トーク 「表現の不自由展・その後」──何が起きたか/何を引き継ぐか
日時:10:00 - 11:30
場所:大岡山西講義棟2(西6号館)W631
永田浩三(「表現の不自由展・その後」実行委員、武蔵大学)
住友文彦(東京藝術大学)
【司会】香川檀(武蔵大学)
あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる顛末を受けて、表象文化論学会は第14回研究発表集会において、トーク「「表現の不自由展・その後」──何が起きたか/何を引き継ぐか」を開催した。トークでは香川檀(武蔵大学)による司会進行のもと、「表現の不自由展・その後」実行委員の永田浩三とアーツ前橋館長の住友文彦が報告し、それを受けてフロアを交えた活発な議論が展開された。
まず永田からは、あいちトリエンナーレ開催前夜のプレパーティーの模様からはじめて、「表現の不自由展・その後」展示中止から再開にいたるまでの経緯の詳細が報告された。また、それにあわせて16組の作家による「表現の不自由展・その後」出品作品について詳しく紹介された。メディアの報道では従軍慰安婦問題に触れるキム・ソギョン/キム・ウンソン《平和の少女像》と天皇の表象を含む大浦信行《遠近を抱えて》ばかりが注目されたなか、シャッター画、街頭でのパフォーマンス、公民館の句会で市民が詠んだ俳句、朝鮮学校の学生による絵画など、多彩な表現が、過去に展示を拒否された経緯も含めて紹介されたことは、実際に「表現の不自由展・その後」を見る機会に恵まれた者はごく少数に限られたこともあり、非常に有益であった。ちなみに今回の騒動の中心にあった作品《平和の少女像》は、あいちトリエンナーレ2019では色を塗り直したうえで展示されたが、それまでの長いあいだ、引き取ってくれる美術館がないため永田の自宅にあったという。
また、永田からは、あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」につながった過去の経緯についても詳しく説明された。よく知られるように「表現の不自由展・その後」は、過去に何らかの理由で展示が拒否された作品ばかりを集めて2015年にギャラリー古藤で開催された「表現の不自由展——消されたものたち」を再現するとともに、その後の経過も含めて拡充したものである。が、そもそもギャラリー古藤での「表現の不自由展」開催のきっかけを与えたのは、新宿ニコンサロンでの安世鴻(アン・セホン)の写真展「重重」(2012年)展示中止事件であった。従軍慰安婦のその後を写真に収めた本写真展は、右翼団体の抗議を受けた主催者より中止が発表されたあと、作家による仮処分申請を受けて、異常な警備体制のもと開催された。その経緯がきっかけで、ギャラリー古藤でも安世鴻写真展が開催され、それを発展させたのが2015年の「表現の不自由展」だったというのである。ニコンサロンでの展示中止に抗議した「教えて!ニコンさん」裁判は、「表現者の自由を守る覚悟が必要」という判決で2015年に原告側が勝訴しており、永田によれば、これはあいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」再開に向けて力となったという。
また、永田は「表現の不自由展」などに関わる以前、NHKに長く勤務しており、2001年のドキュメンタリー・シリーズ「戦争をどう裁くか」のプロデューサーを務めていた。本番組は、慰安婦問題を取り上げた第2回「問われる戦時性暴力」の内容が政治的圧力によって事前改変されたことで、当時大きな社会問題として報道された。永田によれば、NHKは右翼の街宣車が社屋の前までやってきても屈しなかったが、政権党の政治家による圧力に負けたのだという。
永田からはこうした自身の経験を踏まえたうえで、「表現の不自由展・その後」をめぐって取り交わされた様々な交渉ごとについてディティールに富んだ報告が披露された。永田の言葉は、作家と連帯しつつ展開された粘り強い交渉が最終的に展示再開を勝ちとった背景に、経験に裏打ちされた彼の冷静な判断と揺らぐことのない信念があったことを強く感じさせるものであった。永田は、公的領域における検閲が拡大している現状に懸念を示しつつ、表現は「社会のカナリヤ」であり、一本のマッチを擦ることで闇の深さを照らすことができる、メディアはそうした表現者とともに豊かな言論空間を作っていくべきだ、という言葉とともに報告を閉じた。
