アガンベンは間違っているのか?
地球温暖化に起因するさまざまな自然災害がほとんど日常化し、人とモノと情報のグローバルな行き来がひとつの飽和状態に達したと思われたまさしくその瞬間、わたしたちは、その自然からグローバルなしっぺ返しを受けることになった。「誰にも当てはまる」という意味のギリシア語「パンデモス」に由来するパンデミックは、それゆえ、ある面ではグローバリゼーションの必然的な帰結でもある。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」、フレドリック・ジェイムソンがもう何年も前に予告し、スラヴォイ・ジジェクによって繰り返されたこのセリフは、かくしてもはや机上の空論ではなくなってくる。
この状況を前に、各国で順次打ち出された緊急事態宣言にたいしていち早くかみついたのが、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンである*1。ある意味でこれもまた必然であった。というのも、常態化する「例外状態」と「剥き出しの生」という、現代の生政治をめぐる彼の1990年代以来の鋭い診断が、ここにきてまさしく現実のもとなったからである。
*1 イタリアの出版社クオドリベトのサイト上に載せられたアガンベンの三つの発言については『現代思想5 緊急特集 感染/パンデミック』に高桑和巳による翻訳がある。未訳の最新のものは「バイオセキュリティBiosicurezza」(2020年5月11日)と題されている(最終閲覧は6月4日)。
これ以前にもアガンベンの「予感」がいみじくも的中したことがあった。2001年の9・11とその後のアメリカの対応、いわゆるブッシュ・ドクトリンである。これが大きなきっかけのひとつとなって、この哲学者の名が世界中にとどろきわたり、「アガンベン効果」とも呼ばれる現象が生まれたことは、まだわたしたちの記憶に新しいところだろう。時の権力が「例外状態」を布告する口実が、かつてはテロの脅威であったとすれば、このたびはウィルスの脅威である。リスクとセキュリティの拮抗のなか、ことさら過剰で抑圧的なセキュリティ・システムを課すことでリスクをさらに煽ってきた生権力機械、アガンベンの批判の矛先はそこにある。
ところが、9・11のときにはうまく機能して思想界でも大いに歓迎されたかにみえた彼のテーゼは、今度は逆に、たちまち専門家や哲学者たちからバッシングにも似た反駁にさらされることになる。その理由は大方、リスクの見通しが甘いという点でほぼ一致している。たしかに彼は当初、インフルエンザと大差ないだろうと読んでいたのだ。「生政治」の誕生を告げるフーコーの著書のタイトル『社会は防衛しなければならない』をもじって、こう揶揄するものまで現われたほどだ。「社会はアガンベンから防衛されなければならないか」、と。「77歳の老イタリア人のおしゃべり」とまで皮肉られる*2。一見するとアガンベンの論点は、新型コロナウィルスの危険性を軽視する(振りをする)アメリカやブラジルの大統領と変わらないように映るのだ。
*2 Christaens, Tim, 2020. “Must Society be Defended from Agamben?,” Critical Legal Thinking, 26 March. [https://criticallegalthinking.com/2020/03/26/must-society-be-defended-from-agamben/]
もちろんそれはとんだ誤解である。至上命令としての経済優先こそ、オイコノミアにキリスト教神学の残滓を見るアガンベンの拒絶するところだからである。また、批判者のなかにしばしば誤解があると思われるのは、アガンベンは「ゾーエー(生物学的生)」にたいして「ビオス(社会的生)」を優先し、「剥き出しの生」をことさら貶めようとしているわけではない。そうではなくて、「剥き出しの生」を生産する締め出しという政治的操作に批判的な眼差しを注いできたのである(その点がまたハナ・アーレントと異なるところでもある)。
さらに、アガンベンに不利なことには、たとえばとりわけ日本の場合に顕著なように、「バイオセキュリティ」をめぐる国の政策が何ら実効性をもたず──ブルーノ・ラトゥールの言い方を借りると、ほとんど「生政治のカリカチュア」*3のように映る──、空回りの権力による茶番劇をさらしているにすぎないのにたいして、ボトムアップで防衛と保全への機運が盛り上がっているように見えるから、なおさら、トップダウンの命令や統制という従来の図式は今や当てはまりそうにない。
