パネル5 アガンベンをどう読むか ──言語・スペクタクル・抵抗
日時:2019年7月7日(日)13:30-15:30
場所:総合人間学部棟(1102)
・「言語活動の根拠」をめぐって──アガンベンとハイデガー/中村魁(京都大学)
・ジョルジョ・アガンベンにおけるスペクタクル概念の展開/長島皓平(慶應義塾大学)
・アガンベンと抵抗/高桑和巳(慶應義塾大学)
【コメンテーター】國分功一郎(東京工業大学)
【司会】高桑和巳(慶應義塾大学)
パネル「アガンベンをどう読むか?」は、高桑和巳氏の「アガンベンと抵抗」、長島皓平氏の「アガンベンにおけるスペクタクル概念の展開」という二つの口頭発表を経た後に、私、國分功一郎がそれにコメントを加えるという形で進行した。本パネルの実施を提案され、「「言語活動の根拠」をめぐって──アガンベンとハイデガー」という口頭発表を準備されていた中村魁氏が体調不良のために出席できなかったのは大変残念なことであった。というのも、高桑氏の発表はアガンベンの形而上学的側面、長島氏の発表はその政治神学的側面を扱っており、もし中村氏の発表が実現していたならば、そこに言語哲学を巡る考察が付け加えられて、この哲学者の思想のほとんど全側面を扱うパネルともなり得ていたからである。
高桑氏はアガンベンの思想の代名詞とも言うべき「非の潜勢力」と抵抗の関係を問うものであった。「潜勢力から現勢力への移行において権力が無化しにかかる「非の潜勢力」の、消されまいとして踏みとどまる固執」と定義されたアガンベン的抵抗を、権力による潜勢力の現勢化への抵抗として見事に描き出す発表であった。
長島氏はアガンベンがギー・ドゥボールから受け継いだとされるスペクタクル概念に注目しつつ、フーコー権力論の批判的継承、アガンベンが『王国と栄光』で描き出した喝采の問題を論じるものであった。喝采を政治の主要要素として取り上げるカール・シュミットと討議の重要性を強調し続けるユルゲン・ハーバーマスが実は同じコインの両面ではないかとするアガンベンの指摘が最終的には取り上げられた。
國分はアガンベンの「非の潜勢力」を巡る議論が、実に具体的な抵抗の戦略となりうる可能性を持っていることを指摘した。アガンベンの議論は主として古代哲学に基づいているけれども、可能性を最大限に活用しようとする新自由主義的経済において、労働者はまさしく「非の潜勢力」を持つことを許されずにいるのであり、「非の潜勢力」を保とうとすることはこの経済体制への抵抗の一つでありうる。
その上で、高桑氏の抵抗を巡る発表が最終的に観想論として終わっていることに軽い疑問を呈した。観想はアガンベンにおいて、主体も客体もない状態として構想されている。だが、抵抗は主体を想定しているのではないだろうか。ここは難しい論点であり、更なる検討が必要であろう。また長島氏に対しては、ドゥボールの言う「スペクタクル」なるものは、果たしてそれほど重要な概念なのかという疑問を呈した。そもそもマルクスは「商品の物神的性格」の分析において、ドゥボールのスペクタクル概念よりも深く広い議論を提示していた。アガンベンのドゥボール評価を額面通りに受け取ってよいのかという問題が残る。
議論は会場をも巻き込んで活発に行われたのだが、あまりにも時間が少なかったと言わねばならない。今後、発表時間と同じぐらい討議の時間を設ける可能性についても考慮してよいかも知れない。
國分功一郎(東京工業大学)
パネル概要
近年活況を呈しているイタリアン・セオリーを代表する哲学者ジョルジョ・アガンベン(1942-)。記念碑的大作「ホモ・サケル」プロジェクトが『身体の使用』(2014)をもっていちおう完結し、その合本版(イタリア語版)がフランス語版、英語版に遅れながらも昨年公刊された。また日本国内の事情に目を向ければ、『オプス・デイ』の日本語訳が今年5月に出版され、「ホモ・サケル」プロジェクトに限れば、あとは『言語活動の秘跡』の翻訳を待つのみとなっている。
このように次々とアガンベンの著作が手元にもたらされる状況は喜ばしい事態である一方、美学・政治・存在論・神学と様々な領域を横断する彼のテクストを前にして、いささかの当惑を覚えるというのも拭いがたい実感であるだろう。いまわれわれはどのような視点でアガンベンを読むべきなのだろうか。当パネルはこの問いに対して、三人の発表者がそれぞれの立場から応答しようと試みるものである。中村発表では、『ホモ・サケル』以前にアガンベンが取り組んでいた存在論・言語論の問題を、ハイデガーとの関係を軸に再構成する。長島発表では、『ホモ・サケル』以前からアガンベンが取り組んだスペクタクルが、彼の政治哲学において中心的な役割を果たすに到るまでを再構成する。高桑発表では、「抵抗」(表立ってテーマ化されたことはないが、明らかに前提されている概念)を軸に、主として1990年代以降のアガンベンの思想を捉えなおす。