続いて住友からは、美術館の学芸員の立場から、また、以前にあいちトリエンナーレ2013でキュレーターを務めたこともある経験から、応答がなされた。住友によれば、あいちトリエンナーレ2019に《平和の少女像》が出品されることは美術関係者のあいだでは開催前から比較的よく知られていたことであり、当初、これほど大きな騒動になるとは予想していなかったという。なぜなら、6年前のあいちトリエンナーレ2013では反原発の作品がたくさん出品されており、主催者はその経験から、政治的にセンシティヴなテーマを扱う作品を出品する際の体制を十分に備えているという感触があったからである。だが、「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動がまったくの例外的な事態であったかというと、そうとも言えないと住友はいう。美術展における検閲自体はこれまでも頻繁に起きてきたことであり、むしろ、日本の美術界がもともと抱えていた問題、日本社会における差別や抑圧、官僚制度における責任と権限の曖昧さなどが一挙に噴出したのが今回の事件ではなかったか、というのである。
そのような前提を踏まえたうえで住友は、今回の騒動について美術関係者たちと話してきたなかで見えてきた類型をいくつか列挙した。例えば、美術関係者たちからしばしば聞かれた意見として、展示の仕方がよくなかったのではないか、あるいは作品の質がよくなかったのではないか、というものがあったという。住友によればこうした論点は本質的なものではなく、むしろ、こうした意見の背景にある、展示や作品の価値を一様に定めることができるという前提は大きな問題を孕んでいる。展示や作品は多様な価値評価に向けて開かれているべきだというのである。また、今回トリエンナーレのディレクターを務めたジャーナリストの津田大介が美術展の専門家ではなかったことに一因があるのではないか、という意見も住友は退ける。むしろ、「表現の不自由展」は、美術展の専門家が展示に失敗した作品をその経緯も含めて取り上げるという趣旨なので、それを非専門家のディレクターが取り上げるのは理にかなっており、そのような立場の方をディレクターとして迎えたときの実施体制が不十分であったことの方が問題である、というのである。
住友は他にもいくつかの論点を類型化して紹介したが、総じて言うと住友が提示したのは、様々な要因がダイナミックに絡みあっている事態を単純化した語りに還元するべきではないという論点である。そこで、今回の事件をより広い文脈へと差し向けるべく住友は、2019年9月に京都で開催された国際博物館会議(ICOM KYOTO 2019)での議題を取り上げ、美術館/博物館の社会的役割をめぐるグローバルな共通了解が揺らぎつつある状況を紹介した。ICOM KYOTOにおいては、ミュージアムの新しい定義が議題に挙げられ、投票によって採択される予定だった。その新しい定義は以下のように始まる。「博物館は、過去と未来についての批判的な対話のための、民主化を促す包摂的で様々な声に耳を傾ける空間である」。すなわち、展示と収集のための空間という従来の博物館の理解を拡張して、議論のためのプラットフォームとして定義しなおす議案であるが、これは結局、京都での会議では非採択に終わってしまう。住友によれば、この議案が受け入れられなかったのは、対話や議論といった言葉への違和感が依然として強かったためであり、美術作品に対して様々に個別の意見や感情を持つことや、その結果、新しい対話が生み出されることが重要である、という認識があまり共有されていないのではないか、と彼は指摘する。
住友によれば、ICOM KYOTOでの一件は、欧米中心に形成されてきた現代美術をめぐる価値観が揺らぎつつあるグローバルな状況とも無関係ではなく、新しい価値観に対して寛容に話しあい理解する場を作ることが困難な現状があるという。あいちトリエンナーレ2019では、「表現の不自由展・その後」の展示中止後、海外の作家を中心に十数組の出品作家が抗議の意思表明として作品をボイコットした。その一方で、日本の出品作家たちによるプロジェクト「ReFreedom_Aichi」は、「表現の不自由展・その後」展示再開を目標として対話の道を探ろうとした。メディアへの働きかけやクラウド・ファンディングによってプロジェクトを継続させ、トークやワークショップなどの話し合いの場所を設けてきたこのプロジェクトを、ポピュリズムやナショナリズムの台頭に対するアーティストの介入として注目できるとして、住友は報告を閉じた。
永田と住友からの報告のあとには、フロアからの質問や意見を交えて活発な議論が交わされた。とりわけ大きな議論となったのは、今回の一連の事件を「検閲」と捉えるべきか、という論点である。慎重な立場をとるならば、少なくともトリエンナーレ開始直後の「表現の不自由展・その後」の展示中止は、脅迫に対する安全上の対応であって、当局による検閲と断定することはできない。しかし、トリエンナーレで自作の展示をボイコットした海外作家たちのなかには、安全上の理由で展示を中止するのは常套手段であって、これもあるかたちでの検閲であるという意見もみられたという。これについて永田と住友はともに、トリエンナーレ主催者や愛知県は中止を決定する前に、寄せられた抗議や脅迫を十分に検証したうえで可能な対策をとったとは思えず、その疑念が払拭されない以上、ひとつのかたちの検閲と捉えざるを得ない、という見解を示した。
