研究発表3
日時:2019年11月23日(土)14:45 – 16:25
場所:大岡山西講義棟2(西6号館)W631
- 量子力学的都市──アルド・ロッシ《科学小劇場》の「重ね合わせ」の理念/片桐悠自(東京理科大学)
- 長谷川三郎の戦後における伝統と近代の問題/鍵谷怜(東京大学)
司会:岡本源太(岡山大学)
片桐悠自氏の発表は、イタリアの建築家アルド・ロッシのテクスト・作品を、彼の量子力学への接近という観点から読み解くものであった。まず先行研究を踏まえつつ、『都市の建築』(1966)の時期におけるロッシのエルヴィン・シュレーディンガーへの関心が論じられた。シュレーディンガーは量子力学の泰斗による一般向け講演集『現代物理学講義』(1961)所収の「我々の物質のイメージ」において、粒子は個別的でないために「同じ粒子は二度と観測されえない」一方で、物質を波として捉えるならば再認可能な個別的構造を描くことができると述べている。シュレーディンガーのこの議論をロッシは未刊行資料「都市的創成物」(1964-65)において参照している。ロッシが「都市的創成物」と呼ぶものは、時間と空間の中でその形態が複雑化し価値が変化してゆくのだが、片桐氏はこれを波として見ることで、時間の流れの中で「都市的創成物」の固有の構造が取り出されると論じる。
次に模型作品《科学小劇場》(1978)が取り上げられた。ロッシ自身によるそれまでの建築物がミニチュア化されて並べられた──それゆえにロッシの好んだ建築形態が類型的に反復されている──この模型劇場を片桐氏は、ロッシの個人的記憶が反復・再現される「空の箱」と(同時期の手記においてロッシが小劇場に関し語った「空の感覚」という表現を踏まえ)形容する。それは記憶の中に存する過去を並置し変換する「演算子」あるいは「関数」であるとされ、またこの手法は「重ね合わせ(パラタクシス)」的であるとも語られる。ここに至って《科学小劇場》は、ロッシが1969年に提示した「類推的都市」の概念と結びつく。類推という方法もまた、類似性の認識に基づく諸イメージの配置と接合によって新たなイメージを形成するものだからだ。だがタブロー《類推的都市》(1973、1976)がロッシと弟子たちによる共同制作であり、そこで実現される都市や建築は複数の観測者による集合的なイメージとしてある種の永続性を有する一方、《科学小劇場》はあくまでロッシ一人の個人的記憶のみに根拠を持つ。
最後にロッシが前掲『現代物理学講義』におけるヴェルナー・ハイゼンベルクの議論を読んでいた可能性が指摘された。ハイゼンベルクはその結語で、現代物理学の使命を「ロゴスを知ること」であるとしつつ、このロゴスを知ることは「今日の不幸にもこんがらがった装置(apparatus)」をなしていると述べる。片桐氏はこの「装置」の語の使用に、ロッシが『科学的自伝』(1981)で“apparecchio”の二重の意味──「装置」にして「準備」──に言及した次第を重ね合わせる。ところで、『科学的自伝』のタイトルは量子論の創始者マックス・プランクの同名の自伝から取られたものだ。ハイゼンベルクは同講義の冒頭で、現代物理学に対するプランクの功績を紹介している。ロッシはこの『現代物理学講義』を読む中でプランクの理論に触発され、「科学」への関心が呼び覚まされたのではないか──片桐氏はそう示唆しつつ、発表を終えた。
質疑では「重ね合わせ(パラタクシス)」の概念と量子力学における「重ね合わせ(superposition)」との関係の有無について、《科学小劇場》の「空」と量子力学のプラトニズム的世界像との共通性の如何について等の確認がなされたほか、発表で様々に提出されたロッシと量子力学との結びつきの着地点について片桐氏による補足が行われた。すなわち彼の量子力学への接近は、古典力学の枠組みでの思考を強いる既存の建築思想(とりわけモダニズム建築)へのイデオロギー的反抗があったのではないか、という見立てである。
