第14回大会報告

パフォーマンス ARICA Presents『終わるときがきた』──ベケット『ロッカバイ』再訪

報告:中島那奈子

日時:2019年7月6日(土)16:45-18:15
場所:稲盛ホール(芝蘭会館本館内2階)

演出:藤田康城(ARICA)/出演:安藤朋子(ARICA)/映像:越田乃梨子
テクスト協力:倉石信乃(ARICA・明治大学)/音響協力:福岡ユタカ(ARICA
トーク:森山直人(京都造形芸術大学)、藤田康城、倉石信乃


アポカリプスの表象をテーマに様々な論点が出されたシンポジウムの後、同じホールに再び入ると、白髪混じりの女がやや下手寄りの椅子に座って、机に突っ伏している。黒い長い服。傍らには、三脚におかれたカメラ。幕はない。机の上には、置き時計と本、コップのかぶさった水差しに手鏡。女の背後にはスクリーンが下がっていて、その奥の壁のカーテンは閉まっている。

ホールが暗転すると、女がふと身を起こす。目の前のコップに、水を、注ぐ。美味しそうにごくごくと喉を鳴らせて水を飲む。ふっと椅子から立ち上がり、背後に歩いていき、窓にかかったカーテンをさっとめくる。突然、外からの光が差し込んでくる。

やっと
その日がきた
やっときた
長い日の終わり

録音された女性の声が、ゆっくりと流れる。目の前の女の声だ。「もう誰もいない。終わるときがきた。」過去の女が今の女に言いきかせている。それに、目の前の女が声を合わせる。

終わるときがきた

その声の口調はどこかやさしく、落ち着いていて、終わる日が来たことが嫌ではないように感じられる。いや、それよりも大きな椅子にゆったりと寝そべり、どこか気だるそうな女の姿勢と、人をいすくむ半眼の目から、目の前に迫ったこの時をずっと待ちかねていたかのような、そんな態度さえ感じられる。

目の前の女を演じるARICAの安藤朋子は、かつて演出家・太田省吾率いる転形劇場の俳優の一人であった。代表作である沈黙劇『水の駅』で、安藤は水を飲む少女を演じた。その少女の姿が、目の前の老女の姿にオーヴァーラップしていく。ゴクゴクと飲む水、それはベケットの『ロッカバイ』にはない演出だが、生命をつなぐ水が、演技する身体の現前を示している。ARICAの作品では必ず登場するというこの水を飲むシーンと、安藤朋子という俳優とともに立ち上がる水の記憶。

太田省吾の沈黙劇の台本は、実は俳優のセリフで埋め尽くされている。ただそれが、稽古のある段階で俳優の身体に内化され、無くなってしまう。あの沈黙は言葉の欠如ではない。溢れる言葉によっては言い尽くせない、言葉を飲み込んでしまった生命の大いなる沈黙──それがこの場にもあるのかもしれない。

女が机にうつ伏せになると、背後のスクリーンに映像が立ち上がる。それは脇に設置されたカメラからの映像だ。黄色がかった陰影のある像は、どこか静物画のように静かで、厳かな雰囲気を醸し出す。この目の前の現実が、その遠くへ映された像によっていつまでも変わらないものへと普遍化されていく。

女が後ろを振り返る。誰かがきた。過去と現在が交差する瞬間。映された別の人間を通して、目の前の世界を見る。これは、どちらが夢でどちらが現実の、劇中劇なのだろうか。いつまでも繰り返される言葉を聞きながら、でもふっと救われる思いがする。女はまた机に伏せる。

長い日の終わり
じぶんでじぶんに
言い聞かせる
誰もいない
終わるときがきた
終わるときがきた

女がまた体を起こす。映し出された映像が、少し、目の前の女より遅れて始まる。次第に、女の動きも緩慢になっていく。コップに水を注いで飲む。ゆっくりになった女の動きは、それ自体で体内瞑想のようで、言葉にならない言葉をその身体に潤わせていく。身体の動きは、目的にかなった行為としてではなく、その動く過程のあり方に、その身体の生命のあり方に、焦点を向けさせていく。体に染み込むように、女は水を美味しそうに飲む。

