トピックス

第10回表象文化論学会賞授賞式

【学会賞】

北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』(白水社)

このような賞を頂き、大変光栄です。まずは審査員の先生方、開催校の京都大学の皆様、どうもありがとうございます。この他に私が感謝したい方はこの場にどなたもおられないのですが、駒場の指導教員の河合祥一郎先生、イギリスでこの本のもとになった博論の指導をしてくださったアン・トンプソン先生とハナ・クロウフォース先生、白水社で編集を担当してくださった糟谷泰子さん、同じく白水社の竹園公一朗さん、出版助成を下さった武蔵大学にも感謝します。それから、この本の最初の部分に少しだけ登場するベネディクト・カンバーバッチとレオナルド・ディカプリオにもお礼を言わなければならないと思います。

この賞を佐藤元状さんのような尊敬できる研究仲間と一緒に受賞することができて、とても嬉しく思います。正直、佐藤さんの本が出た時、「これはダメだな」と思いました。表象文化論学会賞の賞レースでこんな面白い本に勝てるわけがないと思いました。賞はとれなそうだし、私は企画委員長なので大会運営に専念しようと思っていたところ、突然私と佐藤さんが同時受賞だという連絡が来て、大変驚きました。英文学の研究書が2冊同時に受賞するとは思っていませんでした。

ポスドク、院生の方々に是非お伝えしたいことがあります。私は留学先で博論を書き、それを日本語で本にしましたが、ここまでとても大変で、何度も壁にぶつかりました。まず、私は留学するまで一度もイギリスに行ったことがなく、卒論も修論も日本語でした。このため、英語ができなすぎて1年目に落第しかけました。

落第の危機を乗り越え、3年半かけて博論提出にこぎつけましたが、その口頭試問の時、私の研究分野であるシェイクスピア受容史の権威であるマイケル・ドブソン先生からかなり厳しいことを言われた上、モノグラフとして刊行しにくい題材を選んでしまったねというようなコメントをもらいました。これは、私の博士論文のうち、ほとんどがどの図書館がどういうシェイクスピアの古い刊本を所蔵していて、どういう女性が使った形跡があるというようなデータをまとめた表と、その分析だったからです。たしかによく考えると単著としては魅力の無い内容です。これを言われた時は結構ショックで、単著刊行をあきらめかけました。後でドブソン先生に会った時、あの時はけっこう厳しいことを言ったけど実はわりと面白いと思ったんだ、と褒めて頂いてものすごく嬉しかったのですが、どうも一般的に博論審査の時は、面白いと思っても先生はとても厳しいことを言うようです。院生の皆さん、あまり落ち込まないでください。

博論が通って学位が出た後、英語での出版を検討しましたが、実はイギリスで提出された博論は基本的にリポジトリで電子公開されます。このため、出版社は既に公開されたものを書籍化することに消極的で、まあモノグラフに向かない題材ですし、引き受けてくれるところがありませんでした。武蔵大学から出版助成を頂き、白水社からなんとか日本語で刊行することができました。

このように、この本は刊行される前に何度も失敗やトラブルがあり、もう出ないんじゃないか…と思うことが何度もありました。それでも刊行され、賞まで頂くことができました。院生、ポスドクの皆さん、落第しそうになっても、博論審査で厳しいことを言われても、出版社に断られても、頑張り続ければきっと研究が世に出る機会があります。挫折しそうになってもあきらめずに、どうぞ学問に貢献してください。

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佐藤元状『グレアム・グリーン──ある映画的人生』(慶應義塾大学出版会)

この度は、表象文化論学会賞をいただき、心から嬉しく思います。専門とする時代は異なりますが、同じくイギリス文学を主要な研究対象とする北村紗衣さんとの同時受賞にもたいへん感動いたしました。表象文化論学会の懐の深さといいますか、学際的な研究を軸に据えて人文学全体をカヴァーしていこうという、力強い意思を感じました。まずは選考委員の先生方に心より感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

