研究ノート

生の痕跡としての「穴」──大江健三郎作品における「テン窪」というトポス

菊間晴子

「テン窪」とは

大江健三郎の小説作品には、彼の故郷の地・大瀬(愛媛県喜多郡内子町大瀬【旧・大瀬村】)をモデルとしつつ、彼の想像力によって作り上げられた「谷間の村」という場所を舞台としたものが多くある。早くは『遅れてきた青年』(1962)や『万延元年のフットボール』(1967)が挙げられるし、『同時代ゲーム』(1979)以降の中期〜後期作品には、「谷間」および「在」と呼ばれる集落、そしてその高みに広がる「森」から構成される「谷間の村」の空間構造が、少しずつその細部を変化させつつも、作品横断的に受け継がれていくことになる。

本論が注目するのは、『懐かしい年への手紙』(1987)の作品世界において、「在」から高みへと登ったところに存する「テン窪」と呼ばれる一画である。長らく湿地帯であったこの区画は、語り手・Kの師匠(パトロン)的存在としてのギー兄さんの手によって「美しい村」として開発された後、檜の巨木のそびえる小島を浮かべた人造湖へと変容する。また『燃えあがる緑の木』三部作(1993-1995)においては、新たに「ギー兄さん」という名で呼ばれることとなる人物・隆を「救い主」とする「燃えあがる緑の木」教会の礼拝堂が、テン窪人造湖のほとりに建てられる。そして『宙返り』(1999)においては、教会が解散した後テン窪に遺されたままになっていた教会の施設に、「師匠(パトロン)」と呼ばれる人物が主導する別の教団が移り住み、そこを本拠地として活動を繰り広げる様子が描かれる。大江が2000年以降取り組んだ「後期の仕事(レイト・ワーク)」作品群において、テン窪はその作品世界における「谷間の村」の中から一旦姿を消すが、その集大成としての『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(2013)には再びその姿を表すと共に、大江自身の明らかな似姿としての老作家・長江古義人が東京から移り住み、息子・アカリと共に過ごす終の住処としてさえも選ばれるのである。

テン窪は、ギー兄さんや師匠(パトロン)ら登場人物の手によってその様相を大幅に変化させられていく場所であり、その変化は、彼らの生涯をかけた「魂」をめぐる思考と実践に結びついている。『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』(1982)や『新しい人よ眼ざめよ』(1983)に顕著なように、大江作品に示される死生観の核には魂の帰着点・出発点としての「樹木」のイメージがあることを踏まえれば、テン窪中央に陣取る塚にそびえる巨木・テン窪大檜の持つ象徴性は明らかである。しかしながらテン窪を、彼の死生観を反映するイマジナルなトポスとしてのみ捉えるべきではない。「テン窪」という地名は実際の大瀬の地には存在しないが、大江の作品世界における「谷間の村」のなかで、これほど具体的な地形描写を伴って言及される区画は他になく、テン窪とは実際の大瀬の地形やその歴史、そしてそこに生じた変化を取り込む形で作り上げられていった場所であると考えられるのだ。本稿は、このテン窪という場所の造形の背景に想定される、現実世界と作品世界を横断する想像力の運動性に迫ることを目指すものである。



『懐かしい年への手紙』におけるテン窪の地形的特性

ギー兄さんの「美しい村」も、山と山との間を段々に登つて行くと、渓川はいつとなく細くなり、しまひにはどこを流れて居るのか判らなくなつて【下線部:原文では傍点】、という山あいの窪地に構想されていた。ギー兄さんの屋敷は「在」の谷川を囲む田畑を見おろす高みにある。その山腹の側に他の人家はなく、屋敷の長屋門から坂を降りて谷川を渡った対岸の斜面に、ギー兄さんの家の土地の小作をしていた農家が点在している。ギー兄さんの屋敷の側と対岸の斜面との間が狭まるにつれて、谷川は深く沢に潜り、それにそっていた道は段々に登って行くにつれて、右にそれながら急勾配となる。坂道の頂点に、小さな峠があって、下方から見るかぎりそこは左右から山腹がせり出してつながる底にあたる。坂道の左側で谷川は10メートルも高度差のある三段の滝をなしている。ところが峠の向うをダラダラ坂がくだり、そこにはテン窪と呼ばれる湿地帯が拡がって、滝に水をおとす曲りくねった小川が流れているのである。いったん地形が窄まった峠と滝の向うにひろがる、高い所の窪地というほどの呼び名なのであろう。そのほぼ中央にテン窪大檜という名のついた巨木のそびえる塚があって、子供の頃ギー兄さんはそれを古墳ではないかといっていた。峠からテン窪を見渡すと、干上がった山上湖のようにも見えた。*1

