ハンナ・ヘーヒ 透視のイメージ遊戯
2016年はスイス、続く2019年と、ドイツ語圏を中心に巻き起こった20世紀初頭の前衛的な芸術運動である表現主義、ダダ、そしてバウハウス100周年の節目にあって、関連文献の出版が活況を呈している。なかでも注目すべき動向は『ダダの女性たち』『シュトルムの女性たち』『バウハウスの女性たち』といった、運動に主体的に携わりながらも忘却の淵に沈みこんだ女性芸術家たちの存在にスポットライトが当てられていることである。しかしハンナ・ヘーヒの日本初のモノグラフである本書は、マージナルな存在としての女性たちの活動を一挙に掬い上げるこうした一連の試みとは趣を異にする。ヘーヒは美術家としてすでに確たる地位と評価を得た存在なのだ。ベルリン・ダダの時代はヘーヒの芸術家人生のせいぜいまだ春に過ぎない──そう著者が記すように、本書の綿密な調べによって明らかとなるのは、続く夏の時代の華やかさ、実りの秋、そして長く厳しい冬を生き抜き、内なる情熱を持って貫かれた一人の女性美術家の創作人生の壮大な軌跡である。
だが本書は、稀有な女性芸術家の生を追いかける重厚な伝記であるとともに、彼女の飽くなき視覚実験の展開を詳細に分析し、そこに込められたイメージ思考を果敢に解き明かすという試みにおいて、単なる美術書の範疇を超え出た独自な視覚文化論をも成している。著者はここで、同時代のヴィジュアルテクノロジーの発展と視覚経験の変容をめぐる言説に、透視という、また一つ新たに魅惑的なナラティヴを提示している。事実、フォトモンタージュ/コラージュという技法において立ち上がるイメージの遊戯的な地平を、ヘーヒほど厳密に、そしてヘーヒほど自由に切り拓いた者はいなかった。哀悼という身振り、異文化を切り取る際の眼差し、そうしてイメージ同士を大胆にぶつけ合わせ破壊と創造、そして調和を同時に動きださせる視覚的リズムへの美的感性。それらがヘーヒの作品においてどう読み解けるのか。ヘーヒ研究者としての長いキャリアと研究の蓄積を伴い、揺るぎのない説得力を持って迫る著者の探求によって、ハンナ・ヘーヒをダダから解放するという本書の企図とはおそらく裏腹に、ダダ、あるいは20世紀の前衛芸術運動そのものに潜在していた、超-歴史的な視点とその豊かな可能性が、再び力強く示されたといって良いだろう。
(小松原由理)