『グレアム・グリーン──ある映画的人生』は、私の二作目のモノグラフとなりますが、その執筆にあたって、いつも一冊の書物が私の念頭にありました。山田宏一さんの名著『トリュフォー──ある映画的人生』です。ここで、ひとつのパラグラフを引用させてください。

映画のような人生、人生のような映画。映画が人生を模倣するとしたら、人生もまた映画を模倣するのである。そして、人生と映画のあいだを行ったり来たりしながら、いつも「<絶対>の探求」の主人公の断末魔の台詞を、おどろきとともに、歓びとともに、苦しみとともに、怒りとともに、感動とともに、叫びつつ、フランソワ・トリュフォーは五十二年の生涯を終えていったような気がするのだ。

山田さんは、トリュフォーの生き様を「映画的人生」という言葉で言い表し、トリュフォーの言葉を自身の文章に織り交ぜながら、この稀有な映画作家の生の移ろいを一冊の書物にまとめ上げました。トリュフォーとは異なり、グリーンは、映画批評家から映画監督へと転身するのではなく、あくまで小説家の道を歩み続けました。しかし、グリーンにとって、彼が三十代の前半に身を捧げた映画批評家としての仕事は、彼ののちの人生にとって決定的な意味を持っていました。グリーンもまた「ある映画的人生」を生きた人物だったのです。

『トリュフォー──ある映画的人生』の最終章は、トリュフォーの長編第一作『大人は判ってくれない』をめぐる考察で幕を閉じます。私はこの物語の最後に置かれた「始まり」のエピソードをこよなく美しいと思っています。今回立派な賞を頂戴し、たいへんありがたく思いますが、私の研究者としての人生もまだ始まったばかりです。一日一日を丁寧に研究に捧げてまいります。そしてこれからもみなさんに自信をもって読んでいただけるような本を書き続けていきたいと思います。みなさん、今日は本当にありがとうございました。

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【奨励賞】

佐藤真理恵『仮象のオリュンポス──プロソポンの概念とイメージ変奏』(月曜社)

このたびは名誉ある賞に選出いただき、身に余る光栄に存じます。じつは、ここしばらく学会にはご無沙汰しておりましたが、このような不届き者にも受賞のチャンスを与えていただき、驚きとともに、表象文化論学会の懐の深さをしみじみと実感している次第であります。

まずはなにより、ご多忙のなか審査にあたられた先生方に厚く御礼申し上げます。また、推薦くださった皆さまにも感謝いたします。本書は京都大学に提出した博士論文をもとにしておりますが、博論の審査を担当いただいた先生方、ならびにつねに助言や激励をくれた研究室の仲間達にも、この場をお藉りして御礼を申し上げます。そして、とうてい売れる見込みのない拙著の出版を採算度外視で快くお引き受けくださった月曜社の小林浩さんの漢気にも、格別の謝意を表します。

本書は多くの方々の助力を得て成ったものですので、御礼を申し上げねばならない皆様は他にも沢山いらっしゃいますが、なかでもここではとりわけ指導教官である岡田温司先生に謝辞を述べさせていただきたく思います。岡田先生が事務連絡以外のメールをくださることは滅多にないのですが、このたびの受賞が決定するなり、真っ先にお祝いのメッセージを寄せてくださいました。この一件は、わたくしにとり、なにより嬉しいものでした。不出来な学生のため、これまでずっと岡田先生を煩わせてばかりでしたが、来春の先生の退官を目前に、今回やっと少しばかり孝行が出来たような気がいたします。個人的な事情ではございますが、表象文化論学会の皆様には、このような恩返しの好機を与えていただき、重ねて感謝いたします。

