第14回研究発表集会報告

研究発表1

報告:大久保清朗

日時:12:30-14:40
場所:大岡山西講義棟2(西6号館)W631

  • 満映に赴いた日本映画人たちの戦後/李潤澤(大阪大学
  • 溝口健二の映画にみる女同士の絆──『お遊さま』(1951)を中心に/徐玉(大阪大学)
  • 閉塞とスクリーン──リチャード・フライシャー『ソイレント・グリーン』における映画的身体の生命/早川由真(立教大学)

司会:長谷正人(早稲田大学)


映画をめぐる研究発表を集めたセクションであった。内田吐夢、溝口健二、そしてリチャード・フライシャー。作家性の強い監督たちの重要作をめぐる発表がなされた。扱われる作品に主題的な共通性は想定されていなかったけれども、結果的に見ると、〈映画における歴史と/の身体〉、とでも呼べそうな興味深い発表ではなかったかと思う。

まず李潤澤会員の「満映に赴いた日本映画人たちの戦後」であるが、タイトルと発表内容に少なからぬ乖離があった。李会員の発表は、満州映画協会(満映)で映画製作に従事し、戦後に東映で映画を監督した内田吐夢の代表作『飢餓海峡』(1965)において、彼の満映での経験がいかに刻印されているかを分析するものであった。したがってここで扱われているのは満映にたずさわった日本映画人たちの集団的経験というより内田を通して見えてくる満映体験である。李会員はすでに満映の映画雑誌についての研究(「戦時映画雑誌『満州映画』の日・満文版比較──スターの表象を中心に」、『「文化」の解読』第19号、2019年)を発表しており、今回の発表もこうした満映研究に連なるものといえるだろう。

ともあれ『飢餓海峡』のクライマックス、犬飼/樽見(三國連太郎)による八重(左幸子)の絞殺場面を手がかりに、内田がいかにして満映体験を自らの映画作品へと昇華していったかを論証していくさまはスリリングなものであった。刑事たちによる推理に紙数を割いている原作とは異なり、内田は主人公の犬飼/樽見と八重との恋愛メロドラマに重点を置いた。過去を忘れない女と、過去を忘れたい男。2人の葛藤に内田自身のみならず満映映画人の経験が看取できるのではないかというのが李の論旨である。

とくに李が注目しているのは、「W106」という撮影・現像法である。あの異常な熱量を帯びた3時間の大作で、もっとも記憶に残るものといえばあのざらついた映像であろうが、それはこのプロセスによるものである。それは通常の映画撮影用の35ミリフィルムではなく、16ミリのフィルムを敢えて使用し、それを現像段階で35ミリに引き延ばすというものである。これによって画面にニュース映画に似た粒子の粗さがもたらされることになる。内田は機動性の確保、ドキュメンタリーのタッチのためであると説明しているが、これは内田が東北電影製片廠時代にしばしば用いていた手法であったことから、ここに満映の経験を見てとることができるのではないかと李は指摘する。また主人公が素性を隠すために改名をしている点も、満映時代に中国人名で活動していた内田(と満映映画人)の姿に重なるという。これはいささか作品中の人物に監督を追い求める作者探しゲームの罠にはまっているように思われる。しかしそれでも内田が敗戦から10年間、中国に留まっていたことは厳然たる事実であり、それが何らかの形で彼の戦後作品に影を落としていることは確かであろう。今回の発表は、そうした戦後内田作品を読み解く上で示唆に富むものであったといえる。時間の関係上、李会員が準備してきた抜粋映像が十分に見せられなかったのが残念であった。

続く徐玉会員の「溝口健二の映画にみる女同士の絆──『お遊さま』(1951)を中心に」は、文字どおり、女性間において(秘かに)見出される愛──徐会員の言葉を用いればずばり「ホモエロティックな関係」──の表象に焦点をあてた発表であった。徐会員は日本の文芸映画におけるレズビアン表象の研究を続けており(「篠田正浩の映画『美しさと哀しみと』におけるレズビアン表象──川端康成の原作小説との比較から」、『「文化」の解読』第19号、前出)、本発表もそうした研究の延長線上に位置するものと思われる。