鍵谷怜氏の発表は、洋画家・長谷川三郎の戦後のテクストを対象とし、東洋(日本)と西洋あるいは伝統と近代という単純な二項対立に還元されない彼の美術思想の深みを明らかにするものであった。まず戦前から(戦中の沈黙期間を挟み)戦後に至る長谷川の著述・創作活動が概観された。少年期から東西美術の接合という問題意識を抱いていた長谷川の主張は、西洋の前衛を学びつつ東洋の古典に触れるべきとする点で、戦後までの一貫性がみられる。だが作品に目を向ければ、戦前は抽象絵画やコラージュ・写真作品を制作していた一方、戦後は具象性に接近しつつ、50年代には墨を素材とした東洋の影響が顕著な作品を制作し続けた。鍵谷氏はこのような長谷川の創作活動の際立った変化に鑑みることで、彼の著述の(一見したところの)一貫性に存する変化を剔出しようとする。
戦前の長谷川によれば、西洋の抽象絵画は伝統的絵画からの正統な発展の帰結であるのだから、日本は抽象絵画を単に表象的に取り入れるのではなく、むしろ古典からの連続性を視野に入れて学ばなければならない。また西洋近代絵画は西洋の古典のみならず東洋の古典からも影響を受けている以上、近代日本の芸術家も東洋すなわち日本の伝統を再検討して初めて、真に現代にふさわしい芸術創作が可能となるという。では長谷川のこうした思想的立場は、戦後いかなる道をたどるのか。鍵谷氏は50年代の長谷川のテクストから、生活に根ざした伝統文化の重視という特徴を見出す。すなわち日本の伝統の範例が、禅宗寺院や桂離宮といった民族を代表する古典的傑作(戦前)から、大津絵のような日常的な生活レベルの美へと移行しているのであり、それによってこそ、敗戦により再考を迫られた日本のアイデンティティを素朴なナショナリズムに陥らない仕方で見出すための回路が開かれうるというわけだ。
最後に鍵谷氏は、こうした長谷川の美術思想を、同様に日本の伝統的美意識について考察した岡本太郎の思想と比較検討した。両者の差異は伝統概念の捉え方にある。岡本が現代の視点から過去の形骸を打破し、生の本質的なありかたを開示することに伝統概念の眼目を置いている一方で、長谷川にとっての伝統はあくまで過去の文化の蓄積のことであり、近代の破壊ではなくむしろその反省によって、現代の芸術に対する指針を模索しているという。
質疑では、長谷川は同時代のヨーロッパ、とりわけハーバート・リードの思想に影響を受けつつも、戦後は独自色を強めていったという補足や、長谷川の近代観の内実、また戦後に日本美術が国際的に開かれていく中で渡米した際の彼の意識についての確認等がなされたほか、長谷川が学ぶべきとしたのは古典のいかなる側面(技法、主題、メディウム)なのか、という点に関して議論がなされた。議論を通じ、戦後に技法への関心が高まる中で、長谷川は技法が生まれてくる場所としての生活に着目したのではないか、という視点が提示された。
鈴木亘(東京大学)
量子力学的都市──アルド・ロッシ《科学小劇場》の「重ね合わせ」の理念
片桐悠自(東京理科大学)
20世紀後半に活躍した建築理論家・建築家アルド・ロッシ(1931-1997)の、量子力学への興味は顕著なものであった。ロッシが、50歳のときに著した自伝『科学的自伝[A Scientific Autobiography]』(1981、以下『自伝』)はマックス・プランクの同名の自伝から名付けられたものである。また、学生時代を過ごした1950年代に、ロッシは最先端の科学的な議論に親しんでおり、エルヴィン・シュレーディンガーが『On Modern Physics』で論じた概念は、彼の都市認識に影響を与えたことが示唆される(Lampariello(2017))。