*3 Latour, Bruno, 2020. “Is This a Dress Rehearsal?,” Critical Enquiry, 26 March. [https://critinq.wordpress.com/2020/03/26/is-this-a-dress-rehearsal/]
つまり、わたしたちは脅威のなかにあるというよりも、わたしたちひとりひとりが脅威となりうるのであり、自分を守ることと他者を守ることとはこれまでのように対立するどころか、むしろ同義になっている、という自覚である。たとえば、イタリアの精神分析学者セルジョ・ベンヴェヌートにいわせるとこうなる。「他者がわたしから距離をとればとるほど、わたしは彼・彼女らをいっそう親密に感じる。これこそが、人間関係の分子度Molecularityにおいて起こっていることをアガンベンが理解できないでいる理由である」*4。つまるところ現況下において、政治的なものの起点とされる敵/友のシュミット的な図式はもとより、生権力による統制という従来のフーコー的な議論もまたもはや意味をなさないように思われるのである。
*4 Benvenuto, Sergio, 2020. “Forget about Agamben,” Coronavirus and philosophers. [https://www.journal-psychoanalysis.eu/coronavirus-and-philosophers/]
が、やはりことはそれほど単純でもないだろう。この機に乗じて権力が暴挙に打って出るさまを、わたしたちはまさしく目の当たりにしているからである。たとえば、韓国や中国の例を見れば明らかなように、モバイルによる位置情報の監視と掌握が進められ、国民も喜んでそれを受け入れているように見える。イスラエル諜報特務庁(モサド)の場合もまた然りだろう。あろうことか、姑息にもどこかの国では悪法をゴリ押ししようとした。セキュリティはパンデミックから一時的にわたしたちを守ってくれるかもしれないが、だからといって、まさにパラノイア的な監視システムが正当化されるわけではないだろう。
アガンベンの的を射た言い方では、生物学的なサバイバルだけを優先させる「バイオセキュリティ」のために、あらゆるものが犠牲にされようとしている。すでに「潜在的テロリスト」へと変貌して久しいヒトは、今や同時に「潜在的感染者」でもある。
また、同じくイタリアの哲学者ロベルト・エスポジト風に言うなら、ここにきてとりわけ、他者への投影‐攻撃体制と自己への免疫‐防衛体制の両方のメカニズムが、一国において同時に作動していることは、アメリカと中国の応酬を見れば一目瞭然であろう。
さらに、アラン・バディウも今回の一件について、東アジアにたいするレイシズム的な言説が一部ではびこっていることを正当にも認めつつも、中国において、古い慣習をとどめる野生動物の生鮮市場と、グローバル市場を席捲しようとする帝国主義的な国家資本主義という、正反対の現実が分かちがたくリンクしている点に、いみじくもことの重大性を看破している*5。
*5 Badiou, Alain, 2020. “On the Pandemic Situation,”23 March. [https://www.versobooks.com/blogs/4608-on-the-epidemic-situation]
加えて、パンデミックはまた「インフォデミック」と併行してもいる。わたしのようなネット音痴が情報の病理学についてつべこべいうのもおこがましいことだが、新たなコミュニティのかたちを生みだす(とされる)ソーシャルメディアはまた、根拠のない情報が大量に拡散するインフォデミックの温床でもあるだろう。しかも、オンライン上にはすでにさまざまな「ウィルス」が蔓延している。
情報がほとんど一元化されることで、何より懸念されるのは、わたしたちの想像力の枯渇である。周知のように、かつて1348年に大流行したペストの難を逃れたフィレンツェ──人口が半減した──の十人の市民によって十日で紡がれる百の物語という形式をとるボッカチオの『デカメロン』は、社会的な荒廃のなかで想像力を救いだす試みとして読み返すことができるだろう。そこには、ユーモアと風刺とエロスのみならず、寛大さと鷹揚さと知性があふれているのである。
