パネル2 ベルリン、大都市のポリフォニー ──群衆の夢/個の記憶
日時:2019年7月7日(日)10:00-12:00
場所:総合人間学部棟(1102)
・ベルリン・オペレッタの変容──行進曲からレヴュー・オペレッタ、古典のパロディへ/小川佐和子(北海道大学)
・モティーフから音響へ──1920年代のドイツにおける「オリジナル作曲」の変遷/白井史人(名古屋外国語大学)
・「カワウソのもとがわたしの家だった」──ヴァルター・ベンヤミン『1900年ごろのベルリンの幼年時代』における、「住む」こと/田邉恵子(早稲田大学)
【コメンテーター】海老根剛(大阪市立大学)
【司会】香川檀(武蔵大学)
本パネルでは、都市住民を群衆として組織化する表現形式としてオペレッタと映画が取り上げられ、その後、都市から排除された個という視点から、ベンヤミンのテクストが検討された。
「ベルリン・オペレッタの重層性──メロドラマ化と自己パロディ」と題された小川発表では、1920年代から30年代に一世を風靡したベルリン・オペレッタが、メロドラマ化と自己パロディという二つの方向性から詳細に論じられた。そのメロドラマ化については、悲劇的メロドラマは、本来、風刺性を持つオペレッタとは異質なジャンルであるが、それが多用されたのは、価値の混乱した時代における現実把握の方途として、わかりやすいフォーマットを提示したからではないか、という解釈が示された。自己パロディに関しては、カバレット等の隣接領域の取り込み、およびレヴュー・オペレッタ等の成立という、本来のパロディ路線のモダン化という観点から説明された。絢爛豪華なレヴュー・オペレッタは、社会批判的観点の乏しい、資本主義的文化を体現したジャンルと解されてきたが、小川氏は、そこに、時代や社会に対するアイロニカルな距離が意識されていることを指摘した。ただしそれは、ブレヒトやピスカートアのような明確な政治的批判ではなく、自己言及的な風刺的パロディであったという説明であった。ベルリン・オペレッタが選択したそのような自己言及性と、ジャンルの固有性やベルリンの時代状況がどのように関連するのか、もう一歩踏み込んだ解釈をぜひ聞きたいと思った。
「モチーフから音響へ──1920年代のドイツにおける『オリジナル作曲』の変遷」と題された白井発表では、1920年代から30年代の映画音楽と都市の経験との関連を探ろうとする試みであった。1920年代は、映画音楽がより自立化する時期であり、映画館が林立したベルリンは、このような変革の中心地の一つであった。1910年代に映画興行が盛んになるにつれ、無声映画伴奏のための選曲モデルとしての伴奏曲集が編集されるようになる。1920年代には、アメリカからも伴奏曲集が流入し、著名な指揮者を招いて選曲や指揮をさせるという試みがあり、一方でこれに対抗する動きも顕在化した。ここで注目されるのは、無声映画の伴奏音楽を体系化し、オリジナル音楽の作曲へと向かっていく方向性である。『最後の人』に付けられたベッチェの伴奏音楽では、独自のモチーフを作曲することで、作品全体に統一をもたらそうとする意識が認められる。一方、マイゼルによる『伯林―大都会交響曲』のための伴奏音楽では、音楽と映像のショットを同期させ、観客の身体感覚に働きかけることで、都市を追体験できるような「可聴化」という再帰的な試みが認められることが示された。当時の身体文化運動で論じられた身体とリズムの問題を想起させる視点であった。
「『カワウソのもとがわたしの家だった』──ヴァルター・ベンヤミン『1900年ごろのベルリンの幼年時代』における『住むこと』」と題された田邉発表では、ベンヤミンの亡命期の著作である『ベルリンの幼年時代』の緻密な読解を通じて、ベルリンには「居住不可能」とされた人々にとっての個の記憶を回想したり保存したりする意味が論じられた。断章「ロッジア」の分析では、ベルリン中心に対する西区の周縁性と亡命者の居住不可能性との関連が、「隠れる子ども」のモチーフでは、言葉に歪みをもたらすことで、その中に隠れ住むという子供の身振りが指摘された。故郷を追われたベンヤミンにとって、細部の具体性を削ぎ落とし、匿名的な「本」となった『ベルリンの幼年時代』は、亡命者が失われた大都市ベルリンを変容させ「住み直す」ための「家」であったという解釈が示された。