本書は、プロソポンなる古典ギリシア語が、「顔」という第一義のほかに「役柄」、「人格」や「仮面」をはじめとする多様な語義を内包しえたのは何故なのか、というしごく単純な疑問に端を発しております。とはいえ、この疑問を探っていくうちに、語義のみならずプロソポンをめぐる言説の重層性を目の当たりにすることになりました。その重層性はひとえに、古代から現代にいたるまでの先達による累々たる研究の積み上げによるものです。しかしながら、本書は、議論になんとか「独創性」めいたものをもたせようとしたりエッジを効かせようとしたあまり、先達が練り上げてきたそれら精緻な議論を掬いきれていないなど、反省が多々残っております。また、西洋文化の核を成すともいわれるプロソポン概念のなかでも、本書ではおいしい部分ばかりをつまみ食いしてしまったという罪悪感もございます。今後は、より丹念に地道にテクストと向き合い、まだメジャーとはいえないプロソポン研究の発展のためにも、後進の研究者が活用できる成果を残していかねばと決意を新たにしております。

本書の出版により、わたくしもやっと研究者としてのスタート地点に立つことが出来たわけですが、思いがけぬ反応やご指摘も頂戴し、自身の見解を世に問う怖さとともにその責任感を痛感しているところです。このような不安のなか、今回奨励賞に選出いただく僥倖に与り、これから精進すべし、と背中を押していただいたようで大変心強く感じております。

最後に、プロソポン=「顔」は、いうまでもなく古代ギリシアのみならず現代いたるまで多岐にわたる研究にかかわる主題でありますゆえ、学会員をはじめとする皆さまより、今後もさまざまな方面からご意見やご教示を賜ることができましたら幸甚に存じます。

改めて、このたびはありがとうございました。

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【特別賞】

該当なし


選考委員

  • 亀山郁夫
  • 北原恵
  • 中島隆博
  • 長谷正人

選考委員会
2019年6月2日(日) 東京大学駒場キャンパス

選考過程
2019年1月に、表象文化論学会ホームページおよび会員メーリングリストをつうじて会員から候補作の推薦を募り、以下の著作が推薦された(著者名50音順。括弧内の数字は複数の推薦があった場合、その総数)。

【学会賞】

  • 大津若果『隈研吾という身体』(NTT出版)
  • 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画──メディア間交渉のなかのドラマ』(名古屋大学出版会)
  • 北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』(白水社)
  • 木水千里『マン・レイ──軽さの方程式』(三元社)(2)
  • 佐藤元状『グレアム・グリーン──ある映画的人生』(慶應義塾大学出版会)
  • 佐藤真理恵『仮象のオリュンポス──プロソポンの概念とイメージ変奏』(月曜社)(2)
  • 平芳裕子『まなざしの装置──ファッションと近代アメリカ』(青土社)
  • 千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社)

【奨励賞】

  • 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画──メディア間交渉のなかのドラマ』(名古屋大学出版会)
  • 北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』(白水社)
  • 佐藤真理恵『仮象のオリュンポス──プロソポンの概念とイメージ変奏』(月曜社)
  • 平芳裕子『まなざしの装置──ファッションと近代アメリカ』(青土社)
  • 福尾匠『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)(2)

【特別賞】

推薦なし

選考作業は、各選考委員が候補作それぞれについて意見を述べ、全員の討議によって各賞を決定してゆくという手順で進行した。慎重かつ厳正な審議の末、学会賞に北村氏と佐藤氏の著作、奨励賞に佐藤氏の著作を選出することに決定された。