「言語活動の根拠」をめぐって──アガンベンとハイデガー/中村魁(京都大学)
本発表は、『ホモ・サケル』(1995)以前にジョルジョ・アガンベンが取り組んでいた存在論・言語論の問題を、マルティン・ハイデガーとの関係を軸に再構成することを目指すものである。
アガンベンが1966, 68年にハイデガーのゼミナールに参加していたこと、そしてこの出来事によって「哲学が可能になった」と述べていることは周知の事実であるが、まさに1968年に書かれた論文「言語活動の木」を取り上げることから本発表は出発する。そこでは90年代初頭まで繰り返しアガンベンが問うことになる「言語活動の根拠」の問題がこのテクストに萌芽的に含まれており、しかもそれがハイデガーの存在論的差異を承けて形成されたことが明らかにされる。言語活動の根拠の問題とは、人間にとって言語は存在者についての知を可能ならしめる根拠であるが、当の根拠じたい、すなわち言語活動の存在そのものを言うことができない(=無根拠である)、という事情をいかに思考するか、という問いである。このハイデガー読解から形成された、言語活動のうちに二平面を区別する発想を1970年代のアガンベンが形而上学批判を行うさいの論理として用いている事情を次いで示す。その上で1980年代以降の著作の読解を通じ、それまで形而上学批判を行う上で共同戦線を張っていたハイデガーに対し、アガンベンがいかにして距離を取り、独自の立場を形成していったのかを明らかにする。
ジョルジョ・アガンベンにおけるスペクタクル概念の展開/長島皓平(慶應義塾大学)
本報告ではジョルジョ・アガンベンにおけるスペクタクルの概念の展開を辿ることによってアガンベンの政治哲学の変遷を明らかにするとともに、「政治の美学化」という問題系におけるアガンベンの位相を明らかにすることを試みる。
『到来する共同体』などのホモ・サケルシリーズ以前の著作においてアガンベンは、ギィ・ドゥボールを通じて社会のスペクタクル化という問いを取り上げており、『ホモ・サケル』からホモ・サケルシリーズ最後の著作である『身体の使用』にいたるまで度々ドゥボールに言及してきた。
しかしながら、これまでアガンベンにおけるスペクタクルという問題は『到来する共同体』や『政治哲学ノート』における初期の言語活動や共同体との連関において主に論じられてきた。
本報告では、とりわけ『王国と栄光』においてアガンベンがスペクタクルを栄光として政治権力の本質的な関わりにおいて捉え直すにいたる展開を辿るとともに、その哲学的意義を明らかにするためにヴァルター・ベンヤミンが「政治の美学化」として、またカール・シュミットが「世論」への働きかけによる国民意思の形成として論じた権力の正統性を巡る議論の系譜に位置付ける。
上述の試みを通して、主権から統治、政治から経済へと思索の対象を展開する一方でスペクタクル概念により重要な位置付けを与えたアガンベンの議論を「喝采」を巡るシュミットの政治神学の枠組みにおいて捉え直すことを試みる。
アガンベンと抵抗/高桑和巳(慶應義塾大学)
ジョルジョ・アガンベンの著作において、主要な(テクストの題に現れるような)テーマとして「抵抗」が扱われたことはない。そこでは、抵抗の根拠や大義(政治的に組織されうるたぐいの)が云々されることもない。アガンベンの思想は一種のアナーキズムとも見なせる──特殊なアナーキズムではあれ──のであってみれば、それも当然である。
しかし、とりわけ、諸権力(主権的権力をはじめとする)に対する批判が大々的に展開されるようになって以降(具体的には1990年ごろ以降)、しかじかの抵抗をめぐる意味場はつねに明瞭に前提されている。抵抗の可能性はたえず追い求められていると言える。
本発表では、抵抗という観点からアガンベンの仕事を読みなおす。
まずは、周知の語彙に属するいくつかの概念(ないしトポス)を、抵抗との関わりにおいて捉えなおす。
次いで、アガンベンにおける抵抗──そのようなものが想定できるとして──を支えているとおぼしい構想をいくつか特定することを試みる。なるほど、抵抗には根拠や理由は必要ない(なぜ抵抗するのかという問いに本質的な意味はない)。だが、アナーキズムであろうと抵抗の道筋はありうる。明らかにしたいのは、その道筋をアガンベンがどのように描いているのかということである。
現在に至る、この30年ほどの著作を主として参照する。