見えないものを感覚する──存在の確認可能性と感官
新型コロナウイルス感染症に関連したニュースでしばしば関心があつまったのは、その「見えなさ」である。新型コロナウイルス(以下、コロナウイルスと呼ぶ)がわれわれにもたらす「見えなさ」は主に三つあるように思う。一つめは、ウイルス自体が目に見えない極小の存在であるということ。二つめは、感染しているかどうか見た目では判断できない、「無症状感染者」の存在。三つめは、今後の見通しが立たないという意味での先の「見えなさ」である。国内の感染者数が減少に転じている今、われわれに不安感をもたらしているのはもっぱら三つめの「見えなさ」なのかもしれないが、本稿では一つめと二つめの「見えなさ」について見えない存在の確認可能性と感官の関係から考えてみたい。
コロナウイルスを「見えない敵」と表現している記事を何度かみかけた。しかし、実際のところ、視覚的に確認不可能でわれわれを脅かす存在はコロナウイルスにかぎらない。あらゆるウイルスや細菌がそうであるし、それ以外にも目に見えない存在はわれわれの周囲にありふれている。ところが、人はそのウイルスの不可視な存在をめぐって怯え、視覚上はなんの変哲もない、身近な物の表面に、自分の指先に、部屋の空気にさえ、目に見えないウイルスの存在を疑うようになった。「無症状感染者(無症状病原体保有者)」の存在もまた見えないことによる不安をかきたてた。このウイルスが自分に死をもたらす(かもしれない)ウイルスであり、世界的流行を起こしたことのインパクトはたしかに大きい。しかし、われわれの恐れはその「見えなさ」によってもっとも増大されたようにみえる。「見えなさ」すなわち視覚的に対象を確認できないことがわれわれにもたらしたものとは一体何だったのか。
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われわれは見ることとは異なる仕方で感覚することができる感官をもっている。しかし、視覚以外の感官について考えるとき、われわれはしばしばその感官が「見ることのできない」感官であることを前提としてきた*1。哲学における知覚論や人文学の感覚研究において、それぞれの感官はその性質について対比されて理解されることが多い。例えば、知覚的対象をはっきりと射程にとらえることが可能な視覚に比べ、聴覚は主体と対象の存在の境界があいまいであり、対象の輪郭を明確にとらえることが難しい感官であると認識されている。感官同士が対比されるとき、対比の一方には、ほとんどの場合、視覚がおかれる。ルソーの『エミール』から視覚と触覚に関する記述を引いてみよう。
*1 視覚の性質や機能を基準的枠組みに据えて各感官を理解しようとしてきた近代の視覚優位主義は思想史、哲学、サウンド・スタディーズなどさまざまな分野の論者からすでに批判されている。自然科学や認知科学の分野において他の感官と比較すると視覚研究が数歩先に進んでおり、視覚研究がすべての感官の研究においてもっとも豊富な知見を有するという事情も視覚偏重に影響を及ぼしていると考えられる。
夜、どこかの建物のなかに閉じこめられたとしたら、手をたたいてみるがいい。その場所の反響によって、それが広いところか、狭いところか、まんなかにいるのか、隅のほうにいるのかわかるだろう。壁から半歩はなれたところでは空気はそれほど濃くはなく、抵抗が少ないので、ほかとはちがった感覚を顔にあたえることになる。ひとつところに立ちどまって、つぎつぎにあらゆる方向にむいてみるがいい。どこかに扉があいていれば、軽い空気の流れがそれを示してくれるだろう。船に乗っているときには、風がどんなぐあいに顔にあたるかによって、どの方向へ進んでいるかということだけではなく、川の流れがおそいかはやいかもわかる。こういうことは、そのほかに多くの同じようなことも、夜でなければよく観察されない。昼間では、どんなに注意していようとしても、わたしたちは視覚に助けられるか、注意をそらされて、そういうことは見すごされてしまう。しかもこのばあいには、まだ手も棒ももちいてはいないのだ。視覚による知識のどれほど多くが触覚によって、しかも全然なにものにも触れることなくして、獲得されることか。(ルソー、221頁)
ここでルソーは、空間において自己の身体を位置付ける方法として各感官の感覚に言及している。ルソーによれば、触覚は視覚によって得られる内容の多くを獲得できる(はずの)感官である。しかも、触れる行為なしに内容を獲得可能であるとルソーは述べている。このことは、視覚に与えられる特別な性質であったはずの、対象への身体的接近を伴うことなく対象のありようを把握するという仕方を触覚もまたもちあわせていることを示唆している。
しかし、ルソーは触覚に対して無条件にその特権を見出しているわけではない。触覚的知覚において「触れる」ことなくして知覚的細部が獲得されるのは、視覚がその本来の機能を発揮しないときであるとルソーは指摘する。夜は触覚が空間把握に寄与する内容をわれわれに与えるが、昼間は視覚が機能するので、触覚的感覚を研ぎすまそうとしても、視覚に「助けられ」るか「注意をそらされ」ることで、触覚によって獲得可能なはずの細部は「見すごされてしまう」というのである。主体の身体をとり囲む空間性の把握において、ルソーによれば、「見えなさ」こそが触覚的感覚を鋭敏にする。
