美術団体という桎梏──戦後における自由美術家協会の位置づけ
1. はじめに
本稿では、第二次世界大戦後の日本美術において、美術団体の存在意義が変容していった過程を、自由美術家協会の1960年代までの動向を事例として考察する。戦前から先進的な美術家によって組織されて活動しており、かつ、戦後になって多くの会員を集めた自由美術家協会の組織的変化とそれに対する批評的反応を再検証することによって、美術団体とその公募展を中心として構成されてきた日本の画壇の変容を明らかにしていきたい。
2. 自由美術家協会設立から戦後の性質の変容
自由美術家協会は1937年に設立された美術団体であるが、ここに集まった芸術家はそれまでそれぞれ小グループにおける展示を行なってきた。長谷川三郎らによる「新時代洋画展」、難波田龍起らによる「フォルム」、小野里利信らの「黒色洋画展」がそれである。1930年代当時の日本の美術界では、文部省主催の文展系画家と、在野団体の二科会などの画家、そして彼らのような、小グループを組織して展覧会を行う画家が存在していたが、この小グループ系の若手作家は、ヨーロッパからもたらされた最新の美術動向であるシュルレアリスムや抽象美術を積極的に取り入れた制作活動をしており、そうした動きを糾合するものとして自由美術家協会は成立した。なかでも自由美術家協会は、抽象美術の論客として注目されていた長谷川三郎を中心としていたため、抽象美術を標榜する団体とみなされた。したがって、日本の既存画壇を批判し、新しい美術運動を推進するという性格を強く持っていた。
しかし、同年に発生した盧溝橋事件以後、日本社会は日中戦争へ突入しており、美術をめぐる状況も変化を余儀なくされた。福沢一郎ら、シュルレアリスム傾向の作家が集って1937年に結成された美術文化協会は、1941年の福沢および瀧口修造の検挙によって大幅な路線変更が迫られることになったことは大きな衝撃を与えた。この背景には、ヨーロッパにおけるシュルレアリスムの共産主義に対する接近(ルイ・アラゴンの人民戦線への参加などによる)があり、日本でも体制変更を求める動きとしてシュルレアリスムがみなされたのである。抽象主義についても、先進的な美術運動である、すなわち総力戦体制を強めようとする国家秩序に反抗する動きであると警戒されることによって、同様の圧力がかかり、自由美術家協会も1940年には「自由」という文字を外した「美術創作家協会」と名称を変更することとなっている。さらに1944年には「美術団体取締要綱」が発令され、公募団体は解散を命じられた。これにより、政府主催の戦争画展以外の美術展覧会は中止を余儀なくされ、自由美術家協会の活動も停止した。
1945年8月に日本の敗戦で第二次世界大戦が終結すると、10月には二科会の二科展が復活した。さらに翌年3月には、官展が日本美術展覧会(日展)として再出発し、戦時中に活動を停止していた各美術団体の活動も再開し始めることになった。自由美術家協会は47年6月に大阪で「自由美術家協会再建展」を行い、7月に東京都美術館で「自由美術家協会展」として正式に復活した。
これらの各美術団体の再結成は、同時に画壇再編という側面も持ち合わせていた。二科会からは「行動美術」や「第二紀会」が分派している。一方で、1947年から毎日新聞社が主催した「美術団体連合展」は、官展として再発足した日展に対抗するものとして既存の美術団体が一堂に会して注目を集めた。美術家の大同団結という理念は、前年の46年に松本竣介が「全日本美術家組合の提唱」*1 という形で提起し、それ自体は実現に至らなかったが美術団体連合展という形で一つの成果をもたらした。こうした既存画壇の解体と再編成を目指した動きは多くの美術家の望むところであったといえる。自由美術家協会も第1回から連合展に参加している。各美術団体は連合展においてその団体の特質を明らかにするため、その目録内で各々の主張を掲載しているのだが、それらはむしろ美術団体の性質が大同小異であることをも示していると言わざるを得ない。一水会のように「絵画(油絵)の本道を行く事」として前衛的表現に明確に拒否反応を示しているものは例外的であり、むしろ春陽会のように「敢て確固たる主張を持とうとはしない」という個人の制作活動を重視するという姿勢が少なくなかった*2。その結果、団体それぞれが目指すべき方向性を明確にしようと試みた一方で、結果的に作品に団体の特徴が顕著に示されるには至らなかった。すなわち、美術団体は美術運動の主体として不十分なものであるという認識が生じることになった。美術団体を解体することなく実行された「美術団体連合展」であったが、その一面として美術団体の限界を改めて露呈することにもなったと言える*3。