【選考委員コメント】

亀山郁夫

表象文化論学会賞、奨励賞の選考をめぐって総評めいたことを書いてみたい。対象となった9作いずれの著書も、個性にあふれ、きわめて高い水準にあった。著作のジャンル、性格は多岐にわたったため、選考面では逆に大きな困難を伴わなかったというのが率直な印象である。私が講評した順に述べていくと、北浦寛之『テレビ成長期の日本映画──メディア間交渉のなかのドラマ』(名古屋大学出版会、2018年)は、戦後日本の裏面史ともいうべきスリリングな内容に富んだ読み物で、近年話題となった乗松優氏の快著『ボクシングと東亜』(大平正芳賞)にも匹敵する労作である。団塊世代に属する私にとっては、まさに生きた歴史そのものであり、その分強い思い入れをもって読み通すことができた。奨励賞の有力候補と判断したが、他の選考委員からは、欧米のテレビ文化の影響といった視点がない等の指摘があり、惜しくも授賞にはいたらなかった。もう一段階上での論旨の整理が出来ていればよかったかもしれない。次に、晴れて、学会賞授賞となった北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』(白水社、2018年)は、女性の観劇者、読者というきわめて独創的な発想が魅力的であり、リーダビリティも高く、なおかつ足で稼いだ強みを感じた。選考委員から総じて高い評価を得たが、若干、羅列主義的であるのと、もう一歩突き抜けたインパクトが欲しかったというのが、私の本音である。ただし、これを学会賞候補とすることに反対の立場はとらなかった。佐藤真理恵『仮象のオリュンポス──プロソポンの概念とイメージ変奏』(月曜社、2018年)は、学問的真摯さという点で、私自身、強く推した。表象文化論であればこそ、言語との格闘という側面が強く出るべきだとの私なりの考えを裏付けてくれる著作だったからである。とりわけ、複数の言語を駆使した「プロソポン」の分析は、表象文化論学会のひとつの見識とレベルを示すものである。この著作に対して、学会賞にいち押しする声もあったが、私自身は、次の世代への範という意味から奨励賞が妥当ではないかと考えた。次に、20代の書き手ということで議論の的になり、なおかつ評価が分かれたのが、若きドゥルーズ研究者福尾匠による『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社、2018年)である。この著者の才能に注目し、奨励賞に、という強い推薦もあったが、著書の冒頭で示されたテーゼが逆に足かせになったのでは、という疑念も発せられ、最終的には次の著作を見ようという流れになった。大津若果『隈研吾という身体』(NTT出版、2018年)は、非常に明快かつ分かりやすい文章で隅研吾氏の建築の本質を余すところなく開陳してみせた才気あふれる著作である。時の人である同氏の理解に大きく貢献する著作である一方、多分にジャーナリスティックな性格がつよいため、いずれの賞の対象とすることにも少なからず疑念が出た。私もそれに同意した。木水千里『マン・レイ──軽さの方程式』(三元社、2018年)については、学会賞の候補となりうると判断した。私自身、長くロシアアヴァンギャルド研究に勤しんできた経緯もあり、個人的にマン・レイに強い関心を抱いていたこともある。だが、私自身、この本の魅力を説明しきれなかったこともあって、流れは別に移った。佐藤元状『グレアム・グリーン──ある映画的人生』(慶應義塾大学出版会、2018年)は、『第三の男』に西部劇の影響を見るなど、いくつかの先駆的発見もあり、著作それ自体高いリーダビリティを保持していることから、学会賞のひとつの方向性を示唆するものとして強く推した。平芳裕子『まなざしの装置──ファッションと近代アメリカ』(青土社、2018年)も評価が分かれた。ただ、議論の流れ次第では、学会賞授賞もありえた労作である。ファッション論という表象文化論における新しい流れを集約する著作としての意義もあれば、学問的厳密さも備えている。全体的に評価は高かったにもかかわらず、最後の一押しがなく授賞に至らなかった。最後に、千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)である。私自身は当初、第一にこの著書の評価をめぐって議論の流れができるだろうと予測し、もっとも努力して読み、委員会にもそれなりの覚悟をもって臨んだ。言語と表現との格闘という側面において群を抜いていると感じたからである。ただ、千葉氏がすでに本賞の受賞者でもあること、また、同氏が日本を代表する論客の一人として注目されはじめている事実等に鑑み、表象文化論学会を超えた次の段階の評価を待つべきだと考え、私自身、最終的に同著をあえて強く推すことはしなかった。以上が私の総評である。


