単著

馬場靖人

〈色盲〉と近代 十九世紀における色彩秩序の再編成 (視覚文化叢書)

青弓社
2020年2月

本書を一読して、原田治が師・川端実について語った言葉を思い出した。「きっちりとした形態の上に荒々しい筆勢があって、色そのものの息づかいが聞こえるようです」。本書『〈色盲〉と近代──十九世紀における色彩秩序の再編成』の読みどころのひとつは、まさにこの「色そのものの息づかい」、ロザリンド・クラウスならば「リズム、ビート、パルス」と述べるような色彩経験である。

歴史的には、カントの『判断力批判』に典型的に見られるように、質料である色彩は形式=形相よりも劣位に置かれてきた。ところが、質料だったはずの色彩は、その「息づかい」や「ビート」によって整然とした形を崩壊させる契機へと変貌する。著者の馬場がこの転覆的な色彩経験を見出すのは、まさに石原式色覚検査表を見つめるという場面においてだ。もともと徴兵検査で導入され、戦後は学校での一斉色覚検査の際に使用されてきた石原表は、様々な色のびっしりと並んだ水玉から浮かび上がる数字を一定時間内に被験者に言わせることで、色覚の〈正常/異常〉を選別するものである。しかし、ひとたび石原表を〈医師/被験者〉という規律の空間から引きずり出して見つめ続けてしまえば、無数の水玉から浮き上がった数字という形はひしめき合う色の群れへと戻り、形は流動的になる。馬場はその経験を、「正常色覚」には「8」という数字が見え、色盲者には「5」という数字が見えるように設計された石原表の数字が交互に明滅する現象として記述している。いわば、著者は軍国主義や色盲差別との関連でばかり語られてきた石原表を、あたかも玩具であるかのように見つめているのである。無論、こうした経験の記述を可能にしているのは、副題にあるように、19世紀に生じたカント哲学と生理学の結合(「生理学的カント主義」と呼ばれている)という、色彩をめぐる新たな知の布置についての鋭利な分析にほかならない。

このように本書は、視覚文化論やメディア論やエピステモロジーの知見を縦横に駆使して、私たちがいまもそのなかを生きる色彩秩序とその転覆可能性を示している。だが、それだけにはとどまらない。本書のもうひとつの魅力は、色彩をめぐる知覚と言語の関係という哲学的な問題に迫っていることにある。それは言ってみれば、知覚と言語のあいだには何をもってしても埋めえない隔たりがありながらも、そもそも言語として証言されなければいかなる色彩知覚も現れようがないということだ。19世紀に確立された色彩秩序とそれにもとづく石原表は、被験者に色名ではなく浮かび上がった数字を答えさせ、被験者から色名を奪うことで、知覚と言語のあいだの隔たりを隠蔽してきた。それに対し本書は、色盲者であろうとなかろうと、あらゆる人が語る色名が、各人の色彩知覚と合致することなどありえないという端的な事実を確認するとともに、それでもなお色名を語ることの意義を説いている。

色名というものがいかに重要かは、たとえば赤色盲者が「赤」と述べるときのことを考えてみればわかりやすい。このときあらわになっているのは、「赤」という色名で各人が指し示している色彩知覚のあいだの差異であり、この色彩知覚の違いが「赤」という色名を介してはじめて明らかになるということだ。実際、赤色盲者とされる評者にもまた、私にとっての赤は存在している。だからこそ、「赤色盲者には赤が見えない」といったしばしば耳にする言葉は、赤色盲者から「赤」という色名を取り上げる行為、色盲者から言葉を奪う行為に等しい。本書終章は「色盲者の言葉を取り戻すために」と題されている。そのためにもまずは、各人にとっての色名を口にするところから始めなければならない。そのとき同じ色名は、多数派色覚者の色世界に包摂されることのない、それぞれの特異な色彩経験を証言するものとなっているにちがいない。

(伊藤潤一郎)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年6月23日 発行