コメンテータの海老根剛氏は、三つの発表の根底に、20年代ベルリンの大都市の経験を反省的に分節化しうるメディウムとは何か、という問題意識があることを指摘した上で、反物語的レヴューと物語的オペレッタの接合、映画音楽のスタイルの相違と物語性との関連、具体性を削ぎ落した『ベルリンの幼年時代』を「個」の記憶として論じうるか、などについて質問した。ベルリンの地理的・歴史的背景を踏まえた詳細なコメントであった。
フロアからは、小川発表に対して1930年代のオペレッタ映画からオペレッタへの影響、パリのレヴューの風刺性のベルリンのレヴューへの影響の有無、敗戦後の日本のレヴューと比較した場合の風刺による共同体形成の可能性について、などの質問があった。白井発表には、ショットに関する楽譜への書き込みはどの程度細かくされているのか、情報の稠密度という点で、当時の前衛音楽との比較は可能か、という質問があった。田邉発表に対しては、触覚的/視覚的なものと子供との関係や、「本」が集合的な隠れ家であるとして、ベンヤミンは物質としてどのような本を作ろうとしていたと考えるか、などの質問があった。各発表は、実際の曲を聞かせたり、新資料を紹介するなど情報量の多い充実した内容であり、フロアからの質問も多く、活発な討論が行われた。ベルリンのモダニティと、それを表象するメディアとの関連に関して、まだまだ論ずべき問題が残されていることを改めて認識させられる、意義深いパネルであった。
山口庸子(名古屋大学)
パネル概要
都市は思想や芸術の変化を媒介する土壌であると同時に、作品に描き出され、記録され、想像される対象でもある。世界的なセンセーションを巻き起こした映画『伯林──大都会交響楽』(監督:ヴァルター・ルットマン、1927年)や、激変する1920年代の街景をつぶさに観察し、歴史的重層性のなかで活写したフランツ・ヘッセルの随想『ベルリン散策』(1929年)が示すように、20世紀初頭のベルリンは、リアルな場としてのインフラであるとともに想起の対象ともなりうるという大都市の二重性を強く帯びた街の一つであろう。パリ、ロンドン、ヴィーン、モスクワ、ローマ……など旧来の大都市に対抗して繁栄を遂げたドイツ帝国の都は、第一次世界大戦後にヴァイマル共和国の首都として装いを改め、1933年以降はナチス政権によるファシズムの震源ともなった。
このベルリンという一つの「大都市」は、20世紀の思想や文化の展開にどのような影響を及ぼしたのか──本パネルはこの包括的な問題を共有する3つの発表からなる。それぞれの発表は、音楽学、映画学、演劇学、思想研究などの方法を選択し、ベルリンにおいて、もしくはベルリンをめぐって展開する作品やテクストを論じる。オペレッタ、無声映画伴奏、ベンヤミン思想などの個別の領域の背景に、大都市を生きる群衆と個の、さらには匿名性と作家性との相克が透けて見えよう。都市を媒介に結びつく複数の領域を重ねることで、さまざまなジャンルや手法が混じり合い、多声的に展開する20世紀前半の文化・思想の諸相をあぶり出すことが本パネルの狙いである。
ベルリン・オペレッタの変容──行進曲からレヴュー・オペレッタ、古典のパロディへ/小川佐和子(北海道大学)
映画はその誕生時から、隣接する芸術ジャンル、とりわけ演劇界との人的・技術的・芸術的交流が盛んであった。オペレッタとの関係も映画が「無声」であった19世紀末から築かれ、1930年代以降のトーキー技術普及により「オペレッタ映画」ジャンルが新たに登場するにいたる。ベルリン・オペレッタの嚆矢とされる1899年初演の《月夫人》もその例の一つである。本作の台本作家ハインリヒ・ボルテン=ベッカースは、監督・製作者・脚本家としてヴィルヘルム期ドイツ映画の基礎を作り上げた人物であり、内容的にも同時期のメリエス映画『月世界旅行』と共鳴するSFオペレッタ・ジャンルであった。