周知のように、『お遊さま』は溝口の大映時代の幕開けを告げる文芸作品であり、谷崎潤一郎の『蘆刈』を原作に持つ。物語は大阪の骨董屋の息子・慎之助(堀雄二)と、お遊(田中絹代)、お静(乙羽信子)という2人の姉妹との三角関係をめぐって展開する。見合いの席で、慎之助が自分の見合い相手であるお静をお遊と見間違え、未亡人のお遊に恋することから、誤解と愛の連鎖が始まる。お静は、慎之助のお遊への思いを知りつつ結婚し、自分たちの婚姻はあくまで形だけのものとし、慎之助はお遊を愛して欲しいという。ここには、男性の幸福のために犠牲になる女性という、一見すると旧弊な女性観が見出される。

しかしながら、子細に画面を分析すると、フレーミングにおいては、慎之助とお遊、あるいは慎之助とお静よりも、お遊とお静という2人の女性たちによるツーショットが多用されている。これはロング・ショットが多用されることで、ヒロインが「ぼんやりとした影」としてのみ提示されていた『残菊物語』(1939)のお徳(森赫子)や『雨月物語』(1953)の宮木(田中絹代)とは対照をなしている。また冒頭における慎之助の誤認の場面、お遊が熱中症で倒れる場面など、『お遊さま』では例外的にクローズアップが用いられ、女性のプレゼンスが強調されている。重層的な語りの構造を持つ原作において、お遊の存在感が強調されていないことを考慮すれば、この翻案における改変は目を引くものがある。これとは対照的に、慎之助の存在感が画面において稀薄といえる。

原作において見られる同性愛的な描写の数々(お遊によるお静への授乳や2人の同衾など)は、制作当時においてそのまま映画化することはできなかった。しかし40歳を過ぎた田中絹代が「姉」のお遊を演じることで(妹役の乙羽は当時27歳)、この映画における姉妹は母娘のようにも見える。ここに女性同性愛の検閲を回避するべく利用された「母性メロドラマ」的な関係が(擬似的ではあるが)見出されるのではないか、というのが徐の主張である。それは、旅行先で姉の同衾の誘いを拒む、お静がゆっくりと襖を閉める動きのなかにかろうじて感じ取れるがごとき幽かなものである。このように考えてみれば、『お遊さま』には女性同士の愛が密やかに描かれているともいえるのである。

徐会員の発表は、溝口の女性映画の読み直しを迫る、示唆に富んだ内容であった。戦前に日本文学において見られたレズビアン(いわゆるエス文化)などとも接合できる可能性を秘めた内容であったように思われる。繊細な画面分析が続く発表であったので、プレゼン資料などでの画像提示があれば、より分かりやすいものになったであろう。

最後の早川由真会員の「閉塞とスクリーン──リチャード・フライシャー『ソイレント・グリーン』における映画的身体の生命」は、アメリカの映画監督フライシャーのディストピアSF(早川によれば「エコ・ディザスター・フィルム」)の傑作『ソイレント・グリーン』(1973)をめぐる分析であった。早川会員は、ヘイズコード以後のフライシャー映画──『絞殺魔』(1968)、『10番街の殺人』(1971)、『見えない恐怖』(1971)、『マンディンゴ』(1975)──における映像と音響との関連について精緻な議論を継続して行ってきた(2019年6月2日における日本映像学会第45回大会における研究発表「〈ニュー・ハリウッド〉期のリチャード・フライシャー──映画的身体と暴力の観点」が記憶に新しい)。本発表もこうした研究の成果の一部を成すものである。

『ソイレント・グリーン』は、食糧供給の危機に瀕した近未来が舞台となっている。主人公は合成食品ソイレント・グリーンの製造会社の重役殺害を捜査する刑事ソーン(チャールトン・ヘストン)。彼は相棒の調査役ソル(エドワード・G・ロビンソン)と事件を追っていくうちに、ソイレント・グリーンの原料の秘密にたどり着く。真相を知ったソルは「ホーム」と呼ばれる安楽死施設で自死する。早川の発表はこの「ホーム」での安楽死シーンにおける特異な映像と音響の交錯に焦点を当てるものであった。

