〈他者〉としてのカニバリズム
食人の風習は、儀礼的であるか日常的かを問わなければ、あらゆる時代のあらゆる文明に見いだされる風習である。ところが西洋文明はそれを、カリブ海の地名に由来する「カニバル」という語で名指して、徹底的に他者のものとして排除しようとしてきた。本書はそのような「〈他者〉としてのカニバリズム」を、「カニバル」と名付けられた側の問題、さらには名付けた側の問題として考察したものである。
たとえばブラジルでは、自らのカニバル性を引き受けた「カニバリズム宣言」に端を発して、豊かな芸術運動が花開いている(都留ドゥヴォー恵美里「「食らう」芸術──〈食人〉の思想と近代ブラジル芸術」)。あるいは日本においては、大森貝塚から出土した人骨をきっかけに、「日本人=食人」説をめぐる論争が沸き起こったが、第二章「南方熊楠のカニバリズム」(志村真幸)は、この論争に対して南方熊楠が取った独自の姿勢を浮かび上がらせる。
西洋の側からの「カニバリズム」を扱ったのは第三章である。フォルカー・デース「道徳とサスペンスのあいだで」は、ジュール・ヴェルヌ作品におけるカニバリズムの描写を取り上げ、内なるカニバリズムに直面してしまった西洋人の葛藤を活写する。
第四章と第五章では日本近代文学におけるカニバリズムが取り上げられる。倉数茂(「声とまなざし」)と木村朗子(「戦後文学のおわりと不穏な時代のはじまりについて」)は、いずれも大岡昇平『野火』をひとつの手がかりとしながら、前者はそこから「私とは何者か」という普遍的な文学の問題を、後者は近年の、とりわけ三・一一以後の日本文学に見られる、危うい記憶喪失の兆候を読み解く。
第六章(橋本一径「殺さずに食べること、あるいは新たなるカニバリズム」)では、近年開発の進んでいる「培養肉」が、新たなカニバリズムであるとの仮説を提示した。人肉食をテーマとした著作は少なくないが、本論集が独自の視点の提示に少しでも貢献できたならば幸いである。
(橋本一径)