これとの関連でいうなら、新型コロナ下、さらにはポスト・コロナ下において、美術館や博物館のあり方と役割も変化を迫られるだろう。身近なところでは、東京都写真美術館がいち早く打ちだした試みは、ひとつのモデルとなりつつある感がある(もともと対象が写真という複製芸術であるということが不幸中の幸いであったかもしれない)。相次ぐ学会の延期や中止もまた、貴重な卵が孵化する機会を奪いかねない(我田引水かもしれないが、当表象文化論学会では、若い会員のあいだで積極的に対応が議論されていることは大いに頼もしい)。もちろん、大学の授業も大きく変わった。一部でオンラインを歓迎する向きもあるが、そしてメリットもなくはないだろうが、やはり顔を突き合わせてこそ学生と教員の双方にとっての学びがある、とささやかな経験ながらわたしは思う。
ヒトとは身勝手なものだ。つい先ごろ観光公害なるものを告発したその舌も乾かないうちに、観光地に閑古鳥が鳴いているといって経済停滞を嘆く。先述したラトゥールは、アントロポセンを念頭に置きつつ、いつものシニカルな調子で次のように述べる。「エコロジー的変化のなかで状況は悲劇的に逆転している。その恐るべき毒性によって地球上のあらゆる生き物の生存の条件を変化させてきた病原体は、まったくのところウィルスなのではなくて、人類である」、と*6。たしかに、今やわたしたちは大きな発想の転換を迫られているのだろう。あえて月並みな表現を使うなら、「地球へのケア」が何より求められている。「もとの生活を取り戻すこと」が、政治的スローガンのように叫ばれている。だが、ここでもっとも憂慮すべき事態とみなされているのは経済の崩壊であって、新型コロナウィルスもその一環に他ならない地球環境の崩壊ではない。
*6 Latour, op. cit.
現代を象徴するアポカリプス(啓示)の思想家アガンベンには、それにもかかわらず実のところ、わたしの知るかぎり、表向きエコロジー的な主張はない。つまり、グローバルな環境破壊にたいする直接的な言及はない(それだけでなく、このイタリアの哲学者は、ポストコロニアルにせよフェミニズムにせよ、そうした現代思想の潮流に乗ることを意図的に避けてきた)。とはいえ、「所有」に替わる「使用」のパラダイム、「貧しさ」のもつ存在論的な意義、「宗教」としての資本主義への批判、生命間の線引きやヒエラルキー化への抵抗、風景の脱我有化といった年来の主張は、エコロジー論者たちが唱えるグリーン消費(あるいはエシカル消費)やサステイナビリティなどよりもはるかに根源的で徹底的なものである。
今回のコロナ禍に関連してアガンベンはまた別のところで*7、世俗権力と教会権力に関連して次の二点を主張している。ひとつは、死者たちが誰に看取られることなく弔いの儀礼さえも禁じられたまま埋葬されるという、ソフォクレスの『アンティゴネー』を彷彿させる由々しき事態についてである。クレオーンの掟を破ったために悲劇のヒロインは生きながら葬られることになった。表向き自由民主主義の名の下で、たしかに、現代のクレオーンたちがふたたびあちらこちらに出現するさまをわたしたちは目の当たりにしている。
*7 Agamben, Giorgio, 2020. “A Question,” An und für sich, 15 April. [https://itself.blog/2020/04/15/giorgio-agamben-a-question/]
もうひとつは、かつてレプラ患者のもとを訪れて抱きしめたと伝えられるアッシジの聖人、フランチェスコと同じ名前をもつ現在の教皇に向けてであり、彼はその慈悲の精神を忘れている、というかなり手厳しい指摘である。「教会の外に救いなし」という呪縛から解かれたはずの哲学者が、それにもかかわらず、「今この時」──パウロのho nun kairosにしてベンヤミンのJeztzeit──にこそローマ教会のメシア的な使命を希求しているのである。神学のみならず政治と経済の観点からも、長らく使徒パウロと聖フランチェスコに強い関心を抱きつづけてきたアガンベンは、おそらく、この二人ならどう行動したのか、と自問しているのであろう。あるいは、「危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」というヘルダーリンの名高い詩句を、アガンベンは信じようとしているのかもしれない。