第一次大戦後、1920-30年代にかけてのベルリン・オペレッタは、レヴューやジャズ、映画といった大衆娯楽を代表する要素を吸収し、「モダン・オペレッタ」へと変容していく。具体的な現象としては、オペレッタのメロドラマ化、古典オペレッタの新演出、古典オペレッタのレヴュー形式への翻案、新作のレヴュー・オペレッタ、古典オペレッタのパロディとしての新作オペレッタである。来るトーキー映画に向けて、オペレッタはスター発掘の場としても機能していた。本報告では、映画監督エリック・シャレルと、作曲家ラルフ・ベナツキーのコンビによるベルリン大劇場のシリーズを中心に、隣接する娯楽ジャンル間の協働の諸相を整理しつつ、ベルリンにおけるオペレッタの「近代化」の実態を明らかにしていくことである。
モティーフから音響へ──1920年代のドイツにおける「オリジナル作曲」の変遷/白井史人(名古屋外国語大学)
初期映画から1920年代にかけての無声映画館における伴奏音楽は、主として個別の映画館の楽士による既成曲からの選曲で成立していた。製作会社による選曲モデル「キューシート」や、1910年代にイタリアやアメリカなどで始まった特定の映画に対する伴奏譜の作成も、そのような旧来の方法を一変させるには至らない。
本発表が着目するのは、そうした状況のなか、1920年代半ばのドイツで提唱された無声映画伴奏の「改善」や体系化の動きである。大都市の封切館等で活躍する映画館音楽家による特定の作品への付曲──「オリジナル作曲」──が登場した。そこで本発表はまず、ベルリンの封切館ウーファ・パラスト・アム・ツォーにおける伴奏に関して、同館の楽士として演奏に参加していたヴェルナー・リヒャルト・ハイマンによる肯定的評価と、映画音楽専門誌『フィルム・トーン・クンスト』を主とした批判を検討する。続いて、ジュゼッペ・ベッチェによる映画『最後の人』(監督:フリードリヒ・W. ムルナウ、1924年)と、エドムント・マイゼルによる映画『伯林』への伴奏譜を具体的に分析する。モティーフを活用し物語叙述を円滑化するベッチェの技巧と、ノイズ風の表現を都市の記録映像とを同期させるマイゼルの音楽の相違を明らかにするとともに、その背景にある大都市における無声映画伴奏の競争関係にも目を向けていく。
「カワウソのもとがわたしの家だった」──ヴァルター・ベンヤミン『1900年ごろのベルリンの幼年時代』における、「住む」こと/田邉恵子(早稲田大学)
『1900年ごろのベルリンの幼年時代』(1932〜38年執筆、以下『幼年時代』)は、ベンヤミンが故郷ベルリンにまつわる思い出を、各篇1〜5頁でまとめた全30篇から成る回想作品だ。人口が200万人を越え、巨大建造物の建築が進み、自家用車の普及が急速に進んだ当時のベルリンにあって、ベンヤミンのまなざしはこの新興大都市が持つ「居住不可能性Unbewohnbarkeit」(「ロッジア」)に向けられる。
「居住不可能性」とは一方で、「商業のメトロポリス」であるベルリンの「冷ややかさ」であり(準備稿『ベルリン年代記』)、そして他方では、『幼年時代』執筆時のベンヤミンがすでに亡命生活を強いられ、里帰りすることも、ましてや一箇所に「住むこと」ですらかなわない状況に置かれていたことを指していると考えられる。こうした「居住不可能性」に対抗するかのように、『幼年時代』では、「この庭〔ティーアガルテン〕の魔術的な地誌」(「ティーアガルテン」関連資料)や「動物園の目立たない一角」(「カワウソ」)といった、ベルリンが大都市に発展する以前から存在する場所が取り上げられるのだ。
2019年2月に発行された新批判版全集11巻ではじめて公開された草稿や手稿の分析をもととして、ベンヤミンの幼年期回想プロジェクトの全容を明らかとする試みが行われつつある。本発表ではこの新全集版の成果も踏まえながら、大都市ベルリンにおける「住むこと」の可能性/不可能性について考察を加えてみたい。