*1 松本俊介「全日本美術家組合の提唱」『美術』3巻3号、1946年3月、42-43頁。
*2 『第1回美術団体連合展目録』1947年。
*3 植村鷹千代「美術団体連合展について」『みづゑ』507号、1947年、20頁。
戦争直後の画壇再編の流れを通じて、自由美術家協会は井上長三郎や松本竣介といった新たな会員を集めることになり、急速に勢力を拡大することに成功した。この時期に自由美術家協会に合流した作家は、戦前に独立美術協会や美術文化協会で活動していた者たちで、それまで公募展でありながら小規模のグループ展的性格をも持っていた自由美術家協会の組織的性質の変容をもたらすことにもなった。団体の作風は抽象主義からシュルレアリスムまで広範に渡ることになり、これらの多数の会員をまとめる必要が生じた。さらに、戦後社会の民主化が背景となって、戦前以来の美術団体の封建的でギルド的な性格に対する批判が一般化したことによって、民主的な運営方針が採られるようになったのである。これは、その後の1950年の村井正誠らの脱会、モダンアート協会の設立の背景になった。
3. 自由美術家協会の動揺
自由美術家協会が再生し、多くの新規会員を迎えるなかで、1950年に村井正誠ら、1937年創立当時からの会員を含む8名が脱会し、モダンアート協会を設立した。この背景について村井は、「美術団体連合展」開催の際に、協会に有利になるように行った工作に対して「感謝の言葉」がなかったこと、そして「思い出すのも嫌な経緯」によって脱会したと述べている*4。さらに小松義雄も「創立メンバーと新入会員の間の異和感による不協和音は運営をさまたげた。創立当初以来の思想、精神、及び友情のかもし出す温いヒューマンのムード……それ等は危機にひんした*5」と回想しており、会員間の不和が原因による脱会であった事情を隠していない。
*4 村井正誠「「モダンアート協会」結成の前後」『モダンアート協会史』1980年、32頁。
*5 小松義雄「創立回顧録 「自由美術」から「モダンアート」へ」『モダンアート協会史』1980年、33頁。
一方で、自由美術家協会に留まった森芳雄は、「美術創作と名を変えたときにも、インテリの弱さで恐怖の方が先で何の抵抗もなくこちらから名前を変えたのだ。その弱気が戦後にもひきつづいたのが、モダンアートに行った退会者の一因でもあるのだろう」「[戦後に自由美術の性質が変容し、会の運営も民主化されたことについて]その変り方にいたたまれなくなつた人もいた」*6 と証言しており、戦前以来の小グループ展の雰囲気を引き継ぐ村井たちは自由美術家協会の変質に対応できなかったのだと指摘している。
*6 「座談会 自由美術の昔と今と」『自由美術』15号、1956年10月、16-17頁。
森が戦時中の自由美術家協会の改称について、村井ら脱会組にその責任を担わせている真意はわからないが、村井自身も当時の改称について「取りかえて置いた方が無難」*7であったと述べており、改称に肯定的な態度を示している*8。
*7 村井正誠「「モダンアート協会」結成の前後」、32頁。
*8 村井は「わたしの芸術」(『武蔵野美術大学研究紀要』16号、1985年)でも同様に「自由」という言葉を忌避したと語っている。これは官憲からの圧力によって改称したという他の会員の立場とはやや異なる。
創立会員らの脱会は自由美術家協会内部にも大きな衝撃を与えるものであった。小谷博貞は、
