であったことが指摘される(五章)。

それはあくまで、イメージを塗り固めるかのように絵の具で上書きした19世紀の加工写真など、具体的な事物をもってしてはじめて明らかとなる概念である。と同時に、そうした作業が照らし出すのは、写真それ自体の物質性であるばかりか、その提示形態のうちで帯びる物質性でもあり、さらには視覚のみならず触覚や嗅覚にも訴えかける感覚的な物質性もある。ここに経年劣化のような偶然の痕跡が付け加わることで、四層にも積み重なる写真の物質性が「インデックス」や「それは゠かつて゠あった」など、あまりにも著名な既成の概念に揺さぶりをかける(六章)。こうして各々の土地に固有の風土や生活に根付いたヴァナキャラー写真は、イメージの生産と流通と消費のプロセスに異質かつ多様な差異やズレをもたらす概念へと練り上げられるのである。

以上、数々の実例を土台とする本書から、ヴァナキュラー概念という理論的な一側面のみを取り出してみたものの、ここまでの議論が現在の写真をめぐる実践や議論に何をもたらすのかについては、セルフィを対象とする終章だけに収まることのない問題であるだろう。セルフィがヴァナキュラー概念の現在における到達点のひとつになるのだとしても、19世紀の写真群に認められた流動性や親密性が、エコノミーや情動といった概念へと書き換えられるあいだに何が生じたのか。その登場以来、入れ子状のメディアとして人々の身体を貫いてきた写真を、もはや情報端末やウェブ環境のうちで実際にめくることが難しくなった現在、それらをいかにして逆撫でにすることができるのか。こうして本書が切り開いた問題系もまた幾重にも重なり合っており、それは決して狭義の写真論の枠組みに収まるものではないはずである。

(増田展大)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年10月20日 発行