様々な意見のなかでもうひとつ浮かび上がってきた論点は、大学も対岸の火事ではない、ということであろう。フロアからは、京都大学の立て看板規制のように大学当局の権力によって学生の活動が萎縮させられてしまう事例や、大学入学共通テストにおける英語民間試験導入のように官僚制度が決定プロセスを隠蔽する機能を担ってしまう事例などが挙げられた。また、今回の一連の動きに対して大学の研究者としてどのように声を上げていくことができるか、という課題もある。とりわけ、抗議のための署名活動を展開するにあたって、多くの署名を集めようとすると、歴史認識や女性差別といった問題の核心に触れない声明文になってしまいがちである、という問題もフロアから指摘された。
また、「表現の不自由展・その後」の展示中止を受けて、海外のアーティストを中心に多くの出展作家が自作をボイコットしたことの是非についても意見が交換された。一方にボイコットをしても反対勢力をよろこばせるだけ、という考え方があり、他方では、ボイコットという手段を通じてでも意思表明をしなければいけない局面もあるだろう。一概に結論を出すことができる問題ではないが、これに関連して一観客としての私の経験をここに書きとめておきたい。私は、多くの作家のボイコットを受けて展示取り下げの作業がなされた8月19日の直後にあいちトリエンナーレを訪れた。当然、会場自体が閉鎖されて観ることのできない作品がいくつもあった。が、他方で、多くの作品は展示順路の途中にあるため、取り下げのために会場自体を閉鎖することはできない。そのなかで、展示取り下げという名目のもと、実質的には抗議の意思を表明するための新しい展示を作っている作品がいくつかあった。とりわけ印象に残ったのはモニカ・メイヤーの作品である。もともとは、来場者がアンケートに回答し、その用紙を会場に吊り下げていく、という趣旨の参加型の作品であるが、私が訪れたタイミングでは、すでに記入されたアンケート用紙はすべて引き下げたうえで、ビリビリに引き裂いた未記入のアンケート用紙を床にまき散らす、というかたちでの「展示取り下げ」が行われていた。
私はその後、9月下旬に日帰りであいちトリエンナーレを再訪した。そのときには前述したReFreedom_Aichiの活動の一環として、「表現の不自由展・その後」の展示会場につながる閉ざされた扉に、「あなたは自由を奪われたことがありますか?」というアンケートに対する来場者の回答を貼っていく、というプロジェクトが始まっていた。明らかにモニカ・メイヤーの作品に着想を得たプロジェクトであり、ボイコットも含めてアーティストたちによる活発なアクションが会期中に続いたことは、逆説的にもあいちトリエンナーレ2019をこれまでにない刺激的な芸術祭にしていたように思う。最終的に「表現の不自由展・その後」は、9月末に展示再開に向けての合意が形成され、10月8日〜14日の間、抽選制で限定的に入場が再開された。それと前後して9月26日に文化庁が発表した事後的な補助金全額不交付は痛手だったが、アーティストや関係者たちは展示再開だけにはとどまらない貴重な戦果を勝ちとったといってよいのではないだろうか。
なお、既報の通り、表象文化論学会は文化庁による補助金不交付に対して「会長声明」というかたちで抗議の声明を発表した。田中純会長はその後、『世界』2020年2月号に関連する論説を発表しており、そのなかで今回の研究発表集会でのトークの模様も詳しく言及されているので、あわせて読まれたい。
門林岳史(関西大学)
本年8月に開幕した国際芸術祭あいちトリエンナーレにおいて、企画展「表現の不自由展・その後」がわずか3日で展示中止となり、会期末の6日間再開された事件が、大きな社会的関心を呼んでいる。文化芸術の研究・実践に携わる会員からなる本学会は、9月、文化庁による補助金不交付の決定に対し、会長名で決定の撤回を求める抗議声明を発した。事件はいまだ進行中であり、余波も広がりをみせているが、「税金と公的芸術祭」、「歴史認識と“表現の自由”」、「ジェンダー」「作品とキュレーション」「公務員の人権」といったさまざまな問題に関わっており、いま議論の場をもつことの意義は大きい。
本トークでは、もともと練馬区の画廊で行われた「表現の不自由」展を実施した共同代表であり、今回の「表現の不自由展・その後」の実行委員のひとりである永田浩三氏が、前史から展示までの経緯、何が起きていたのかについて語る。これを受けて、本学会の会員で現代美術/キュレーションが専門の住友文彦氏が、この出来事から明らかになったこと、「何を引き継ぎ、考えるべきなのか」を、より広い文脈につなげて応答する。