研究発表2
日時:12:30-14:40
場所:大岡山西講義棟2(西6号館)W641
- トランスセクシュアルの身体と「ホームのポリティクス」/山田秀頌(東京大学)
- 探偵小説生成論序説──パースの記号学から出発して/中村大介(豊橋技術科学大学)
- 衣服としての言語──戸坂潤の風俗論におけるトマス・カーライル『衣服哲学』の影響/五十棲亘(神戸大学)
司会:榑沼範久(横浜国立大学)
研究発表2では、トランスセクシュアルをめぐる生/死政治、記号論を用いた探偵小説の文学性に迫る試み、日本近代思想における風俗論に関する三件の発表が行われた。司会の榑沼範久氏が述べられたように、身体性やテクスト、記号、歴史といった点で三者の発表に共有される問題系が存在した一方、個々の豊かな研究に対してもその輪郭が垣間見えた非常に有意義なセクションであったといえよう。
最初の発表者である山田秀頌氏は、ジェイ・プロッサーによる「ホームのポリティクス」を取り巻く議論の展開を素描するとともに、日本の医療・法制度におけるトランスセクシュアル、あるいは性同一性障害の包摂/排除に関わる事例を元に、その理論の分析枠組みとしての発展可能性を明らかにした。山田氏によれば、日本におけるトランスセクシュアル(概念)を分析するにあたり、ジャスビル・プアによるトランス(ホモ)ナショナリズムとしての「ホームのポリティクス」への言及を敷衍することで、以下の側面が垣間見えるという。それは一方で、診断・身体的移行、そして戸籍での性別変更(「ホームのポリティクス」におけるナショナリズム的側面)により制度内に包摂される力学である。そして、そこで承認される新たな権利主体とは、資本主義の論理と共謀した社会的主体、すなわち国家の経済に貢献する「生産的な」市民としての身体である。また他方で、性同一性障害の言説には、上記の「真面目な」身体との差異化を通じて排除される「廃棄可能な」身体の存在が指摘される。とりわけ日本では、「趣味嗜好の」女装者/男装者がその廃棄可能な位置を占め、「適切なトランスの社会的主体」とは権利主体としての位相を異にすると見做されてきた。このように、トランスセクシュアルの一部が「市民」として承認される過程を俯瞰することで、国家への包摂の論理がトランスへの排除と表裏一体であることが示唆され、そうした排除に抗うべく承認の論理に潜在する力学へのさらなる考察の必要性が強調された。
山田氏に対する質疑応答では、「ホーム」を必要とする人々とトランス、すなわち生成(becoming)それ自体を生きる人々との間に生ずるトラブルをいかに捉えるか、トランスセクシュアルをめぐる対立構造を生み出す制度が是正された後、それでもなお残る内在的な要因の対立をいかに考察すべきか、といった点が主として論じられた。
続く発表者である中村大介氏は、探偵小説を読むという経験の多層的な生成過程を明らかにすべく、チャールズ・サンダース・パースによる記号類型を拡張した探偵小説内の記号図式、及びそこから生成されるその文学性に迫る視座を呈示した。中村氏によれば、パースによる記号の三項関係(記号それ自体のあり方、対象との関係における記号、解釈内容との関係における記号)を用いて示される探偵小説の基本的な特徴は、記述(第一次性)、事件(第二次性)、読解(第三次性)に分類される記号図式にある。しかし中村氏の企図は、パースの記号論を用いた探偵小説の図式化のみならず、そうした図式を跨ぎ、あるいは逸脱する探偵小説固有の運動の析出にまで及ぶ。E・A・ポオ「盗まれた手紙」(1845)における「犯行方法の伏線化(可能態としての記号の現実化)」やG・Kチェスタトン「見えない人」(1911)における「犯人自体の伏線化(可能態としての記号への還元)」といったモティーフのように、記号の第三次性(記号と事件をつなぐ読解)により、第一次性(記述、とりわけ伏線/ミスディレクション)が第二次性(事件)へと主題化されることで探偵小説の観念が形成される。すなわちここでの主眼は、上記の三項関係が相互に重なり、組み込まれることで生成される探偵小説独自の記号体系、及びそれらが探偵小説の類型として受け継がれてきた観念の順序・構造に対する分析にこそあったといえよう。
中村氏に対する質疑応答では、探偵小説における推理と科学的推論はいかに関連するか、推理(及び「解決」)と謎との関係、パースの記号論における疑問文の分類を踏まえ、推理小説における「謎」をいかに記号類型内に位置付けるのか、発表内で言及されたミシェル・フーコーによる世界史の構造といった思想史的背景に関する今後の議論の射程、といった点が主として論じられた。
最後の発表者である五十棲は、戸坂潤による『思想と風俗』にて言及されるトマス・カーライルの『衣服哲学』を取り上げ、カーライルの「衣服」への関心をある種の言語論として繙き、戸坂の風俗論における言語の位置付けに対する一つの解釈を示した。「日常性の原理」を捕捉するための物質的な縁として風俗に着目した戸坂であるが、そうした日々の生活と習慣との連関に迫る試みは、『衣服哲学』においても同様に散見される。しかし、戸坂とカーライルとの風俗に対する関心の差異は、彼らの対照的な言語観、とりわけカーライルの「衣服」を用いた比喩に対する戸坂の批判にこそ表れている。風俗の物質的側面に地位を与えながらも、表層=衣服によって隠蔽されている観念的精神を特権視し、宗教性と結びつきながら科学批判を行うカーライルに対し、戸坂は「道徳」の見地からそれを斥ける。なぜなら戸坂にとって道徳(「文学的道徳」)は、意味の世界に拘泥し日常性から乖離する哲学ではなく、あくまでも科学との連関により出来すると捉えられたからである。そして、技術論の延長として論じられる「文学的道徳」により目指される「科学」とは、自然科学と人文科学に論理的な連関を設定するだけでなく、象徴性の「非存在的な機能」によって構築される綜合的な「文学的影像・表象」の構想であった。