戦後会員となつて、新しい自由美術のために活躍して来た人びとにとつて、退会者は会を乱すものとしてしか眼にうつらなかつたろう。また、戦前からの人びとの中にも、裏切られたような感情の方が先にあつたのも無理なかつたのかもしれない。社会状勢も、GHQの政策の転換から反動的な風が強くなつて来て、 労働組合などに対する弾圧も目立つて来ていた。自由美術は、そうした社会状勢のなかで、一つの試練を迎えたのだとも云える状況に当面したのだつた。*9
*9 小谷博貞「長谷川さんのこと」『自由美術』17号、1968年10月、7頁。
と、当時の状況を伝えている。そして、こうした混乱をおさめたのが、協会の民主的な運営をより進めていく覚悟を決めるべきであると会員に語った長谷川三郎だったと述べている。自由美術家協会に留まった多くの作家は、協会の民主的な運営方針に対する不満から村井たちは脱会したものとみなしたのである。
当事者のこうした証言を踏まえれば、1950年の脱会の主たる要因は、創立以来の会員と新入会員との間で発生した軋轢であったと言える。そして、その軋轢が生じたことの背景には、戦後の自由美術家協会が他の団体と肩を並べる美術団体として規模を拡大し、既存画壇の一員としてその性格を変えていったということが指摘できる。
一方、モダンアート協会は第1回展を会員と招待作家のみで、東京日本橋三越と大阪市立美術館で開催したが、第2回展からは東京都美術館の会場を押さえ、公募展として開催された。第2回展図録では荒井龍男の署名で「モダンアート協会は新しい世代の要望に対して公募展を開催することにした。吾々は本当の生活をする為に真実の美を探求している」*10と示されており、公募展とする必然性を主張している。モダンアート協会もまた、それまでの公募展覧会を中心とする画壇システムの中で、自らの立ち位置を模索するという方向に向かっていった。
*10 『モダンアート協会史』42頁参照。
自由美術家協会の中でいわば精神的支柱としての役割を果たしていた長谷川三郎が1957年に死去したのち、1964年に再び自由美術家協会からの大量脱退が起こった。それまでも1960年の難波田龍起の退会など、数名が会から離散することはあったが、64年には森芳雄、寺田政明ら38名が退会声明を出したのち、47名がそれに続いた。当時自由美術家協会は200名程度の会員が在籍していたため、4割ほどの会員が脱退したことになる。退会者の多さに加え、『みづゑ』が「あとに残った目ぼしい顔ぶれといえば、井上長三郎、鶴岡政男ぐらいである」*11と評しているように、主要作家の多くが退会したことになる。そして、退会した作家の多くは新たに「主体美術協会」を設立した。
*11 「自由美術家協会のお家騒動」『みづゑ』1964年10月。
この年の大量脱退について、美術雑誌の多くや脱退した会員たちは、長谷川死後の井上長三郎による専横がその原因であると指摘している。とりわけ『主体美術の30年』では、その内部の様子が(一面的な見方であることは考慮せざるを得ないとしても)詳細に語られている。
創立以来のリーダーがいなくなると、待っていたように、協会を支配しようとする圧力グループの動きが出てきた。
出品者の声であるという手を使って、如何にも限られた壁面を解放するための手段であるように、会員作品の相互審査を提案した。次はA・Bと、会員を二組に分けて、作品の大きさに差別をつけた。最後には会員審査を委員会が行うという事態にまで至った。表面的には如何にも民主的な手続きを経ているかのようにみせながら、進歩人の仮面をつけた徒党であった。自分の作品のある部屋に、気に入らない会員の作品があると、全体で決められた約束を破って、外に出してしまうようなことを、平気で行った。*12*12 小谷博貞「前史」『主体美術協会の30年』、13頁。
全てこの結果[1960年の自由美術家協会展における会員審査の際の揉めごと]を押しつけられたメンバーから想像すると、はっきり井上氏の工作であること明瞭な許すべからざるファシズムである。*13
*13 同上。
こうして、再び会員に生じた不和を原因として自由美術家協会は多くの脱会者を出したのだが、その退会声明文では次のように述べられている。
