シンポジウム 建築・政治・コミュニティ
日時:16:40 - 18:40
場所:大岡山西講義棟1(西5号館)レクチャーシアター
山崎亮(studio-L代表取締役、慶應義塾大学)
門脇耕三(明治大学)
白井聡(京都精華大学)
國分功一郎(東京工業大学)
このシンポジウムはバウハウス設立百周年をひとつの契機として企画されている。そこで討議はまず、「バウハウス的なもの」の現在をめぐって始まった。口火を切った山崎亮は、「さっぱり」したバウハウス的なものに憧れる自分に対し、コミュニティ・デザインに関わるなかで、「ねっちょり」したい自分が対立するようになった、と語った。続く白井聡は、都市空間から歴史が蒸発しかけているのではないか、と指摘し、それを「さくっ」とした変化と呼んだ。國分功一郎は二人の発言を受け、ハンナ・アレントが言及した、存在と思考の統一が解体されたのちの近代世界の無気味さという認識を背景に、「さくっ」と変化が生じる事態は、もはや「さっぱり」か「ねっちょり」かという対立がなくなっていることを表している、と論じた。
その後の議論は、高効率なものを美的にも良いものとするモダニズムが行き着いた人間疎外が、グローバリゼーションを経て、改めて問われるべきものになっていること、「ねっちょり」したものの余地が必要である一方、それを計画することはできるのかというディレンマ、高齢化によって地域における「ねっちょり」したものの価値が増すので、それをあらかじめ計画しておくべきこと、「さくっ」としたニュータウンの空間にも存在する歴史やハイデガーの言う「来たるべき土着性」という奇妙な概念、「貨幣資本」に還元できない「時間資本」としてのコミュニティ・デザインにおけるアート・ドキュメンテーションの大切さ、医学の現場で喧伝されている当事者主体の「意思決定支援」ではなく、時間をかけて共同で行なう「欲望形成支援」の必要性など、きわめて多岐に亘った。それらは最終的に、やや錯綜する議論を見事に捌いた司会の門脇耕三による、「時間をかけて欲望を共犯的に形成することが重要であることは合意できたが、共犯的な欲望形成はパーソナルな関係に閉じてしまう。それをいかに開き、共犯的な関係主体を包含するさらに大きなコミュニティへどのように貢献するかが問題」というまとめに集約されていたように思う。
「さっぱり」「ねっちょり」「さくっ」といった擬態語でわかり合うこともまた、或る種の共犯的な関係性だろう。それはミクロな政治ではコミュニティ形成の手法たりうるのかもしれないが、果たしてそれ以上の概念になりうるのだろうか。わたしが質疑であえて、大嘗宮というアナクロニックな「現代建築」について質問したのは、こうした言説のマクロな政治に対する有効性をめぐる疑念ゆえでもあった。
巨費を投じて一種の宗教行事のために建造された大嘗宮という仮設建築は、「さっぱり」したスペクタクル的テーマパークにも、「国体」の「象徴」として回帰してきた、「ねっちょり」として古代的な「無気味なもの」にも見える──などと言葉にしてみれば、パーソナルなコミュニティ形成には有効な語り口も、そのスケールを外れた国家の表象たるこうした建築については、一転、批評・分析概念としての鋭利さを欠いてしまうように感じられてならない。
大嘗宮をめぐっては、雑誌『現代思想』連載の「デミウルゴス」で磯崎新が、宮内庁管理部が発表した文書「今次の大嘗宮の設営方針について」を建築史的に徹底的に批判したうえで、平成天皇の大嘗宮がすでに間違っていたのであり、「平成帝が受肉したカミは巽のカミ、太平洋のかなたの宗主国の魂(民主主義)だったのではないか」という、驚くべき指摘を行なっていることを記しておこう。平成天皇はアメリカ型民主主義の依り代であったというわけである。ついでながら、磯崎は上皇が住まうべき仙洞御所を沖縄の米軍施設のなかに築造するという計画も提案している。
磯崎は同じ連載で、天武・持統天皇期のイデオロギー改革を起点とする、漢字/かな、本地垂迹、〈からごころ〉/〈やまとごころ〉にいたる二系統を共存・連結させる思考のうちに、日本の文化を貫く「双制(デュアル・システム)」を見ている。それは呪縛でもあり、武器でもありうるだろう。少なくともそれを、これら対立概念の両者を相互に相対化する装置と考えれば、一方に傾斜した偏向は免れうるはずだ。磯崎という建築家に感じるのは、こうしたデュアル・システムを擬態することによって、天皇制を含む日本というコミュニティの文化的な体制を挑発的に揺さぶる、トリックスター的な政治感覚である。
その身振りをそれこそ擬態するならば、ハイデガー的土着性や言語魔術へと引きずられかねない擬態語の「かな」的感受性に抗うために、バウハウスのように「断固として近代的であること」への意志がどこかで堅持されるべきように思われる。「さっぱり/ねっちょり」の対立が「さくっ」と消されること自体に抵抗すべきなのだろう。こうした擬態語が、建築・政治・コミュニティを貫く強靱な批評・分析言語になりうるかどうかはわからない。だが、いずれにしてもそのためには、共感を錯覚させる共犯性への欲望に徹底して逆らうことが必要に違いない。
田中純(東京大学)
建築を広く政治的な視野から考察することがこのシンポジウムの目的である。それは批判的な観点から現在と過去の建築を考察することであり、また、未来に向けて──特にコミュニティの観点から──来るべき建築のあり方を提案することでもある。コミュニティデザインに関わり常に実践の場に身を置きつつも、建築の歴史を振り返ることを決して止めない山崎亮。建築を空間と環境の創造にまつわるあらゆる行為全体と捉え、建築構法の研究を哲学や科学との関連から行ってきた門脇耕三。「永続敗戦」「国体」といったあまりにも鋭く、時には毒さえも有する概念を用いて日本社会を分析してきた白井聡。中動態の概念で哲学のみならず建築を含めた様々な分野から注目を集める國分功一郎。4人がバウハウス100周年の2019年というこの時に結集し、建築の今を問う。政治とコミュニティ…したがってコミュニズム、となればソーシャリズム、ならばそこからキャピタリズムへの批判…。もちろんこの時に東京オリンピックの諸問題を語らぬ訳にもいかぬであろう。表象文化論学会の学際性を活かしつつ、批判的考察を怠らずに議論を深めていった時、我々はいったい何を提案できるだろうか。