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連続公開セミナーおよび国際ワークショップ 「展示の映画」(5/8, 15, 22, 29)「イメージと時間:写真、映画、ニューメディア」(5/26)」

報告:東志保

連続公開セミナー「展示の映画」および国際ワークショップ「イメージと時間」.JPG

2019年5月、大阪大学文学研究科文化動態論専攻アート・メディア論講座では、パリ第三大学映画視聴覚研究科教授のフィリップ・デュボワ氏を招聘教授として迎え、連続公開セミナー「展示の映画」、および国際ワークショップ「イメージと時間:写真、映画、ニューメディア」を開催した。

連続公開セミナーは、現代芸術の実践のなかにある映画の存在形式という特殊な領域を学ぶことで「映画」という概念自体への問いかけを行う目的を持つもので、セミナーの初日は「映画とは何か?」という、バザンの有名な問いかけを転用する形で講義が始められた。フーコー、ドゥルーズ、アガンベンらによって練り上げられた装置概念、そして映画理論における装置論の系譜を土台に、「Le cinéma in situ(本来の場所にある映画)」が、近年の「ポスト映画」といえる状況において、どのように変容していったかについて、具体的な作品例を挙げながら論じていくものであった。「ポスト映画」のひとつの形態としての「展示の映画」は、場の移動(映画館から映画館外の空間へ)および投射価値から展示価値へ、という、映画の古典的な形態の二種類の移転をもたらしたが、それは映画の死ではなく、むしろ映画による他の領域への伝染であるとし、映画と現代芸術の間の対話に積極的な意味を見出すものであった。

国際ワークショップでのデュボワ氏の基調講演「写真、映画、時間。イメージに時間を見ることはできるのか?」は、写真、映画、ヴィデオ、デジタル映像を「時間機械」としてとらえ、イメージによる時間の創造の系譜として、瞬間性によって特徴付けられる写真の時間、「真の持続」としての映画の時間、準拠するものなしに伸縮する、デジタル映像の時間について考察を与えるものであった。特に映画の時間について多くの例が挙げられたが、リュミエールが映画の規範(「のように見る」)を成立させたのに対し、マレーは新しい時間の発明によって前代未聞の視覚を体験させようとする(「より知るために見る」)とし、そのマレー的な試みは、ヴェルトフとエプシュタインによる、サイレント時代の時間的実験に受け継がれるという観点は、写真、映画、ヴィデオの相互浸透について、イメージの次元で分析を行ってきたデュボワ氏ならではのものといえる。

堀潤之氏とのディスカッションでは、写真における「持続」、フォトジェニーと時間的操作の関係、古典的なフィクション映画における時間的操作(特に「画面の停止」)について、意見交換が行われた。堀氏から提起されながらも、時間の制約により残された重要な問いとして、デュボワ氏が長年考察の対象としてきたヴィデオの時間はどう位置付けられるのか、ということが挙げられる。今回の来日を端緒に、更なる議論が展開していく契機になることを願う。

(東志保)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行