それに対して、コロナウイルスをめぐる「見えなさ」はどうだろうか。冒頭で挙げた二つの「見えなさ」は、ウイルスという見えない存在に対して身体が不可避に曝されているという触覚の「負の」性質をわれわれに再認識させ、触覚こそがわれわれの身体を脅かすのだと知らしめた。身体を運動させて物体に接近し接触するという能動的行為を──それこそが触覚の本来の仕方であるにもかかわらず──われわれが極力回避したとしても、われわれの身体の表面が──皮膚や髪のみならず鼻や口のように直接に外へひらかれたウイルスに対して脆弱な粘膜もが──外部から足音もにおいもなくやってくる不可視な存在に常に曝されている。コロナ禍での接触に対する恐れは、「触れること」という本来であれば世界の細部の探索に不可欠な機能を、死へつながりかねない身体の欠陥的行為へと変えたようにさえ思える。
本来、存在/不在を確認する手段は視覚に限らないはずだが、音もにおいもないウイルスに対しては、われわれ人間が視覚的にそれを捉える可能性を失ったとき、そのことはわれわれがウイルスの存在を知覚的に探索する可能性を失ったことを示している。すなわち、コロナウイルスをめぐっては、視覚的な確認不可能性が存在そのものの確認不可能性と決定的に結びつけられているのである。
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ルソーの感覚論は次のように続く。
遠くからものをみとめ、その印象をあらかじめ見ぬくことになれている者は、自分の周囲にあるものがなにも見えないとき、そこにさまざまな存在、さまざまな運動を想定して、それらは自分に害をおよぼすかもしれない、しかもそれから自分の身をまもることは不可能なのだ、というようなことをどうして考えずにいられよう。わたしがいる場所は、安全なのだとわかっていたところでむだだ。その場所を現実に見ているときと同じようにはけっしてそれがわかっていないのだ。だから、昼間は見られない恐怖の的がいつも潜在することになる。もっとも、外部にある物体がわたしの体にはたらきかけるときには、たいていなにかの音によってそれがわかるということは、わたしも知っている。だから、たえずわたしはどんなに耳をそばだてていることか。原因がわからない音がすこしでもすると、たちまち自分をまもろうとする関心が、なにをおいても身を警戒するようにとうながすあらゆることを予想させる。したがってこのうえなくわたしをおびえさせるあらゆることを考えさせる。(ルソー、222頁)
ここでもルソーは周囲を視覚的に確認できない暗闇を想定して語っている。ルソーは、暗闇のなかで自分のいる場所が安全であるとわかっていても、視覚的に確認可能な昼間のように安全を感じることはないと述べる。
人が身の安全をはかろうとするとき、危害を及ぼす可能性のある対象と主体の身体との空間的距離を把握することは重要だろう。ルソーのいう「遠くからものをみとめ」られることは視覚の特権である。聴覚や嗅覚においても主体にとって慣れた音やにおいの知覚であれば遠距離でもその存在を特定することは可能であるし、視覚と比べて聴覚や嗅覚の対象は空間的隔たりや境界を超えて主体に接近しうる性質を持つ。しかしながら、人間にとって、聴覚や嗅覚は視覚と比較するとその特定可能な対象の範囲や程度がごく限られる。人間の知覚能力が及ばない音や匂いを伴う対象は多い。また、聴覚や嗅覚は、その知覚的対象とその周囲との境界が曖昧な性質をもつ感官であるがゆえに、知覚すべき対象だけに焦点を絞ることも簡単ではない。こうした性質の違いを鑑み、対象との関係において主体が自身の安全性を確保するという点でいえば、聴覚も嗅覚も対象との空間的関係性をみきわめ、接近前に対象が主体にとって恐れるべき存在かをすばやく判断することは難しい。
まったくなにも聞こえなかったとしても、そのために落ち着いてはいられない。音を立てなくてもおそいかかってくることがあるからだ。事物を、まえにあったように、いまもまたあるはずであるように、わたしは考えずにはいられない。見えないものを見ずにはいられない。(ルソー、222頁)
ルソーがいうように、聴覚を用いて外部からやってくる存在を捕捉することはできるが、聴覚的に確認可能な程度の音があらゆる存在において、あるいはあらゆる運動において発生するわけではない。また、聴覚的対象はその存在の現れにおいてしばしば時間の制限を伴う。視覚では主体がその意のもとに──主体が身体や目を動かして焦点を絞ったり対象を変えたりして──対象を「捕らえ」ることは可能であるのに比べ、聴覚では、音の現れ如何によってはその存在の認知すら怪しい。恐怖の前にあっては、聞こえるものも嗅げるものも何らかの存在をほのめかすことはできても存在の確かさを示して恐怖をとり去ることは到底できず、主体に「見る」べき存在があることを気づかせるにすぎないのではないか。結局のところ、人は自己の身体に恐怖を与えうる存在を視覚的に確認することなしにその存在と自己の関係の現前性に向き合うことは難しいのではないだろうか。
