ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」
2017年にジョルジュ・バタイユの芸術論選集 Courts écrits sur l’art がリーニュ社から刊行された。これに重厚な序文を寄せたのは、「アンフォルム」の火付け役となったジョルジュ・ディディ=ユベルマンである。これと歩を合わせるように、日本でもバタイユの芸術論が活況を呈しつつある(この点については、『REPRE』37号掲載の酒井健『バタイユの芸術』評(横田祐美子)を参照いただきたい)。この背景には、古典的な美学への抵抗として導入されたアンフォルムが、芸術理論において一つの基準と化したという実情があるだろう。加えて、本書の著者が折に触れてその用語を引いているように、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンによるバタイユの読み直しも、近年のバタイユ再考の大きな追い風となっているように思われる。
以上のことを踏まえると本書の大枠は、1990年代後半にバタイユの新たな代名詞としてみいだされた「アンフォルム」を更新する芸術論としてみることができる。ボワとクラウスによる有名な展覧会「アンフォルム」(1996)によって人口に膾炙したこの概念は、『ドキュマン』誌(1929-1930)に寄せられたバタイユの論考から着想されたものではあったが、この思想家のコーパス全体においては実のところ極めて限定的な概念でしかない。これに対して本書は、「無神学大全」(1943-1954)に始まる第二次世界大戦以降のテクストから最晩年の著作『エロスの涙』(1961)までを広く考慮に入れることで、バタイユの思想と有機的に結びついた芸術観を描き出している。
バタイユにおける芸術論の再考が本論の大枠であるのに対し、タイトルでそれと並置された括弧付きの「幼年期」は、いわば命題として示されている。つまり、バタイユにとっては特別な用語ではない「幼年期」を、戦後に記された芸術に関する著作の内部から練り上げていくことが本書の主題である。バタイユに特有の両義性の襞を「捩れ」として読み解きながら析出される「幼年期」は、簡明率直な各章を追うごとに奥行きを増していく。著者が「むすびに」で約やかに表している「幼年期」の4つの特徴は、第一章「バタイユにおける芸術の位置づけ」とあわせて最初に一読されるのもいいだろう。バタイユの芸術論に潜在する「幼年期」という視座は、哲学的用語としての「インファンティア」はもちろん、近現代の芸術(論)に関心を寄せる読者に対しても含蓄に富む示唆を与えると思われる。
本書の流れを簡単に紹介しておこう。第1章では、『ドキュマン』誌の論考と「無神学大全」の比較から、戦後のバタイユ思想が「近現代」と「それ以前」を明確に弁別していること、そしてそのために「プリミティヴ」や「アンフォルム」の価値づけが戦前とは異なっていることが指摘される。ここから著者は、バタイユにおける近現代芸術理解の特徴が「「幼年期」への志向」、あるいは「ふたたび見いだされた「幼年期」」にあることを探り出す。ここから第2章と第3章は、「幼年期」というテーマを形成する史的基盤を、ゴヤからマネへ、そしてニーチェからカフカへと連なる芸術と文学の系譜によって示している。
ところで、バタイユにおいて、近代の「至高性」と「有用性の世界」は互いに包摂的排除の関係にある。この場合、排除される至高性には分離不可能な二つの様態が想定される。一方で、有用性が至高性を包摂する場合、至高性の排除は比較的穏健なかたちで遂行される。これが有用性に支配された「おとな」の世界から「承認」されつつもそこから「除名されたもの」として生きるカフカの「幼年期」に象徴される至高性のあり方である。他方で、有用性が至高性を排除する場合、至高性の包摂は虚構的にしか遂行されない極限的な形式をとる。第3章でみいだされた「幼年期」的な至高性を補完するために第4章では、ベケットの『モロイ』(1951)を分析するバタイユの論考を通じて極限的な至高性が描き出される。
第5章はサド論を通じて、有用性を統括する理性の「遊戯的使用」が論じられる。理性に属する持続性や合理性をそこから引き離し、それを「違反」の手段へと変えるサドの意識的な遊戯性は、本書における折り返し地点をしるしづけている。したがってこれに続く最終章は、バタイユの芸術論から「幼年期」を概念化してきたここまでに議論に対し、理性の遊戯的使用を介して改めて芸術の身分を問うことに向けられる。『エロスの涙』をテーマに据えた本章では、「形態の侵犯」による理性的世界の破壊という傾向を読み取っていたアンフォルムに関する先行研究とは正反対の方向が示されている点がとりわけ特筆に値する。理性的世界への叛逆ではなく、理性とともに「禁止」と「違反」の微妙な均衡を目指す近代芸術の特徴としての「幼年期」は、モダニズム芸術の理念と少なからず符号するのである。
このことから「幼年期」には、バタイユの芸術と20世紀のモダニズム芸術の差異の検討という次なる課題が開かれていると言えるだろう。しかしながら、本書を通読して得られた認識はそればかりではない。著者のバタイユ読解は、芸術理論と生政治の哲学という二つの領域が必然的な関連性を持つことを教えてくれる。フーコーが古典主義の時代と呼んだ18世紀において、一方で芸術作品は美学という芸術理論の権威によって対象化され、他方で統治的な生権力が理性と非理性の分割を推し進めた。芸術理論はいまアート・ワールドによって再領土化され、生権力の統治システムは「主権権力と剥き出しの生」が渾然一体となった状況によって再定義された。要するに、ディシプリンの権威や社会の支配的権力とそれに対する抵抗勢力という二つの有用な力(pusissance)の拮抗は、互いの矛先を失ったいま、同質的な無能(impusissance)という苦境に転じたのだ。本書は、このような苦境に「幼年期」というモチーフを与えることで、それに対する応答をバタイユの内奥から見事に導きだしている。そのために、いや、だからこそ、この応答には含まれていなかった1930年代のアセファルでの活動や『聖社会学』のバタイユに関する今後の考察が、より一層期待される。
(佐藤香奈穂)