北原恵 2019年度 表象文化論学会賞授賞式でのスピーチ

みなさま、こんばんは。今回、選考委員のひとりを務めました大阪大学の北原です。

このたびは、北村紗衣さん、佐藤元状さん、佐藤真理恵さん、表象文化論学会の学会賞・奨励賞の受賞をおめでとうございます。そして、自薦・他薦によってノミネートされた方たち6名の皆様の研究の功績を称えたいと思います。

審査にあたったのは、亀山郁夫先生、中島隆博先生、長谷正人先生、そして北原の4名です。これから、選考の経緯と理由を簡単にご紹介いたします。

6月2日、東大(駒場)の表象文化論研究室において選考委員会が開催されました。ところが私は風邪が悪化して東京に行くことができず、当日朝、加治屋先生にお願いして急遽スカイプで参加させていただくことになりました。会議では選考委員が一人ずつ、各著作について講評し、その後全体の討議を通して、大賞と奨励賞が決定しました。

「それがいくら表象文化論学会の特徴であるとはいえ、隈研吾からマン・レイからドゥルーズからファッション史からシェイクスピア受容史から戦後日本映画史からグレアム・グリーンにまで至るような、多種多様な芸術表現を主題とし、多種多様な方法で論述された学術研究書を並べて読み、そこに一定の評価基準で何らかの優劣を下すなどという営為は、どう考えても凡庸な一研究者にとっては無理難題だったというしかない」、という長谷正人先生の講評には全く同感です。たった4人の選考委員が全ての領域の専門知識をカバーしているわけでもありません。実際、選考委員会では意見も分かれました。そこで、私たちは選考委員の誰かが「この書物こそ学会賞に押したい」と自信をもって推薦できる書物を選ぶことになりました。その結果、学会賞には、佐藤元状氏の『グレアム・グリーン──ある映画的人生』(慶應義塾大学出版会)と、北村紗衣氏の『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』(白水社)が、奨励賞には、佐藤真理恵氏の『仮象のオリュンポス──プロソポンの概念とイメージ変奏』(月曜社)が決定しました。

学会賞に決まった佐藤元状氏の『グレアム・グリーン──ある映画的人生』は、映画の専門家にとってはもちろんのこと、専門外の私にとっても楽しみつつ教えられることの多い力作であることは間違いありません。「グリーンの文学作品が、いかに映画の影響にあったかを、批評家としての活動という評伝的事実や彼自身の映画批評の評言から明らかにしていく著者の著述は、視覚的なモダニズム芸術との隣接性から論じられることの多かった同時代の映画分析に、言葉や文学の視点から光を当てるという意味で、新鮮な視点を提供してくれた」(長谷)という批評と、「『第三の男』に西部劇の影響を見るなど、いくつかの先駆的発見もあり、著作自体の高いリーダビリティを保持」(亀山)しているという強い推薦の言葉には深くうなづかされました。

私は、北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』の視点の独創性と困難な調査に圧倒されました。「この著作は、シェイクスピア劇を女性たちがどう見ていたのか、どう読んでいたのかを、徹底的な資料調査の上で明らかにしていったもの」であり、「それによって、女性たちが、観ること、読むことの楽しみを通じて、解釈共同体に大きく寄与し、シェイクスピアが「正典」として流通するのに重要な役割を果たしたこと」(北村)を明らかにした研究です。16世紀末から18世紀半ばに女性たちが使ったシェイクスピア刊本800冊以上に及ぶ大規模な調査を実施し、18世紀に開催された「シェイクスピア・ジュビリー祭」に参加し身分特定された204名のうち46名が女性であったことを突き止めるという気の遠くなるような作業――。歴史や記録の残りにくい女性の痕跡を、フォリオへの書き込みの丁寧な分析を通じて証明していく同書からは、著者の女性たちへの共感が伝わってきて、時空を超えて彼女たちと交流する姿が目の前に見えるかのようでした。

