パネル8 〈演じる〉ことをめぐって ──シェイクスピアとその演技の諸相
日時:2019年7月7日(日)16:00-18:00
場所:総合人間学部棟(1B06)
・『トロイラスとクレシダ』における自己と演技性/園部燿(京都大学)
・演劇言語が演技にもたらす影響について──ミュージカル『キス・ミー・ケイト』を例に/康閔晳(京都大学)
・福田恆存とシェイクスピア──〈せりふ〉としての日本語を求めて/中谷森(京都大学)
【コメンテーター】小嶋ちひろ(名古屋外国語大学)
【司会】中谷森(京都大学)
ウィリアム・シェイクスピアの劇作品は、演技によって作られる作品である一方、演技について考えることを観客にしばしば要求するような作品でもある。パネル「〈演じる〉ことをめぐって──シェイクスピアとその演技の諸相」の目的は、要旨にも示されているように、シェイクスピアの作品を通して「人間が人間を〈演じる〉ことに包摂される種々の問題を検討する」ことである。3本の発表は進行中の研究という色合いが比較的強いものであったが、相互に密接に関連するテーマを扱っていた。
最初の発表である園部燿「『トロイラスとクレシダ』における自己と演技性」は、問題劇として有名な『トロイラスとクレシダ』における演技の問題を扱うものである。この発表のポイントは、中心となる人物に応じて本戯曲を6つの世界に分け、それぞれの世界で登場人物の行動がどう変わるかを指摘しているところだ。通常、『トロイラスとクレシダ』における演技の問題を論じる場合、クレシダとそのジェンダーパフォーマンスが焦点になりやすく、清水晶子の“Performing Away : Cressida as a Performer”『リーディング』17 (1997):13–29やDavid F. McCandless, Gender and Performance in Shakespeare's Problem Comedies (Indiana University Press, 1997)などがこの論点を扱っている。しかしながら園部の発表では、トロイラスが自分の領域とヘクターの領域では意識的に発言を変えていることを指摘し、トロイラスを中心とする男性登場人物の演技に着目しているところ面白さがある。人は本当のことを言わないというのは演劇における大きなテーマである。登場人物が目の前の人物や状況に応じて態度や発言を変えたり、嘘をついたりするというのは、シェイクスピアからハロルド・ピンターまで、多くの芝居で起こることであるが、一方で観客にとっては登場人物が何をしたいのかよくわからず、解釈上大きな問題になり得る。本発表におけるトロイラスの一見したところ一貫しないように見える行動を意識的な演技として読みとく分析は、実際に『トロイラスとクレシダ』を演出する際に役作りの助けになるようなものであると考えられる。
2本目の発表である康閔晳「演劇言語が演技にもたらす影響について──ミュージカル『キス・ミー・ケイト』を例に」は、『じゃじゃ馬馴らし』のバックステージものである『キス・ミー・ケイト』における歌の役割を考えるものである。ミュージカルにおける歌が、リアリズムの制約から離れて通常の散文の台詞では処理できないような複雑で多岐にわたる内容を同時に処理できることに着目し、さらにはこの歌の機能がシェイクスピア劇における韻文の長台詞なとど似たものであることも指摘している。このような歌や韻文の長台詞はむしろ楽曲や台詞を書いたクリエイターのコントロールの下に置かれているものと考えられており、登場人物がその場で思いついて話したものとは思われないような技巧的な内容であっても観客に受け容れられてしまうところがある。このあたりはケンダル・ウォルトンが『フィクションとは何か──ごっこ遊びと芸術』(田村均訳、名古屋大学出版会、2016)などで論じた内容とも共通点があり、近年、フィクションの哲学研究で行われている議論にもつながるポイントであると考えられる。
組織者でもある中谷森の発表「福田恆存とシェイクスピア──〈せりふ〉としての日本語を求めて」は、福田恆存がシェイクスピア劇の日本語訳を通していかに近代的なせりふ劇を確立しようとしていたかをテーマとするものである。中森によると、福田はことばには額面通りの信用できる客観的価値と、話者の性格や心理などを表す主観的価値があり、時としてずれを産み出すこのふたつの価値が「ことばの二重性」として翻訳においても重視されている。福田は、シェイクスピア劇を日本語にするにあたり、この二重性に意識的な「演戯する主体」が必要であると考えた。このような福田の言語観には、時枝誠記の言語論の影響が見られるという。訳文じたいの特徴としては、文末に助詞や助動詞などを用いない言い切りの形を使用することがあげられ、歯切れの良さを重視した台詞になっている。中谷の発表は、60年代以降の日本におけるシェイクスピア上演では近代的な要素は排除されがちであり、福田が目指したようなシェイクスピア劇が普及したとは言い難いことを指摘して終わる。
それぞれの発表にはまだ議論を詰め切れていないところなどもあったが、全てに共通するポイントとして、言葉の多層性があげられる。いずれの発表も、台詞の言葉が文字通りの内容を意味しない場合があることに注目していた。大会パネルが緩やかなテーマのもとにややバラバラな内容の発表をまとめたものになりがちな中、このまとまりは評価すべき点である。
一点、問題点を指摘しておくとすれば、コメンテイターのコメントの前に質疑応答があったため、議論の流れが悪くなったことである。コメンテイターである小嶋ちひろは、ジョゼット・フェラルなどの先行研究をあげつつ、発表パネルで扱われていなかった観客の問題を指摘しており、これは重要な論点であると考えられる。しかしながら、コメントにうつる前に中谷の発表に関する比較的長い質疑応答があったため、3つの発表に対してコメンテイターがまとめのようなコメントをするという構成が崩れていた。発表直後に受け付ける質問は、事実関係の確認など、短いものだけにとどめるべきであろう。