*1 大江健三郎『懐かしい年への手紙』(『大江健三郎全小説11』所収、講談社、2019年
、197-500頁)、244-245頁。

『懐かしい年への手紙』におけるテン窪は、Kの生家のある「谷間」から斜面を登っていった先に広がる「在」と呼ばれる集落から、さらに高みへ登って峠に至り、そこを降った先に広がる、小川の流れる湿地帯であった。この小川は滝を成し、「在」の斜面を流れ下る谷川となって、「谷間」を横断する小田川に合流している。テン窪は「谷間の村」のなかでも高所に位置する手付かずの湿地帯であり、またその中央にある檜の巨木がそびえる塚は「古墳」である可能性が仄めかされてもいて、人々の日常生活からは隔絶した、墓場のような印象を与える場所でもあったと考えられる。

ギー兄さんは、「谷間の村」に根拠地をつくるという構想のもとに、テン窪の小川を整備して畜産のための牧草地とすると共に、茅葺きの家が建ち並ぶ小集落としての「美しい村」の眺めを創出しようとしたが、その計画は彼が引き起こした事件によって頓挫する。その後彼は、小川を閉ざす堰堤の建設によって「美しい村」の遺構をすべて水に沈めてしまうが、テン窪大檜の塚だけは人造湖の中央に突き出たまま島のように残される。それゆえテン窪大檜の塚は、まるで回遊式庭園における蓬莱島のごとき様相を呈するようになるのだ。



「大瀬北」地域との類似点

テン窪の地形的特性として挙げられるのは、斜面の高みに広がる窪地であること、そして滝や谷川の水源地となっていることである。このような地形的特性にぴったりと合致する実在の場所を大瀬の地に見出すことはできないが*2、ここで注目したいのは「大瀬北」と呼ばれる地域である。内子町大瀬【旧:大瀬村】は、肱川の支流である小田川を南北から挟む谷の斜面一帯から成っており、大江の生家が属する成留屋地区は、その中央部、小田川沿岸の低地に存する。鵜川、熊ノ滝、程内といった集落が点在する「大瀬北」は、北斜面の山間を豊かな水量で流れ下り小田川へと合流する、鵜川の上流域に広がる地域である。『懐かしい年への手紙』において、Kの生家のある「谷間」から「在」にあるギー兄さんの屋敷を通過して「テン窪」に至る道程は、徒歩で行き来が可能な距離として設定されているのに対し、大江の生家が存する成留屋から大瀬北地域まではやや急峻な斜面──現在は県道241号が整備されている──を4km以上登っていく必要があり、その距離感に差異があるのは確かだ。しかしこの大瀬北地区には、テン窪の地形的特性を想起させる場所が点在しているのである。

*2 鈴木健司、大隈満らによって行われた、大江の作品世界と実際の大瀬の地を重ね合わせて考察するフィールドワーク調査の対象には、「テン窪」も含まれていた。鈴木は、大瀬における「大久保」地区の存在が、テン窪という場所の創出に影響を与えている可能性を示唆しつつも、テン窪の描写と地形学的に一致する場所を大瀬に見出すことはできないとし、「われわれが、実在する場所なり建物なりをもとに「テン窪」を追おうとすると、かならず迷路に入り込む仕掛けになっているのである」と述べる。(鈴木健司「〈根拠地〉としての「テン窪」の成立」(大隈満・鈴木健司(編)『大江健三郎研究2 大江健三郎と「谷間の村」の諸相』所収、リーブル出版、2009年、10-32頁)、18頁)。その上で、テン窪人造湖のモデルが、北軽井沢の別荘地に実在する照月湖という人造湖である可能性を指摘するのである(同上20-22頁参照)。ただし、鈴木・大隈らによって大瀬の地で行われたこの「テン窪」の探索は、ほぼ成留屋〜大久保地区に限定されたものであった。

