シンポジウム バザン生誕100周年記念イベント
パート1「21世紀のアンドレ・バザンに向けて」
日時:2018年12月16日(日) 13:00-18:30
会場:東京大学駒場キャンパス 21 KOMCEE West
タイムテーブル
13:00-14:30 基調講演 ダドリー・アンドリュー(イェール大学)「この残酷な世界をめぐるバザンの統合的パースペクティヴ」 Dudley Andrew (Yale University), “Bazin's Integral Perspective on Our Cruel World”
14:45-16:15 第一部 ラウンドテーブル「バザンのアクチュアリティ」
野崎歓(東京大学)/濱口竜介(映画監督)/三浦哲哉(青山学院大学)/ダドリー・アンドリュー
16:30-18:30 第二部 研究発表「バザン研究の現在」
堀潤之(関西大学)「「写真映像の存在論」再考──アンドレ・バザンにおける運動と静止」
角井誠(首都大学東京)「俳優の逆説──アンドレ・バザンの演技論」
伊津野知多(日本映画大学)「存在に触れるまなざし──観客論としてのバザン的リアリズム」
総合司会:野崎歓
入場無料、事前予約不要
日本語・英語(通訳あり)
パート2「映画とアダプテーション──アンドレ・バザンを中心に」
日時:2018年12月20日(木) 14:00-17:00
会場:山形大学人文社会科学部1号館3階 301教室
タイムテーブル
14:00-15:00 講演 ダドリー・アンドリュー(イェール大学)「アダプテーションからエクリチュールへ──アンドレ・バザンの成熟」
15:10-17:00
吉村和明(上智大学)「可能性としてのアダプテーション──ロベール・ブレッソン『ブローニュの森の貴婦人たち』をめぐって」
須藤健太郎(首都大学東京)「「不純な映画のために」の仮想敵」
大久保清朗(山形大学)「忠実さをめぐって──フランソワ・トリュフォー「フランス映画のある種の傾向」におけるアダプテーション批判」
司会:野崎歓(東京大学)
入場無料、事前予約不要
日本語・英語(通訳あり)
主催:アンドレ・バザン研究会
協力:東京大学大学院総合文化研究科表象文化論研究室、東京大学大学院人文社会系研究科フランス語フランス文学研究室、山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所
※本イベントの開催は、主に科学研究費補助金基盤研究(B)「アンドレ・バザンの映画批評の総合的再検討」(17H02299)、日本学術振興会「外国人研究者招へい事業」の助成によるものです。
アンドレ・バザン生誕100周年記念イベントの余白に
2018年12月16日と20日に、東京大学駒場キャンパスと山形大学で、アンドレ・バザン生誕100周年記念イベントが開催された。これらのイベントは、2016年6月に山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所内に発足したアンドレ・バザン研究会の活動のいわば中間決算として構想され、日本学術振興会外国人研究者招へい事業の助成により来日したダドリー・アンドルー氏(イェール大学)の講演を中心に据えたものだった。
そのうち東京でのイベントについては、研究会ブログに、原田麻衣氏による詳細な報告文がすでに掲載されているので、そちらをお読みいただくに如くはない(山形でのイベントについても、大久保清朗氏による報告文が掲載される予定)。また、アンドルー氏の東京での基調講演「この残酷な世界へのバザンのインテグラルな視座」を含むイベントの一部は、『アンドレ・バザン研究』3号の誌面に結実しているので、そちらも併せてお読みいただければ幸いである。ここでは、イベントを網羅的に振り返るというよりも、個人的な雑感を書き連ねることをお許しいただきたい。
これらのイベントを終えていま改めて痛感するのは、バザンがいまだ知られざる映画批評家であるということだ。その短い生涯で約2700篇もの文章を書いたバザンの全貌は、さまざまな雑誌に散らばって埋もれていたそれらの記事が、2巻で3000頁近い浩瀚な全集(André Bazin, Écrits comlets, édition établie par Hervé Joubert-Laurencin, Éditions Macula, 2018)に収録され、手軽にアクセスできるようになったいまとなっても、容易に捉えられるものではない。なにしろ、たとえばバザンが初めて出版した小著『オーソン・ウェルズ』(インスクリプト、2015年)は、この全集ではわずか14頁を占めるにすぎないのだから。
したがって、バザンの活動全体を視野に入れて、彼の「インテグラルな視座」を一挙に捉えようとする企ては、長年にわたってバザンの全記事を蒐集し、読解してきたアンドルー氏にしてはじめて構想しうるものと言っていいだろう。伊津野知多氏の発表も、いわば「バザン・システム」を総体として掴み取ろうとする野心的な試みであり、氏の持続的なバザン読解の蓄積が遺憾なく発揮されたものだったと思う。
その一方で、すぐれたテクストの常として、たった一篇の文章もまた容易に読解し尽くせるものではない。私自身がその草稿も含めて再読したバザンの最も有名なテクスト「写真映像の存在論」も、須藤健太郎氏が精緻にそのコンテクストを読み解いた「不純な映画のために」も、汲めども尽きせぬ偉大なテクストである。特に、「不純な映画」というタームが実は表題以外には使われていないという須藤氏の発見は、いかにこのテクストが読まれてこなかったかということの証左でもあるだろう。
今回、バザン読解の新たな鉱脈を探り当てたのは、角井誠氏によるバザンの俳優論・演技論をめぐる発表だったのではないかと思う(『アンドレ・バザン研究』3号には未掲載)。チャップリン論やハンフリー・ボガート論のような、俳優をスターの「神話」という観点から読解するバザンのアプローチはよく知られているが、それとは異なる視点から、いくつかの(比較的よく知られた)テクストを横断しながら、バザンの演技への眼差しに光を当てた氏の発表は、今後、全集に収録されたバザンの(相対的に知られざる)膨大な映画評を紐解いていく際のひとつの道しるべを提供するものでもあった。
かつてアンドルー氏は、バザンが主として1950年代にさまざまな雑誌に執筆したテレビ論、3D映画論、シネマスコープ論等を初めて集成した『アンドレ・バザンのニューメディア』(André Bazin’s New Media, trans. Dudley Andrew, University of California Press, 2014)によって、膨大なバザン・アーカイヴの中から、バザン読解の新たな道筋を切り拓いた。そうした身振りに倣って、「インテグラル・バザン」に切り込んでいくための新たな着眼点(俳優論・演技論もその一つになりえよう)を見出すことも、今後のバザン研究の重要な作業となっていくだろう。
(堀潤之)