奨励賞に選ばれたのは、佐藤真理恵氏の『仮象のオリュンポス──プロソポンの概念とイメージ変奏』(月曜社)です。「プロソポン」とは、古代ギリシアにおいて「顔」であると同時に「仮面」を意味します。哲学、演劇、美術において極めて重要な役割を果たしたその概念・表象を、古典文献学と美術史、神話学などの成果を駆使し、具体的で詳細かつ、ダイナミックに迫ろうとする研究でした。男性のみによって演じられた古代ギリシアの演劇を示す陶器に描かれた絵の分析は秀逸であり、私は序章からすっかり魅了されました。さらに「顔のない存在(アプロポス)」である匿名性が氾濫している現在にも、問いを開いていこうとする姿勢も高く評価されました。「学会賞に」という声もありましたが、今回は、「次の世代への範に」という期待を込めて奨励賞になりました。

ノミネートされた著作6点について以下、簡単に紹介したいと思います(50音順)。

大津若果氏の『隈研吾という身体──自らを語る』(NTT出版)は、読みやすくてわかりやすく、一般の人に隈研吾の魅力をよく伝えており、北浦寛之『テレビ成長期の日本映画:メディア間交渉のなかのドラマ』(名古屋大学出版会)は、テレビの台頭で映画が斜陽になったと言われる定説に疑義を唱え再考を促す意欲作でした。木水千里氏の『マン・レイ──軽さの方程式』(三元社)には、世界的知名度がありながら学術的な研究があまりないという、マン・レイをめぐる研究状況にまず驚かさせられ、千葉雅也氏の『意味がない無意味』(河出書房新社)は、どの審査委員も高く評価しましたが、同書が批評・論文などの短文のアンソロジーであることと、前著で学会賞をすでに受賞していることから対象から外れました。平芳裕子氏の『まなざしの装置──ファッションと近代アメリカ』(青土社)は、「ファッションはなぜ女のものとして語られるのか」という問題設定自体が面白く、従来のフランス中心でデザイナー中心主義を再検討させる力作であり、今回最年少の福尾匠氏の『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』は、同氏の講演会を発端に実を結んだ若手の才能に期待を抱かせる著作でした。

 

私は今年度で審査委員の任期2年間を務めさせていただいたことになります。昨年度は、「優劣のつけがたい専門性の高いモノグラフィーを避け、専門領域以外の読者にも接点を持ちうるような開かれた研究であることを、選考の指針」としましたが、この指針は今後も続いていくでしょう。それは、領域と研究方法が広すぎて「選考委員の手に負えない」ということではなくて、今日、学問の狭い領域を越えた、専門領域外の人にもわかる「実力」が求められているからであり、「表象文化論」が切り拓こうとしてきたものでしょう。そのような実力を着実に身につけ磨いている若い研究者の存在は心強く感じます。また、今後は、審査も難しくなるかもしれませんが、日本語以外で書かれた著作も自薦・他薦してほしいです。これからも面白く、もっと大胆な冒険をしてほしいと思います。