このたび私たちは、自由美術協会を連名で退会いたしました。私たちが長年愛情を持ちつづけて来た自由美術協会も、ここ数年の間に戦後果たしてきた使命も終了してしまい、ここでは更に可能性を高めることは、期待できないと考えたからに他なりません。すなわち、自由美術協会は解散するのが至当の時に至った、との思いが一致したからであります。*14
*14 石井公彦編「主体美術への歴程と系譜 戦前戦後の美術の動向と出会い」『主体美術の30年』52頁。
ここで述べられているのは、ある意味では協会内部での「御家騒動」という実情に対する建前ではあるものの、「解散」という言葉を持ち出していることから見て、戦後において美術団体が果たしうる役割についての、根本的な疑念が提示されていることは注目に値する。
1950年のモダンアート協会設立のきっかけは、会員同士の対立による脱退であり、自由美術家協会の存在意義自体を否定するものではなかったため、会を離れて新しい団体を設立し、自分たちの表現を試みることに主眼があった。村井は1980年の時点でも、「「モダンアート協会」という名称は新しい世代の創造と云う時代性を充分に表現する誇るに足るシンボルとなった」*15と述べているように、個人的な対立によって団体を離れざるをえないが、別の場所で、別の看板のもとで活動するという立場をとっている。
*15 村井正誠「「モダンアート協会」結成の前後」、32頁。
主体美術協会についても、本質的には会員間で生じた不和が原因ではあるが、脱退した人数の規模からみても、それだけに原因を見出すだけでは不十分であろう。そこには退会声明文でも語られているように、自由美術家協会の役割が既に終了したという意識が存在していたと考えられる。多くの退会者を伴って新たなグループを構成することになったため、結局主体美術協会も公募展形式を取ることによって、既存美術団体との差異が不明瞭なものとなってしまったが、結成当初は非公募のグループ展形式での可能性を模索していたことから鑑みても、公募展を組織する美術団体の限界が、彼らの間でも認識されていたことがわかる。現に、糸園和三郎、麻生三郎は公募展形式に対する否定的見解から、脱退後も主体美術協会には参加しなかった。
1964年は読売アンデパンダン展が中止を決定した年でもあり、日本美術における最先端の動向はすでに美術団体の公募展に求められなくなっていた時代であることも考慮に入れる必要があるだろう。読売アンデパンダン展は1949年に第1回展を開催したが、日本美術会主催の日本アンデパンダン展とならんで、無審査、無償の自由出品という形式が注目を集めた。この形式は従来の画壇システムを根底から覆すものであり、とりわけ読売アンデパンダン展は開催主体が読売新聞社というマスメディアにある点でも従来の規範から大きく外れるものであった。その読売アンデパンダン展において、1960年前後から展示作品の急速な多様化、すなわち、従来の絵画、彫刻という枠組みに捉われない作品が急増したことによって、64年に中止が発表されたのであった。東野芳明が「反芸術」と呼んだその状況は、戦後日本美術の急速な展開を反映した言葉であるだろう。
また、1950年時点からの変化に焦点を当てるとすれば、1947年から行われていた上述の美術団体連合展は、戦後の民主化を日本画壇に反映させるべく、従来の文展=官展批判のもとに結集させる目論見であり、戦後日本美術の再出発を印象付けるものであったが、結局は5回で終了し、美術団体という枠組み自体が取り外された日本国際美術展へと発展していくことになった。展覧会を組織する主体も、美術団体から新聞社へと変化していたのである。
そうした日本美術の急変状況のなかにあって、戦前以来の公募展形式を貫き、画壇システムを支えている既存の美術団体でも、本来的には新しい表現を模索することを綱領に掲げていた自由美術家協会では会員の中でもその形式の限界が露呈していたといえる。他の美術団体のように、守旧的なスタイルを堅持することもできず、画壇システム自体を否定する自己矛盾にも陥ることができなかったというのが、当時の実情であると考えられる。