まず熊ノ滝地区には「夫婦滝」と呼ばれる滝が存在する。そしてこの滝の北東方向に広がる程内地区の、景山川・乙影川という二つの支流が鵜川に合流するところに、周囲を斜面に囲まれた窪地のような、河崎と呼ばれる一画がある。そこは内子町立程内小学校(2010年に廃校)の敷地となっているのだが、グラウンドの隅には大木のそびえる塚が存在し、その下方には地蔵堂が、そして頂上には河崎(こうさき)神社という小さな社がある。小川が流れる窪地の中に立つこの塚は、『懐かしい年への手紙』におけるテン窪大檜の塚とその地形的特性を共有するものである。

また夫婦滝の北側上方、熊ノ滝地区の一画には、昭和初期に造成された人造池が存在する。1932-1935年にかけて、当時の村長・金岡重吉(1878-1945)の指揮によって進められた宮ノ成耕地整理──米作りを推進するために畑を水田に変える、約8ヘクタールにおよぶ大規模な工事であったという*3──の際に作られた、隣接する二つの池である。金岡の邸宅(現在は空き家となっている)の裏手上方に開ける田地は、この耕地整理によって生み出されたものだ。筆者の調査時には、その池のすぐそばに「和光堂」という小堂と、それを覆う古木、そして「組合長 金岡重吉」の銘の入った開墾記念碑が存在するのが確認できた。

*3 『程内紀行』(程内自治会地域づくり計画策定委員会、2012年)、23-24頁参照。

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《写真資料1》宮ノ成耕地の池(筆者撮影、2016年)



大瀬の地に刻まれた「穴」

大瀬北地域には、「テン窪」の地形的特性に合致する場所が点在するのみならず、その土地にまつわる歴史が「テン窪」のそれと重なり合うことも、注目すべき点である。まずは先述した、金岡重吉という人物である。金岡は幼き日より政治を志し、有志と共に青年会を設立、そして農業・林業・養蚕業等、大瀬村の産業の発展に尽くした有力者であったという。熊ノ滝地区に大きな屋敷を構え、宮ノ成耕地整理をはじめとする事業に着手した彼の人物像は、『懐かしい年への手紙』において、森林組合を退職後、テン窪を根拠地とするという構想のもとに、土地整備や農業・畜産業の振興に努めたギー兄さんの姿を想起させるものである。村では著名な名士であった金岡重吉の名とその所業について、彼の存命中にその幼少期を過ごした大江が認識していたことは有り得るし、金岡の人物像や宮ノ成耕地整理については、『郷土史 大瀬村』(筆者不詳、1936年、大瀬自治センター蔵)等の歴史資料にも詳しい記述が残されているため、大江が彼の故郷の歴史調査を行う過程で、それらの記述に触れた可能性は高い*4

*4 大江はコレヒオ・デ・メヒコの客員教授として半年間滞在していたメキシコから帰国した後、1976年の秋、大瀬に帰郷している。母・小石氏宛の手紙(1976年、妹・宮部冨佐子氏蔵)において大江は、帰郷の目的として「大瀬を舞台にした大きな小説を書く」ことを挙げており、この際に行った調査の成果は『同時代ゲーム』に生かされていると考えられる。またこの時以外にも大江は時折帰郷しては、親交のあった小・中学校の同級生や、甥や義弟の運転する車で、大瀬の様々な場所を見て回っていたという。(宮部冨佐子氏へのインタビュー、2016年10月14日)

もう一つ、大瀬北地域とテン窪とをつなぐ要素は、かつてこの地に存在した大瀬鉱山である。金岡重吉が耕地整理を行い、人造池を創出する以前、熊ノ滝・程内地区は鉱山によって栄えた地であった。1887年頃から開発が始まった大瀬鉱山は、銅精鉱の産出で大正初期に最盛を迎えたが、1920年には早くも閉山した。当時未熟な精錬技術によって垂れ流された排煙や排水は、この地区の自然に影響を与え、先述した夫婦滝のうち、右手の滝の岩肌が茶褐色・乳濁色に変化しているのは、その名残であるという*5。注意したいのは、『懐かしい年への手紙』におけるテン窪は、決して美しく清浄なユートピアとして造形されていたのではないということだ。Kの回想によれば、手付かずの湿地帯であったテン窪は、臭いの悪い泥濘から成る地であったのだし、ギー兄さんの堰堤建設によって堰き止められテン窪を満たした水は「臭くて黒い水」*6であったとされている。ギー兄さんは、そのような水質異常の理由を地質に求め、「特別な成分をふくむ鉱石層でもあるんだろうか?」*7と述べているが、大瀬鉱山、そこから流れ出る鉱毒のイメージが、この「鉱石」に由来する「臭くて黒い水」のイメージにつながっていると考えることはできるのではないか。