北村紗衣(武蔵大学)
パネル概要
表象を生み出す様々な技法の中でも、人が人を表象する技である演技は、極めて単純でありながら、複雑な問題を提示するものである。イギリス初期近代の演劇界を席巻し、今なお人気の根強いシェイクスピアの戯曲は、〈演じる〉ことについて考察を深めるための格好の素材である。というのも、ハムレットが旅役者たちに向けて演技についての講釈を垂れる場面にも代表されるように、シェイクスピアの演劇は、その根幹を成す〈演じる〉という営みに、自ら鋭い眼差しを向けようとするものだからである。
本パネルでは、シェイクスピア戯曲ならびに、その翻訳および翻案作品の考察を通じて、人間が人間を〈演じる〉ことに包摂される種々の問題を検討する。まず園部の発表では、『トロイラスとクレシダ』の考察を通じ、そもそも本来の自己と呼べるものを持たず、演じられた自己として登場人物が造形されていく様子を検討する。次に康は、シェイクスピア戯曲と現代のミュージカルとの接点に着目し、『じゃじゃ馬ならし』を原作とするミュージカル『キス・ミー・ケイト』における歌と台詞の様相を考察することで、演技の虚構性を提示する言語の役割を論じる。最後に中谷は、『ハムレット』を中心とするシェイクスピア戯曲が福田恆存に与えた影響を論じ、人間の根源的な演技性を認めることで、近代的個人主義の超克を試みた福田の思想と作品を検討する。
『トロイラスとクレシダ』における自己と演技性/園部燿(京都大学)
本発表は、シェイクスピア作『トロイラスとクレシダ』における登場人物の〈演じる〉ことについての考察である。『トロイラスとクレシダ』は、基本的な構造においてはトロイラスとクレシダの恋愛物語だが、政治的なやり取りを加味した戦争を題材とする劇でもある。言わずもがな、恋愛も駆け引きであり、政治的要素が絡む。
そこでは、登場人物が本来の自己を隠し、演じているかのような部分がある。例えばトロイラスには、本当は戦争をしたくなかった自己がいたかもしれなかったが、そのような自己は、周りの登場人物の影響によって変容していく。このように〈演じる〉というと、本来の自己がまずあり、その上で、そうではない自己を演じるということを指すように思われる。
しかしそもそも本作では、いわゆる本来の自己というものが存在していないと言わざるを得ない。登場人物の個性を特定しようと思うと、すぐにその個性と対立するような性格が出てくる。まるで登場人物の個性を確定させるための、明確な人物像が存在しないかのようである。
本発表では、登場人物の心の揺れ動きを考察することで、登場人物の〈演じる〉という行為について検討する。同時に、『トロイラスとクレシダ』の翻案作品や、映像として残っている上演記録も参考にし、考察を深めたい。
演劇言語が演技にもたらす影響について──ミュージカル『キス・ミー・ケイト』を例に/康閔晳(京都大学)
今日、〈演技〉とはテレビや映画を通して頻繁に目にされる日常的な光景であり、ある人が別人になりすましながら虚構を提示するという行為への違和感は希薄になってきているように思われる。劇場で実際に上演される演劇の場合、多少事情は変わってくるものの、演技や演出に現実に生き写しの〈本物らしさ〉を求める傾向は、こうした考えに批判的な人々に対してさえも、依然として強い影響力を持っている。
シェイクスピアが活躍した16世紀英国演劇界における演技観は、現在とは大きく異なっていたであろう。その様々な理由の内の一つとして、演劇言語における違いが挙げられる。当時一般的に用いられていた詩的な韻文の台詞は、現実の話し言葉とは極めて異質なものであった。このような演劇言語は、自らの虚構性を暴露し、演技自体への強い自意識を生み出す。この時、〈演じる〉とはどのような行為となるのだろうか。
現代において、こうした演劇言語の問題を考える際、ミュージカルというジャンルが持つ特質は注目に値する。台詞と歌という分離された演劇言語によって進行するミュージカルの形式は、演技とそれによって提示される虚構にどのような影響を与えるだろうか。本発表では、シェイクスピアの戯曲『じゃじゃ馬ならし』を原作とするミュージカル『キス・ミー・ケイト』(コール・ポーター, 1948年)を取り上げ、考察を行う。
福田恆存とシェイクスピア──〈せりふ〉としての日本語を求めて/中谷森(京都大学)
戦後を代表するシェイクスピアの翻訳家で演出家でもあった福田恆存の思想とその作品は、日本のシェイクスピア受容史の中で特異な地位を占めている。シェイクスピア作『ハムレット』を中心として展開される評論『人間・この劇的なるもの』において福田は、近代的個人主義を真っ向から否定し、人間を本質的な役者と説くことで近代的な人間観の超克を試みた。
この思想は、翻訳から、劇作と演出、また評論に至るまで、福田の幅広い活動を貫いている。演劇論ないし演技論から派生させた人間論を、実際の演劇作品の中へと再び反映する際、福田が最も心を砕いたものは、〈せりふ〉としての日本語の創造だった。新劇やリアリズム、また近代劇の克服を標榜する演劇人が、しばしば日本の伝統に根ざした〈かたり〉としての劇言語に着目したのとは反対に、福田はあくまでも〈せりふ〉としての劇言語を追求する。そのようにして福田は、〈演じる主体〉としての人間の確立を主張しえた。
本発表では、シェイクスピア戯曲が提示する問題が福田自身の言葉へと昇華される過程を辿りながら、演技こそ人間の本質と見なすことで、近代という難問に取り組もうとした福田の構想を考察する。思想と実践の両面における福田の活動を検討することは、劇場の中だけでなく、人間存在に関わる技としての演技について考えることになるだろう。