シュレーディンガーの《individualità[固有性]》の概念は、ロッシが『都市の建築』で論じた「fatto urbano[都市的創成物]」の概念の機能概念と形態概念と両義性へと接続され、ここから、ロッシが自己の都市建築の認識を量子力学への興味を通じて醸成したことが示唆される。 本発表はロッシの量子力学への興味を踏まえ、彼の概念と造形における「重ね合わせの理念」を論じる。例えば、ロッシが1969年に提示した「類推的都市」の理念には異なる都市と都市が、断片として、類推的に結合することとして説明される。ここには、ウィトゲンシュタインの「論理」およびアンドレ・ブルトンの「脱-論理」が同居していた(片桐(2019))。「類推的都市」概念では、ガスタンクや城など都市の部分が「断片(論理像)」として捉えられ、1973年のタブロー《類推的都市》及び1976年のコラージュ作品《類推的都市》へと発展させられる。これらのタブローでは、断片として配置された建築が、同一平面上に配置され、異時同図法的に都市の要素が一枚の平面上に捉えられた。 さらに、2次元のタブローである《類推的都市》が3次元の模型へ変換された作品も存在する。《科学小劇場》(1978)は、告解室をモチーフとした模型作品であり、ロッシ自らの設計した建築物をミニチュアにして内包した「自伝的で私的なものである」(ロッシ, 1984)。『自伝』で《科学小劇場》は「エルバ島の木小屋」やゲーテの人形劇場と関連づけられるが、製作者自身の人生の記憶と重ね合わされるという点でそれらは共通項をもつ。すなわち人間の生命とおなじく、「毎回異なる結果をもたらす」ような記憶の再起が現出する装置である。これは、加速器での素粒子の衝突結果が毎回異なる結果をもたらすように、建築家に付属する要素同士の衝突もまた、その度ごとに異なる結果をもたらすものと解釈される。異なる事物の予期せぬ「重ね合わせ」は、シュレーディンガーの語る「驚愕(タウマイゼン)」とも類比でき、『自伝』の別称である「建築を忘却すること」へと接続される。
長谷川三郎の戦後における伝統と近代の問題
鍵谷怜(東京大学)
長谷川三郎(1906-1957)は、日本美術に対して西洋の抽象美術の動向をもたらした洋画家として知られている。長谷川の美術思想の特徴は、西洋のモダニズムとしての抽象絵画を、日本の伝統的芸術文化に接続したことにある。これはアジア太平洋戦争へと進んでいく1930年代の日本の社会的状況において、ナショナリズムの高揚との関連を指摘されてきた。彼は、戦後も引き続き抽象美術と日本の伝統文化とのつながりを模索していった。作品制作から距離を置いていた戦時中から一転して、戦前の油彩の抽象絵画とも異なる水墨画や木版画を積極的に制作するようになった戦後の長谷川は、一方では雑誌への執筆を通じてアメリカの同時代美術を紹介する役割を果たしている。 本発表は、戦後の長谷川三郎の美術思想について、その作品制作への反映を含めて再検討することで、日本美術の伝統と西洋近代の美術に対する彼の捉え方について考察するものである。本発表では、長谷川の作品が戦後に大きく変化したことに着目して、自らは油彩から離れながらも、抽象美術を一貫して擁護した彼の美術思想における伝統と近代のあり方を検討する。 具体的には、1950年代の著書『モダン・アート』や美術雑誌での論説などの批評的言説を考察することで、国粋主義的な社会と思想の崩壊を経たうえでなお、日本の伝統文化と西洋近代美術の接続を主張しつづけた長谷川の美術思想における戦前・戦中と戦後の差異を明らかにする。その上で、彼の主張と、同時代に同様の問題提起を行った岡本太郎との相違を検証し、長谷川が戦後日本美術に与えた意義を明らかにする。