これからの会の発展と会員の皆様もご活躍を心から祈っております。


中島隆博

今回も多くの力作が寄せられました。昨年同様、悩みに悩んだ末に、学会賞二作品と奨励賞一作品を選考いたしました。

まずは学会賞から講評いたします。

北村紗衣さんの『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書』にはただただ圧倒されました。この著作は、シェイクスピア劇を女性たちがどう観ていたのか、どう読んでいたのかを、徹底的な資料調査の上で明らかにしていったものです。それによって、女性たちが、観ること読むことの楽しみを通じて、解釈共同体に大きく寄与し、シェイクスピアが「正典」として流通するのに重要な役割を果たしたことが、わたしたちのもとに届けられました。この著作が優れているのは、個々の女性一人一人に迫って、「観ること」「読むこと」の具体的な手触りとその変遷を明らかにしていることです。それは、「観ること」「読むこと」が単に受動的な行為ではなく、実に能動的な行為であることをあらためて教えてくれますが、同時に、能動的な行為は一人一人のパーソナルな関与であって、十把一絡げにはできないことを忘れてはいないというメッセージでもあります。別の言い方をしますと、シェイクスピア劇を楽しんだ女性たちをどう書くのが、その観劇と読書のあり方それ自体に密接に関わっていることを十分意識してこの著作を書いているのです。シェイクスピア・ジュビリー祭に極まる本書は、それ自体が、一人一人の女性の声が谺するような祝祭空間でもあるように思いました。

佐藤元状さんの『グレアム・グリーン──ある映画的人生』は、小説と映画の「情事」を描いたもののようです。「のようです」と書くのは、この「情事」が何重にも混交したものであって、読者として何を目撃させられているのかが、しばしばわからなくなったからです。それでも著者がグレアム・グリーンの「メタフィクショナルな玉ねぎのイメージ」を提示する圧倒的な熱量には打たれざるをえません。そしてそれに打たれた読者はきっと、このような本が書ければと思ってしまうことでしょう。そのような魅力がある本ですが、心憎いのはその「始まり」と「終わり」の扱い方です。わたしが知っている作家たちは、小説はその終わらせ方が難しいとよく口にします。ところが、本書はグリーンの『情事の終わり』を最後に持ち出して、再び「始まり」によって終わるのです。見事なのですが、しかし、何だかうまくできすぎている気もして、落ち着かない感じが残ります。「玉ねぎ」に巻き込まれたいような、巻き込まれたくないような、そんな落ち着かなさです。きっと、本書の魅力はこのような仕掛けにもあるのでしょう。

次に、奨励賞について講評いたします。

佐藤真理恵さんの『仮象のオリュンポス──古代ギリシアにおけるプロソポンの概念とイメージ変奏』は、表象文化論の重要な柱に古典研究があることを、あらためて思い起こさせてくれました。副題にあるように、この著作は「プロソポン」という古代ギリシアの概念をめぐって、エティモロジーを徹底して追求し、考えられる限りの関連する文献を精査したものです。これだけでも頭が下がる思いがいたしましたが、最後の第四章での、「プロソポン」に否定辞をつけた「アプロソポス」という概念の扱いは見事の一言です。従来「顔が無い」と理解されていたこの概念が、「非個人性」や「非人称性」さらには「顔を脱ぎ捨てる」という地点にまで広げられて、まったく別様の意味を示す可能性を描き出したことには唸らされました。ただ望蜀を承知で言えば、「プロソポン」に重なるラテン語の「ペルソナ」をめぐるこれまでの議論との対話をもっと読みたかったように思います。パーソナルなことを申し上げれば、坂部恵のペルソナ論にどう向かい合うのかを伺う機会があればと思っています。


長谷正人

それがいくら表象文化論学会の特徴であるとはいえ、隈研吾からマン・レイからドゥルーズからファッション史からシェイクスピア受容史から戦後日本映画史からグレアム・グリーンにまで至るような、多種多様な芸術表現を主題とし、多種多様な方法で論述された学術研究書を並べて読み、そこに一定の評価基準で何らかの優劣の判断を下すなどという営為は、どう考えても凡庸な一研究者にとっては無理難題だったというしかない。当然ながらこちらは、すべてのジャンルに対して専門家としての知識を持つはずもなく、専門家でないために専門家にとっての常識を過剰に面白いと思ってしまったり、逆に専門家であるが故に細かな誤りが過剰に気になってしまったりといった不平等な裁定を下しているのではないかという不安につねに苛まれながら、しかしすべての書物に対して平等な距離を保つような倫理的な姿勢を保ち続けることに、四苦八苦したというのが正直な感想である。