4. 美術批評からの応答
ここで当事者の視点を離れ、自由美術家協会をめぐる美術批評がどのようにこれら二つの脱会・新団体設立を見ていたのかを確認しておきたい。
戦後直後から美術団体とその公募展を中心とする日本美術界については、多くの批判がなされてきた。1948年の時点で、『みづゑ』2月号巻頭では、美術運動を基盤としない美術団体の分裂に苦言を呈している*16。また、柳亮は公募展覧会が多すぎることについて、その無性格化と興行化を批判している。ここで柳は、芸術運動と興行政策が渾然一体となって、純粋な美術運動の体をなしておらず、個々の美術団体に特異な芸術的主張がないことが日本美術界の問題点であると指摘している*17。
*16 「美術団体の分裂」『みづゑ』508号、1948年2月、13頁。
*17 柳亮「美術界の性格的破産」『みづゑ』510号、1948年4月、34–35頁。
もちろん、こうした批判は戦前から既存美術団体の展覧会(官展や二科展)に対する批判として繰り返し提起されてきた問題である。しかし、戦後直後に起こった美術団体の再編はこれらの批判を前提としつつも、結局は作家間の感情的対立や政治的葛藤に基づく離合集散として映っていたのであり、無性格で、入場料と出品料を期待した興行的な展覧会が乱立することに対して、美術批評家はより抜本的な日本美術界の構造改革の必要性を主張し始めていた。
それでも、1950年の時点ではモダンアート協会の設立について好意的な見解も少なからず見られる。瀧口修造も、公募展という組織に対する限界を指摘しつつ、芸術運動としての美術団体の可能性に期待を寄せているし*18、植村鷹千代も1953年の団体展評の中で、日本美術の抽象絵画の方向性を代表するものとして評価している*19。さらに、当時の自由美術家協会に対する期待は未だ強く、1953年の「下半期美術界を批判する」と題した座談会*20では、誌面の多くが自由美術家協会の作品に関するものとなっており、少なくとも美術団体ごとの批評が可能であるという認識が共有されていたといえる。
*18 『モダンアート協会史』41-42頁(『アトリエ』1951年11月より)。
*19 植村鷹千代「実際的な諸問題」『美術批評』1953年4月、44-45頁。
*20 瀬木慎一、福島辰夫、針生一郎、伊藤知己「座談会 下半期美術界を批判する」『美術批評』1953年11月、14-29頁。
しかし、それから10年以上が経過した、1964年の主体美術協会の結成に対する風当たりは強かった。『主体美術の30年』は当時のジャーナリズムによる批判を数多く掲載している。編者はこれらの批判に対して「皮相な捉え方に偏った」*21「冷笑にちかい画壇十把ひとからげ的論調」*22であるとして(当然)否定的であるが、少なくとも「要するに公募団体がまた一つ増えただけである」*23という冷ややかな反応が主流であったことは事実である。翌65年6月には、第一回主体美術展が開催されるのだが、『美術手帖』『みづゑ』をはじめ美術雑誌では取り上げられていない。この時期すでに、『美術手帖』での展覧会紹介は個展やグループ展評が主だったものであり、『みづゑ』ですら一部の団体展を紹介するにとどまっている。こうした時勢の変化によって、1950年時点でのモダンアート協会に対する反応とは決定的に異なるものとなった。
*21 石井公彦編「主体美術への歴程と系譜 戦前戦後の美術の動向と出会い」53頁。
*22 同上、55頁。
*23 北一郎「一九六四年/美術界評判記」『美術手帖』245号、1964年12月、84頁。
美術批評家の美術団体に対する批判的見解が強まるなか、1965年10月の『美術手帖』には、「美術団体はなぜつづくか」という小論が掲載された。中央集権化された日本の美術においては、地方の作家は美術団体の公募展に出品することでいち早く美術界に参入できるという実情があるため、美術団体は「公共の利益」のための「社会事業団体」としての役割を持っていると主張されている*24。美術団体の存在意義を擁護するにしても、もはや美術運動の主体としては見なされていないということがうかがえる。