*5 『程内紀行』、15頁。
*6 大江『懐かしい年への手紙』、475頁。
*7 同上475頁。

大江は、彼の作品世界における「谷間の村」の中に鉱山の存在を描き出すことはなかった。しかしながら、初期作品である『芽むしり仔撃ち』(1958)の舞台となる村には、かつてそこに鉱山が存在したことを示す廃坑の横穴やトロッコの索道が登場することは注目に価する。このトロッコの索道の描写の背景に、かつて大瀬鉱山から谷を挟んで北側の中山町まで精鋼を運ぶために引かれていた大規模な索道のイメージが存在する可能性については、鈴木健司によっても指摘されている*8。また、『同時代ゲーム』における「村=国家=小宇宙」の創建の描写──新天地への移住に際しての大岩塊の爆破、そこから流れ出る「臭いたてる黒い水」*9、地獄絵の眺めになぞらえられるような、炎が立ちのぼる中での勇ましい労働風景──は、鉱山の労働を思わせるものである。さらに言えば、大江の「穴」という空間性に対する偏執には、採鉱のために大瀬の地表に穿たれた深い「穴」の痕跡が、少なからず影響を与えているとも考えられよう。大江作品における「穴」は、死と再生の場、過去に触れ「魂」と交感する場としての神聖性を有していると共に、松浦寿輝が『明治の表象空間』(2014)において論じているように、近代的権力システムへの反抗としての人間の肉体労働の痕跡でもある*10。傷跡のように大地に刻まれた「穴」は、その手で土を掘り起こした人間の生の記録に他ならない。

*8 鈴木健司「大瀬鉱山と〈トロッコ〉」、(大隈満・鈴木健司(編)『大江健三郎研究1 四国の森と文学的想像力』所収、リーブル出版、2004年、52-57頁)、54-57頁参照。鈴木は大瀬鉱山が大江の小説作品に与えた影響は『芽むしり仔撃ち』一作にとどまらないとして、鉱毒水のイメージが『懐かしい年への手紙』におけるテン窪人造湖へとつながっていく可能性を示唆しているが、大江作品におけるテン窪と大瀬鉱山の存在した大瀬北地域とを結びつけての考察はそれ以上深められていない。
*9 大江健三郎『同時代ゲーム』(『大江健三郎全小説8』所収、講談社、2019年、201-540頁)、268頁。
*10 松浦寿輝は、「狩猟で暮したわれらの先祖」(1968)で流浪の一家の手によって掘られる深い竪穴ほか、複数の大江作品に登場する「穴」の主題を分析し、「大江健三郎の想像力において「穴」は、「反=近代」と「反=権力」の二重の意味を帯びた表象としてある」と述べている。(松浦寿輝『明治の表象空間』、新潮社、2014年、692頁。)

現在の大瀬北地域には、明治〜大正期の大瀬鉱山の、ごく短い繁栄期の名残はほとんど見られず、鉱山跡地はすでに緑に覆われている。昭和初期に金岡重吉が行った耕地整理をはじめとする振興事業もすっかり過去のものだ。しかしながら、その土地に残されたわずかなしるしとしての「穴」には、かつてその地表を掘り起こし労働した人々の生の痕跡を見て取ることができる。大江健三郎が彼の作品世界に描き出した「テン窪」というトポスは、大瀬の土地に刻まれたその重層的な記憶を再び作品世界に呼び起こして再演する、すなわちそこに「穴」を穿つことによって成立したものであると言えるのではないか。ここまで考察の対象としてきたテン窪という区画自体、斜面の高みにぽっかりと口を開けた、巨大な「穴」でもあるのだから。



