単著

國分功一郎

原子力時代における哲学〈犀の教室〉

晶文社
2019年9月

本書は、著者が2013年に四日間にわたって行った連続講演を加筆・修正のうえ書籍化したものである。2011年3月11日に東北地方を襲った大震災による二次的な被害として、福島第一原子力発電所で炉心溶融が発生するなどの大事故があったことはまだ記憶に新しい。それ以後、原子力発電所の是非を問う議論が活発になされてきた。著者である國分も、反原発派として積極的な発言を行ってきた。本書は、そうした活動のなかで積み重ねられた、核技術についての哲学的反省の記録である。

タイトルの「原子力時代」とは、第二次世界大戦後、「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」というお題目のもとで核技術が人々の日常生活に浸透し始めた頃から現代にいたるまでの時代を指している。國分はこの「原子力時代 Atomzeitalter」という言葉をハイデガーのテクストのなかに見出し、1950年代にはすでに核技術そのものに対する根本的な反省を行っていた特異な思想家として彼を再発見するのである。

もちろん、核兵器や核技術そのものを論じようとした思想家や哲学者はハイデガーの他にもいた。本書でも、ギュンター・アンダースやハンナ・アレント、大江健三郎といった人物たちのテクストが挙げられている。だが、國分によれば彼らの議論は、核兵器を批判しつつ平和利用については認めるか、核技術への問いを技術一般への問いに包含するか、このいずれかの方向性に分類されるものに留まっている。それに対して、平和利用をも含めた核技術そのものに対する批判を行っている点で、ハイデガーは特異的な思想家であると國分は主張する。

國分による、核技術そのものを批判する理論的な取り組みの中心となるのは、ハイデガーの『放下』というテクストである。ハイデガーによるいくつかの証言をつなぎ合わせていくと、彼が原子力を管理不可能な技術であると見なしていたことがわかる。平和利用に供された原子力であっても、それを利用していくためには、最適化された不断の管理が必要となる。だが、不断の管理へと駆り立てられてしまうことそれ自体が、原子力を制御しえない人間の無能を暴露しているのだと、ハイデガーは語っている。

だが、そのように無限のコストを強いるような核技術が、いまや私たちの生活の奥深くまで浸透している。國分は、人類が原子力の平和利用を推し進めた戦後の歴史を概観しながら、なぜこれほどまでに人類が原子力に魅せられたのか、という問いを立てる。この問いに答えるために召喚されるのが、中沢新一による原子力技術の解釈とフロイトの精神分析である。原子力発電所の運用が現実的になりつつあったときに読売新聞が開始した連載「ついに太陽をとらえた」にも象徴的に表れているように、莫大なエネルギーを供給することのできる核技術は、人類にとって太陽に代わるものと考えられている。石油や石炭といった化石燃料も太陽から供給されるエネルギーの蓄積によりもたらされたものであることを考えれば、原子核にまで介入することによって、人類ははじめて太陽のような外部に依存することなく、大量のエネルギーを手に入れることができるようになった。これが中沢新一による解釈である。國分はこの分析を踏まえて、人類が原子力に投影する夢の診断を行う。すなわち、人類が原子力へと駆り立てられてしまうのは、外部に依存することなく完全に自立したエネルギー供給システムを実現することへの憧憬、フロイト的な誇大妄想とナルシシズムの表れである、というのである。

このようなナルシシズムを引き起こす特異な技術とどう付き合えばよいのだろうか。ここで再びハイデガーの『放下』に戻らねばならない。ハイデガーの言う「放下 Gelassenheit」とは、能動的でも受動的でもないような仕方で、自己の在り方についての思惟が湧き出てくるような「落ち着き」のことを意味すると考えられている。このような落ち着きのなかで、私たちは自らが使用する技術が隠し持っている秘密にたどり着くことができる。つまり、「放下」にいたることで初めて、核技術が私たちのなかにナルシシズムや誇大妄想を植え付けていくさまを見つめ直すことができる。これが、國分が本論でたどり着く暫定的な結論である。

本書の議論の当否をいまここで論ずることは難しい。たとえば、ハイデガーの原子力に対する警戒心が彼なりの「放下」の帰結であるのか、というテクスト解釈の次元での問題提起をすることはできる。つまり、ハイデガーが本当に核技術を他の技術から区別したうえでそれ自体に反対していたのか、それとも、ハイデガーは「放下」によって人類と核技術の「よりよい付き合い方」を模索することができると考えていたのか、といった問いである。だが、このような問題提起は本書が扱う問題に対しては意味を成さない。さらに言えば、國分は本書のなかで、技術が社会に与える影響のコスト計算とはまた違う次元で核技術を検討している。それゆえ、著者の結論にどう応じるべきかの答えは、どこかに基準を求めることによって導かれるものとは思えない。このような問題提起の書は、しばしば読者を途方に暮れさせる。だが、ハイデガーが「放下」で描いた三人の登場人物たちのように、途方に暮れることで予期せぬ答えが到来するのかもしれない。

(田村正資)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年2月29日 発行