翻訳
脱構築の力 来日公演と論文
月曜社
2020年1月
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副題の通り、来日講演(第1、4、5章)と以前の論考を集めた書。「脱構築」は一般にデリダの思考の代名詞とされ、合衆国を中心に文芸批評の「方法論」として受容された歴史があるが、著者は、この語の哲学的・現象学的な背景を精査する「批評として脱構築」(1979年、第2章)などを通じて、こうした安易な風潮に異を唱えてきた。脱構築は自分自身をも含めた全てを「括弧に入れて宙づりにする」力であり、「タイトルなしで」(第3章)語られることを強いる(force)。第1章「脱構築の力」が言うように、「The force of Deconstruction」の属格「of」は主語的であるだけでなく目的語的でもあり、つまり「force」は名詞的であると共に動詞的でもある。しかし言うまでもなく、脱構築を強いられるのは、前もって自ら準備ができている者だけである。それは「思考の風に全面的に曝されるなかで「形而上学的前提と偏見のうちにあまりに堅固に根ざしているわれわれの慣習的な判断基準」をはぎ取る」(第4章)ことへの準備であり、あるいは「ひとつの世界時代への応答と呼応への心構え」たる省察を通して「〈なおも来るべきもの〉を見張ること」(第5章)への準備でもあるだろう。
(串田純一)