ベッドに横たわりクラシック音楽(ここでは「ペール・ギュント」)が鳴り響くなか、ベッドに横たわったソルは、そこで前方(横たわっているとすれば上方部分になるか)にあるスクリーンで映写される雄大な自然の景観を見ながら涙を流しつつ息絶える。従来において、これは登場人物ソルの抱く「内面的なノスタルジア」と解されて来た。しかしそのような安らぎの(いささか凡庸な)図像としてこの自然風景のイメージを解することはできないのではないか。むしろこのイメージそのものが登場人物から命を奪う(早川の言葉を借りれば「魂を引き離す」)のではないかと早川は述べる。

早川はソル演じるロビンソンの声(というよりむしろ末期の吐息)と、彼の身体(具体的には声の発せられる唇)との間にあるわずかなずれに注目する。そして身体イメージと声との乖離について、ミシェル・シオンが述べたアクースメートル(例えば『サイコ』におけるノーマン・ベイツの母親の声を指している)の概念を援用しつつ、このアクースメートルな声、身体から分裂したあと、教会前の墓場で漂いつづける風の音となって漂い続けているのではないかと指摘する。きわめて大胆で刺激的な読解だ。ここからは報告者自身のコメントだが、さらにシオンの議論を参考にするなら、彼は映画の音の有名な3分類、すなわち「イン」「フレーム外」「オフ」のそれぞれの境界のうち、「フレーム外(画面には映っていないが画面外のどこかで流れている音)」と「オフ(ナレーションやサウンドトラックのように映画内には帰属しない音)」のあいだにある境界は「彼岸の世界とを連結させる」ものであるという指摘、そしてこの境界が破られることが「最も致死的」であるという指摘を想起させた(Michel Chion, Le Son au cinéma, Cahiers du cinéma, 1985, p. 43.〔邦訳『映画にとって音とはなにか』勁草書房、1993年、51頁〕)。早川は最後に、この映画に遍在する赤ん坊の声をどう考えるかを今後の課題としている、生と死の境界にあるホームと同じく、生まれたばかりの脆弱な赤ん坊も、ある意味では生と死の閾に存在するものなのかもしれない。
プレゼンと抜粋映像を巧みに使用した発表は非常に説得的なものであったことを付言しておきたい。

アプローチは異なれど、3つの発表はいずれも、映画における閾をいかに思考するかという問題設定を共有していた。満州と日本、異性愛と同性愛、身体と声、そして映像と音響。それはときに交錯し、緊密に交わり、ときに角逐する。それはほとんど愛の別名であろう。これらの発表は、そんなエロティックな闘争へと駆り立てずにはおかないものであった。

大久保清朗(山形大学)



満映に赴いた日本映画人たちの戦後
李潤澤(大阪大学)

帝国日本の植民地のなかで唯一の独立「国家」として存在した満洲国では、映画はその正当性を訴えるための最も大事な文化手段であった。国策映画会社の満洲映画協会(満映と略す)は当時かなりの数の日本の映画人を動員した。1945年の満洲国崩壊後も200人以上の日本の映画人が残り、1953年に至って最後まで残った84名が日本へ引き揚げた。しかし、編集者だった岸富美子が引き揚げて「赤」とレッテルを貼られたことが示唆しているように、満洲国との関わりは「負」の歴史として戦後日本社会に捉えられ、映画人たち自身もこの歴史には口を閉ざすことが多かったと言われている。それでも、満洲国の経験者、満洲国の崩壊と新中国の成立の証言者である彼らの人生に刻印される日中の複雑な歴史はそれで消えたわけではなく、その戦後の活動に染み込んでいるはずである。 本発表はこの意味を抽出することを目的としている。離満時期により映画人たちを3つのグループ<①途中で離満(八木保太郎など)><②崩壊時に離満(加藤泰など)><③最後に離満(内田吐夢など)>に分け、特に在満期間の最も長い③を中心に、彼らが戦後に参加した映画作品を主な対象として着目し、自伝・回想録・彼らの活動を記録した史料を活用しつつ、これらの映画人に見られる同類項を提示したい。それによって、彼らの満洲国での経歴が戦後日本映画史に与えた意味や影響を考察する。