*24 小倉忠夫「美術団体はなぜつづくか─「二科五十周年回顧記念展」を機に」『美術手帖』258号、1965年10月、134-135頁。
自由美術家協会は、1964年の大量脱会ののちに名称を「自由美術協会」と改めるが、この段階で、美術運動の主体であろうとしてきた自由美術家協会は役目を終えたと言ってよいだろう。この改称に多くの含意を読み取ることは深読みの域を出ない*25が、個人主義的な色彩の強い「美術家の団体」としての「自由美術家協会」から、「社会事業団体」としての「自由美術協会」へと変化したと言えるのではないだろうか。
*25 事実、これ以前にも「自由美術協会」という呼称は団体の内外で使われることがあった。
5. 結論
本稿はここまで、自由美術家協会という美術団体の戦後の動向を詳細に検討することで、美術界における美術団体と公募展覧会の位置付けの変容を明らかにしてきた。
自由美術家協会は本来、戦前以来の既存画壇に対する批判の流れを受けて、若手美術家によって独自の価値判断基準を提示することを目的として成立した団体であった。そのことは、戦後の画壇再編に際し、他の多くの作家の注目を集め、会員を急増させ団体としての成長をもたらした。しかし、自由美術家協会も画壇というシステムそれ自体については批判的ではなく、公募展を通じて新人発掘に貢献すると同時に興行的にも順調に発展するという道を選んだ。その結果、団体内部での主導権争いや封建的な徒弟制度に近い会員同士の関係を温存することになってしまった。その後、2度にわたって発生した自由美術家協会の大量脱会の主たる要因は、ともに会員間に生じた不和であるが、これらは画壇制度の弊害の最たるものとして早い時期から批判されていたものである。自由美術家協会は、名実ともに既存画壇に与することになっていたのである。
モダンアート協会が結成された1950年の時点では、いまだとして美術団体が美術運動を牽引する主体としての存在感を保ちえていたが、主体美術協会結成の1964年にはすでに、美術団体は「公共の利益」のための「社会事業団体」に過ぎなくなっていたのである。
戦後日本美術は、急速な社会の変化とともに、急激な表現の多様化を経験することになった。それによって、美術家が求める美術界のあり方もまた変化を余儀なくされていたのである。自由美術家協会も戦後直後にはそうした美術界自体を、表現の変化を含めて変革していこうとしていたはずであった。1950年の『自由美術』に掲載された「主張と活動」では次のように語られている。
自由美術家協会はその名の示す如く自由な純粋な芸術意欲によって結集された若い進歩的な美術家の団体です。兎角日本の美術団体にみられるような因習的な束縛や派閥的な差別から脱し、各自が充分その実力を発揮し得る競争の場を作ることが、我々の目的であると共にそれが美術の発達に寄与する所以であると信じます。[…]
自由美術家協会は以上のような主旨の下に回を重ねて来ましたが、今日の美術界の情勢から美術団体の在り方について我々も亦おのずから自己批判せずにおられません。しかしながら積極的な意義を我々の団体に認める限り、ほんとうの芸術を幅広く進める上の困難は覚悟するところで、敢えて迂遠な道をきり拓いてゆく労苦を惜しむものではありません。そして又そこにこそ、我々は我々の新しいゼネレエションが果さなければならない日本の美術の課題があると信ずるのであります。*26*26 「自由美術家協会の主張と活動」『自由美術』7号、1950年10月、3頁。
しかし、結局のところ自由美術家協会もまた、「因習的な束縛や派閥的な差別」から逃れることはできなかった。
戦前に表現活動の不自由を痛感した若い美術家たちは、戦後という時代を民主的な時代であると見据え、画壇の刷新を図って様々な試みを行おうとしていた。しかし、彼らもまた画壇というシステムの中に取り込まれていってしまったのであり、一方でそのことに気づいた作家は自ら美術団体を離れていった。結果的に、1960年代までには、美術団体は美術運動をリードする団体としての地位を名実ともに失うことになったといえる。