映像では机の上の置き時計が大きく映し出される。雑踏の音も聞こえてくる。女は本を閉じて、舞台奥のカーテンの方へ行く。カーテンを開けると、音が止まる。録音された女の声が聞こえる。

やっと
その日がきた
やっときた

終わりは、苦しくも辛くも悲しくもない。待ち構えていた順番がやっと回ってきただけなのだ。言葉をもっては異なる意見は相容れず、議論をもっては何かの合意は導けない。でも、こんなにも心安らかな終わりへの考えが、人の態度では示せるのかもしれない。また椅子に座ってうつ伏せになる目の前の女。映像の女もうつ伏せになって消える。

そしてまた机のランプのスイッチが点く。目の前の女も起き上がる。映像も立ち上がる。そして繰り返し。覚めない夢のように、終わってもいいことが終わらない。この生の繰り返しを続けるほうが、もしかしたらアポカリプスなのだろうか。

そのうち映像が一人歩きを始める。目の前の現実にはおこらなかったことが、映像で始まる。目の前の女は静止したままなのに、映像の女は本を読む。過去と現在が、虚構と現実が、映像とパフォーマンスが、交差する。

母の椅子
母もそこに座っていた
いつも座っていた

女の母のことがそこで語られる。女の母はその椅子で死んだのだろうか。

最後は椅子に
言い聞かせる
もうこのわたしを眠らせて

女はまた机に伏せる。映像も落ちる。

再び映像が立ち上がると、そこでカメラがパンをし、カーテンが開かれもう一つの世界が映しだされる。映像の女は、そのカーテンが開いた奥の、真っ白な世界を歩いていく。女は死んでしまったのだろうか。

すると映像を映していたスクリーンが、舞台上方へと吊り上がって映像は消えてしまう。同時に、目の前の舞台奥のカーテンが自動で大きく開かれ、その奥の、構内に植えられた木々の萌ゆる緑が、目に飛び込んでくる。こちらが夢だったのか。

うつ伏せになっていた女が、起き上がり、後ろを振り向く。今度は、座っていた椅子を掴んで、窓を振り向き、私たち観客と同じ視線で、外の現実を見つめている。

この上演の元になった作品『ロッカバイ』は、1980年に演出家アラン・シュナイダーから依頼を受けて書いたベケット75歳の作品である。黒いイヴニングドレスに身を包んだビリー・ホワイトロー演じる女が、窓際でリズミカルに揺れるロッキングチェアに腰掛ける姿は、ベケットの祖母の記憶とも重なるという。この作品でベケットの言葉は詩の形式にまで研ぎ澄まされ、そこに、言葉を超える豊かな沈黙がある。マザーグースの子守唄「ロッカバイ・ベイビー」を連想させるこのロッキングチェアはまた、赤ん坊の揺かごから、老人の揺り椅子へと、一人の生のスパンを、前後に、そして上下に揺れる動きで、紡いでいく。

Rock her off
Rock her off
もうこのわたしを眠らせて

構成・演出の藤田康城と翻訳の倉石信乃によるポストトーク(司会、森山直人)では、今回がARICAにとって3本目のベケット作品であり、大きな窓とスクリーンがある紫蘭ホールの構造から、初めて映像を用いた舞台作品を考案したことが話された(映像、越田乃梨子)。また、戯曲に指定されたロッキングチェアをあえて使わずに、主体の分裂を今につながる形で演劇にしようと試みたことや、声と現前の分離を示すベケットの一人称と三人称を訳し分ける工夫も、語られていた。

終わりそうで終わらない、老いとともにゆっくり死を完成させるベケットの「終わり」でも、シンポジウムで討論された終末論的な「終わり」でもない。これは、ARICAの作り出した、少女が宿る一人の老女の、長い日の終わり。その、安らかで潔い態度で示した「終わるとき」は、白昼の私たちの現実の中にこそあった。

中島那奈子(ベルリン自由大学)


パフォーマンス概要

身体と声の分離は後期ベケットの顕著な要素である。今回はさらに映像の介入によって、舞台に実在する身体から、自分自身を他者として見つめる虚像の身体を、幽霊のように離脱させることを試みる。終わりのきわにいて終わることができない、ベケット的営みの様相を、踏み込んで表すことが出来るのではないか、と考えている。

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年10月8日 発行