大瀬に出現した新たな「テン窪」

もう一つ触れておかねばならないことは、大江の友人でもある建築家・原広司がその設計を手がけた内子町立大瀬中学校の校舎(1992年完成)についてである。原は、この校舎の建設にあたって大瀬の地形調査を行い、『万延元年のフットボール』、『同時代ゲーム』、『懐かしい年への手紙』に登場する「記号化された場所」が、実際の地形のどの位置に対応するかを考察し地図上に示しているが、その中の一つとしての「テン窪」に対応すると想定されている場所こそ、大瀬中学校の建設地なのである*11。『懐かしい年への手紙』の作品世界において、ギー兄さんの死に場所となり、また「懐かしい年」の眺めに重ねられていた「テン窪」を、青少年の集う校舎の建設地に対応させた原の所業は、大江作品の読者としての彼が行った、作者に対する大掛かりな挑戦と言って良い。なぜならそれは、テン窪を実際の土地に、しかも大瀬の中心部に出現させるだけでなく、人々の生活と密接に結びついた場所へと生まれ変わらせるものであったからだ。大江にとっては、彼が作品世界に創出した場所を、他者によってこじ開けられ、変容させられるような経験であったに違いない。

*11 原広司「四国の森のなかの谷間」(『建築文化』(553)所収、彰国社、1992年、38-45頁)、43-45頁参照。原は、建設地にあった石垣の遺構をギー兄さんの屋敷の石垣に、そしてその北側に存する星中山と呼ばれる小丘を大檜の島に当てはめており、それらの要素がこの地をテン窪に対応させた論拠であると考えられるが、小田川対岸に存する大瀬中学校の建設地は成留屋地区との高低差もほぼ無く、実際には両者の地形的特性にはかなり差異がある。むしろこの原の考察は、大江作品における「テン窪」のほとりに建てる建造物として大瀬中学校を構想しようとした彼の意図から生み出されたものだと考えるのが自然であろう。

そして、実際に大瀬の地に完成したこの中学校校舎、そして何よりもその東端に建設された特徴的な円筒形の音楽室に、今度は大江自身が深く影響されることとなる。『燃えあがる緑の木』でテン窪に建てられることになる礼拝堂は、大瀬中学校の音楽室と同じ構造を有しているし、『宙返り』における教団施設の描写は、校舎全体そのものである。

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《写真資料2》内子町立大瀬中学校 左手の円筒型の建物が音楽室。(筆者撮影、2016年)

両作品におけるテン窪は、『懐かしい年への手紙』に示された地形的特性を引き継いではいるものの、県道やバイパスがその周辺まで整備されたこともあって、より「開かれた」性格を有した場所となっている*12。礼拝堂では音楽会が催され、隣接する施設では信者たちの共同生活が営まれ、人造湖のほとりに仮設の桟敷と客席を用意して大集会が営まれもする。テン窪は、森の中の閉ざされた区画に存する超越的な世界のモデルにとどまるのではなくて、人々が共同体の中で「魂」について思考する場所へ変容するのだ。

*12 内子町大瀬においては、1992年に小田川沿いに延びる国道379号成屋バイパスが完成している。『燃えあがる緑の木』における「バイパス」の出現が、実際に大瀬の地に生じたこのような交通事情の変化に着想を得たものである可能性は、山本奈緒によって指摘されている(山本奈緒「谷間の村における地理の変容」(大隈満・鈴木健司(編)『大江健三郎研究2 大江健三郎と「谷間の村」の諸相』所収、リーブル出版、2009年、47-72頁)、58-59頁参照)。

『懐かしい年への手紙』におけるテン窪が、かつて大瀬の地に穿たれた「穴」、すなわち忘却されゆく過去の人々の生の痕跡を、作品世界に導入するものであったとすれば、その作品から着想を得た建築家による「テン窪」創建工事もまた、大瀬の地に新たな「穴」を穿つものであったと言えよう。そして『燃えあがる緑の木』、『宙返り』に描かれるテン窪の表象は、その新たな「穴」から立ち上がった共同空間に対しての、小説家からの応答に他ならない。テン窪とはこのように、生の痕跡としての「穴」をめぐる想像力を媒介として、現実世界と作品世界が溶け合っていく過程において生成したトポスであると考えられるのではないだろうか。

【付記】
筆者が2016年秋に行った内子町大瀬での研究調査に際して多大なご協力をいただき、インタビュー等に快く応じてくださった、宮部冨佐子氏をはじめとする大江氏のご親族、大瀬住民の皆様、内子町役場の皆様に心より御礼申し上げます。

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行