五十棲に対する質疑応答では、『衣服哲学』での肉体と衣服が二重化された「衣裳」という語彙に対する不十分な読解、戸坂の風俗論にて「衣服」が有する特異なリアリティーとはいかなるものか、実在というレベルに「日常性」や「歴史の秘密」といった概念が位置付けられているのか、といった点が主に指摘された。
五十棲亘(神戸大学)
トランスセクシュアルの身体と「ホームのポリティクス」
山田秀頌(東京大学)
「ホームのポリティクス」とは、ジェイ・プロッサーがジェンダー二元論の脱構築というクィアなトランスジェンダーの政治に対抗して提出した、トランスセクシュアルの政治である。プロッサーにおいて「ホーム」は、医療によって作り替えられた身体であり、ホームのポリティクスはトランスセクシュアルのアイデンティティの制度的承認を求める。アレン・アイズゥーラはこの「ホーム」をナショナルなホームとしても解釈することで、トランスセクシュアルがその制度的承認において規範的な性的身体のみならずナショナルな価値の体現をも要請されていることを論じた。本報告では、アイズゥーラの議論をジャスビル・プアが「トランス(ホモ)ナショナリズム」として位置づけていることを念頭に、この「ホームのポリティクス」の理論的な分析枠組みとしての可能性について検討する。特に、規範的な性的身体とナショナルな価値の両方を体現することが、ネーションを構成する良き市民としての生産的な身体の獲得をも意味しているという点に注目し、ネオリベラルな生政治/死政治における特定のトランスの身体の要請と排除が、「ホームのポリティクス」という概念によっていかに把握されうるかについて考察する。さらに、以上を踏まえて、この枠組みが日本の性同一性障害をめぐる医療・法制度の分析にいかなる含意を与えうるかを検討する。
探偵小説生成論序説──パースの記号学から出発して
中村大介(豊橋技術科学大学)
〈パースと探偵小説〉というテーマでは、科学的方法論と探偵の推理を彼の推論の考えによって比較する、という研究がなされてきた。本発表は、推論を含む形でパースが練り上げた記号学を、探偵小説の生成を考察しうる図式へと拡張することを試みる。但しこの拡張は、科学的方法論との比較のためではなく、この小説ジャンルの文学性に迫るためになされる。
発表では「探偵小説における記号」を定義する。その上で、パースの考える記号の第一次性(記号それ自体の在り方)の三区分 ― 可能態としての記号、トークンとしての記号、タイプとしての記号 ― を、それぞれ伏線/ミスディレクション、事件の描写、事件・小説のジャンル(密室もの等)へと拡張する。さらに第二次性(記号と対象の関係)の区分 ― イコン、インデックス、シンボル ― を、類似性、物の連鎖、人の思想・行動の絡み合いへ、そして第三次性(記号と解釈内容の関係)の区分 ― 名辞、命題、論証 ― を手がかり、謎、推理へと拡張する。つまり、第一次性は〈記述〉の側面、第二次性は記述の対象たる〈事件〉の側面、第三次性は〈読解〉の側面に各々当たる。
最後に、この図式による読解事例として、初期から現代まで受け継がれる〈見えない人〉という探偵小説の基本モチーフ(例えば、運送に関わるが故に重要とは思えない人物が犯人)がどう生まれたかを、ごく簡単に示唆する予定である。
衣服としての言語──戸坂潤の風俗論におけるトマス・カーライル『衣服哲学』の影響
五十棲亘(神戸大学)
戸坂潤が1936年に著した『思想と風俗』は、抑圧された歴史が滞留する時/空間として「風俗」(及びそれが遂行される日常生活)の哲学を志向した点で、『技術の哲学』(1933)や『日本イデオロギー論』(1935)といった彼の仕事全体との有機的な連関をなす。その透徹した議論は、「モダンライフ」という物質的かつ加速度的な経験を頽落として退けたマルティン・ハイデガーや、同時代の復古主義的な日本思想に対する厳しい批判として向けられたものであった。その一方で、ヴァルター・ベンヤミンやアントニオ・グラムシらとは、史的唯物論の再構築をめぐって風俗への関心を共有しながらも、彼は日本の「近代という経験」を通してその物質性と言語をめぐる問題へと沈潜していく。
本発表では、以上の前提の下、戸坂が風俗論にて言及した「衣服」への関心とトマス・カーライルによる『衣服哲学』(1833)との関係性に着目したい。まず、戸坂の衣服に関する議論の射程を「習慣と道徳」や「日常性」、「歴史の秘密」といった鍵概念とともに捉え、次いでそれらと『衣服哲学』における思想/音声/言語を精神/肉体/衣服の構造に準える喩法、つまり衣服=言語をその物質性と象徴性のあわいで捉えるカーライルのメタファーとの連関を探る。戸坂は「衣服」にいかなる問題系を見出したのか。「衣服哲学の不在」を問題とした彼らのテクストを対比的に検討し、その一端を明示することが本発表の目的である。