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見えないものを「見る」ために、人はこれまで不可視な存在を視覚化する技術を生みだしてきた。音の大きさや高さを測る計器、熱を可視化するサーモグラフィ、ガス漏れ検知器など、枚挙にいとまがない。われわれ人間の感官では知覚不可能な世界の「正確な」可視化は──実際のところそれが一体何に「成功」しているのかはさておいて──ルソーが述べた「見えないものを見ずにはいられない」欲求を満たしてきた。
先日、コロナウイルス関連のテレビ番組において、ウイルスが人と物の接触を介して拡がっていく様を可視化する実験が紹介されていた*2。感染者に設定された1名の人物の手のひらにウイルスに見立てた蛍光塗料を塗った上で、その人物を含めた10名の参加者がビュッフェ会場で一定時間食事をする。食事後、部屋を真っ暗にして特殊ライトを点灯し、蛍光塗料がどこにどの程度拡がったかを視覚的に確認するというものである。実験では、「ウイルス」が「感染者」の周囲のみならず、取り分け用トングや飲み物を入れた容器の取っ手といった共有物、さらには参加者全員の手のひらにまで拡がっていることが明らかにされた。なかにはスマホや服、顔の表面までも「ウイルス」に侵された参加者もいた。むろん、それは本当のウイルスではない。単なる蛍光塗料である。しかし、日常的光景であるビュッフェ会場の電灯が消され、暗闇のなかに青白く光る塗料がたちどころに浮かび上がったとき、自分の知覚が及ばない世界を目の前にして、自分の身体にまとわりつくそれを単なる塗料だと冷静に受け止められる人はどのくらいいただろう。この実験をツイッター上で英語で紹介した投稿は現在までにおよそ4万回以上リツイートされている*3。
*2 2020年5月3日に放送されたNHKスペシャル『クルーズ船 感染はなぜ広がったか』において紹介された検証実験である。大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」内で起こった新型コロナウイルスの集団感染の主たる原因を探るという趣旨の番組であった。感染拡大の大きな要因となったと考えられる「接触」によるウイルスの拡散を可視化する目的でウイルスを蛍光塗料に見立てた実験が行われた。
*3 https://twitter.com/Johnny_suputama/status/1258786799851376641?s=20(2020年5月17日最終閲覧)
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コロナウイルスの「見えなさ」がもたらしたわれわれにとっての「暗闇」の恐怖は、ルソーが述べたような視覚以外の感官の代替可能性を示唆するどころか、視覚による存在の確認可能性への過剰なほどの依存を明らかにすることとなった。音もにおいもない存在に対してもわれわれにその細部の知覚を与えることができるはずの触覚も、ウイルスの前では「接触」がもつ致命性ゆえに働くことができない。そうした状況で身体が目に見えない外部の存在に曝されるとき、われわれは、その対象が自分に危害をもたらす可能性を知りたいという欲求から、自己と対象との境界を「明確に」うつしだすことのできる視覚に再び強い特権を与える。
最後に、筆者の専門である声の聴取論の立場からコロナウイルスの視覚性に言及しておきたい。近年、声を対象とした人文学的聴取研究において、音声のもつ物質的側面に焦点をあて、音の聴取経験における触覚的性質にアプローチしようとする研究がでてきている。そのなかには、水中での発声によって発生する気泡の存在に声の接触可能な物質的現前をみようという試みをとりあげた研究もある*4。ところが、コロナウイルスは「飛沫」というかたちでいとも簡単に人間の声を可視化してみせた。発声時の飛沫の距離や方向を視覚的に図や動画で示したものは、飛沫に潜む無数のウイルスの存在を示唆した上で、声を出すことを飛沫をまきちらす「危険な」行為として提示した。「飛沫」の表象は、声をわれわれの身体を脅かす恐怖の対象として認識させ、普段は意識することのない「声」の物質的現前を見事なほどに見える化したのである。
*4 Nina Sun Eidsheim, "Sensing Voice: Materiality and the Lived Body in Singing and Listening Philosophy," Konstantinos Thomaidis and Ben Macpherson, Critical Approaches to Process, Performance and Experience, New York: Routledge, 2015, pp.104-119.
参考文献
ジャン=ジャック・ルソー『エミール』(上)今野一雄訳、岩波書店、1991年。
(堀内彩虹/東京大学)