〈顔の世紀〉の果てに ドストエフスキー『白痴』を読み直す
ドストエフスキーは声と言葉の作家であり、顔と視覚には無関心である――これが従来の常識だった。たとえばドストエフスキー嫌いで知られるナボコフはいう。「あれこれの人物を紹介する場合、この作家はいつも人物の外見を手短に描写し、以後は二度とふたたびその点に触れようとしない。〔…〕その結果、ドストエフスキーは肉体をもつ者として登場人物を見ていないという印象がつねに残る」(『ナボコフのロシア文学講義』)。本書の著者、番場俊がつねに参照するバフチンも、ドストエフスキーの小説を、フットライトが破壊され声だけが響く舞台に喩えていた。
そんな常識を覆すべく、本書は『白痴』に顔への深い欲望を読みとってゆく。本書前半では、観相学の流行と写真の発明が交錯した時代背景から、その欲望が解読される。「内面の発見」とリアリズム小説の誕生といった、お馴染みの文学史が想起されるかもしれない。しかし本書後半に向かうにつれて、そのような想定は裏切られることになる。実際のところ、本書はナボコフの批判に反駁するものではない。『白痴』に現れる顔とは、読みえないもの、描きえないものとしての顔、ただ不意に出会われ、指し示すしかないものとしての顔である、というのが本書後半の議論だからだ。バルトやバンヴェニスト、アガンベンを重要な参照源として、高密度に展開される議論を経て、「この」「その」という指示語を重ねる「あとがき」の数行で本書が閉じられるとき、本書自体が顔をひたすらに指し示そうとする身振りであったことに、われわれは気づかされる。
(乗松亨平)