溝口健二の映画にみる女同士の絆──『お遊さま』(1951)
徐玉(大阪大学)

溝口健二は、女を描く映画作家と言われている。溝口が描く女性像はしばしば二つのタイプに分けられる。一つは、男のために喜んで身を捧げる女、もう一つは、同じく男や社会の犠牲になりながらも、そのような運命に必死に抵抗を示す女である(斉藤綾子1999)。前者の例としては、『残菊物語』のお徳、後者の例としては、『祇園の姉妹』のおもちゃなどが挙げられる。しかし、たとえば『お遊さま』においては、二人の女性の関係が描かれていて、それは女同士のホモエロティックな関係だと思われる。『雪夫人絵図』は、雪夫人に憧れの気持ちを抱く女中が語り手となっている。『祇園囃子』では、支えあって生きていく二人の芸者の姿が印象に残る。こうした女性像は、いずれにせよ男性とのかかわりを問題とする上の二つのタイプには収まりきらないものである。 映画において、女性の共同体はレズビアニズムを抑圧する形で働いてきたとされる。女性の女性に対する欲望を取り除き、女同士の関係を「友情」や「シスターフッド」として描くのが慣習であった(Mayne, Judith 1990)。本発表は、ヘイズコード下のハリウッド映画におけるレズビアン的欲望に光を当てたPatricia White(1999)の「レズビアン表現可能性」という概念を援用しながら、『お遊さま』などの作品において、女性たちがいかに同性への愛を感じ、それがどのような映像言語で構築されているかを分析し、溝口映画にみられる女同士の絆を可視化させたい。


閉塞とスクリーン──リチャード・フライシャー『ソイレント・グリーン』における映画的身体の生命
早川由真(立教大学)

本発表では、リチャード・フライシャー監督の『ソイレント・グリーン』(Soylent Green, 1973年)を取り上げ、映画的身体にとって生命とは何かという問題を考察する。映しだされた身体と観客の身体との触覚的な接触という独自の切り口で映画的身体をとらえたのはスティーヴン・シャヴィロであるが、その議論はイメージや音の物質性を重視している一方で、そうした要素がテクスト上で生じさせる意味作用を副次的なものとして扱っていた[1]。本発表では、観客の身体との関連ではなく、映しだされた身体イメージ(映像)と声(音)の多様な結びつき(あるいは分裂)がもたらす意味作用を分析し、テクスト上に息づく独特の生命を備えた存在として映画的身体をとらえなおす。先行研究は、環境汚染やカニバリズムによって生命が搾取される近未来を描いたSF映画の佳作として本作品を論じてきたが、映画的身体に特有の身体性において生命をとらえる観点を欠いていた。しかし本作品においては、映画装置の原理と結びついた生命の在り方が重要な意味をもつのである。本発表ではこの観点から、以下の問題を中心に分析をおこなう。「ホーム」と呼ばれる施設でソル(エドワード・G・ロビンソン)が命を落とすシーンにおいて、なぜ、明らかに映画装置を思わせるスクリーンの映像が介在するのか。また、閉塞した世界で生きる群衆のざわめきや、どこかから響いてくる赤ん坊の泣き声は、何を意味しているのか。これらの分析を通じて、本作品における生命の在り方を明らかにし、映画的身体の生命にかんして新たな知見を提示したい。そのうえで、映画的身体の問題を多角的に提示した〈ニュー・ハリウッド〉期のフライシャー作品において、『ソイレント・グリーン』が占める位置を示したい。 [1] Steven Shaviro, The Cinematic Body (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2011).

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年2月29日 発行