そのような苦しみの読書の連続のなかで考えたことは、そのような不安にも関わらず、これは「絶対に面白い」という確信に近い感覚が生じるということである。だから学会賞の審査員として自分の名前を公に晒してしまった人間の責任とは、この本が何と言われようと絶対的に面白いのだという判断することだと考えた。その意味で今回受賞した3作は、いずれも審査委員の誰かが、この書物こそ学会賞に推したいと考えてきた絶対的な一冊ばかりであり、論理的な説得や交渉によって相対的な優劣を決めるのとは異なった形で決定されたことを、私は大変良かったと考えている。

さて私が今回、この一書として推したのは奨励賞に収まった佐藤真理恵『仮象のオリュンポス』であった。そもそも古代ギリシアで悲劇を演じていた俳優が男性だけで、彼らがみな仮面を被っていたこと、そしてその様子が陶器画に描かれているといったことさえ知らなかった無教養な人間にとっては、プロソポン=顔というギリシア語の意味の揺らぎを、文献(言葉)と陶器画(イメージ)の両面から読み解いて明らかにしていく本書の論述は実に刺激的で、古代ギリシア世界の文化のありようが少し理解できるようになるのだが、それが同時に現代においても変わらぬ顔=表層性の普遍的な問題に通じているところがさらに面白かった。あるいは、杯に描かれた正面観の図像をその絵の内容から読み解いていた論述が突如反転して、その杯をあおるときにそれ自体が飲んでいる人間の仮面のように見えることに着目するとき、そこに思考のダイナミズムを感じることができた。それを読むことが、そのまま思考のプロセスとなるように文章が差し出されているという意味で、本書は随一であると私は感じた。

次点として私が推挙したのは、学会賞を獲得された、佐藤元状『グレアム・グリーン──ある映画的人生』であった。本書は何より読み物として面白い。グリーンの文学作品が、いかに映画の影響にあったかを、批評家としての活動という評伝的事実や彼自身の映画批評の評言から明らかにしていく著者の論述は、視覚的なモダニズム芸術との隣接性から論じられることの多かった同時代の映画文化に、言葉や文学の視点から光を当てるという意味で、新鮮な視点を提供してくれた。グリーンの文学をヒッチコックやラングのスパイ映画と互いに影響関係があったものとして論じることで、ジンメルやクラカウアーのそれとは違った視点で探偵小説的なモダニティが顕わになってくる。ただ、私自身の専門である映画研究自体としてみた場合にはやや物足りなかった。メロドラマやサスペンスといった概念を使って映画を論じるときにそれらの概念の常識を揺るがすような論理が展開されるわけではないという意味で、映画研究に何らかの貢献をするというより、レトリックで読ませてしまっているという印象を持った。

さらに三冊目として私が推したのは、北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』であった。60年代日本における映画産業の凋落の原因をテレビ産業の勃興に求める常識に挑戦して、それは東映を中心とした映画産業側の過剰生産と過剰供給によって引き起こされた自滅だったとする問題提起は実に面白かった。松竹ヌーヴェルバーグや鈴木清順や加藤泰のプログラムピクチャーなど、作家主義的にこの時代の映画史を眺めることに慣れてしまった私の眼には、下部構造から語られる日本映画史は斬新だった。ただし、映画とテレビの折衝の場としての「テレビ映画」が論旨の中心に置かれている割には、それへの言及がいささか薄いように感じた。それはこの時代の映画人たちのテレビへの侮蔑を反復してしまっているように感じられて気になった。それについては『映像学』次号に書評を書いたので読んで頂ければと思う。もちろん私は、本書が受賞を逃したことに何かの不満をもっているわけではない。ただ力作を物にした著者への励ましとして感想を書かせていただいた。

なお千葉雅也『意味がない無意味』については、著者がすでに過去の受賞者であり、依頼原稿を集めた論集であるという二つの理由で、他の候補作と同じ基準で審査できないと考え、読んだうえでだが選考からは外した。

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行