寄稿1 ヴィリエ・ド・リラダン作『未来のイヴ』を通して見る人形への生命付与と愛
人形があまり得意ではない。どこか気味が悪いのである。人形を怖いと初めて感じたのは、小学校に上がる前頃に髪の毛の伸びる市松人形の怪談を聞いたときかもしれない。人形自体というよりも、それに生命が宿ると感じられること、そこに何かが存在する気配が不気味なのかもしれない。しかし、人形とはそもそも生命を呼び込むことを前提としたものなのではないか。金森修の遺作である『人形論*1』を読み、この著作をめぐる対談を聞き*2、登壇者の菊地浩平氏の『人形メディア学講義*3』を知って、この考えが強くなった。
*1 金森修、『人形論』、平凡社、2018年。
*2 2019年3月28日に武蔵大学にて行われた、表象文化論学会の企画による、本webニュースレター『REPRE』36号掲載用の対談「金森修『人形論』を読む」(登壇者:松浦寿輝、菊地浩平;司会:香川檀、鯖江秀樹)。
*3 菊地浩平『人形メディア学講義』、河出書房新社、2018年。本稿の考察は本書に多くを負っている。ここに記して、謝したい。
ヴィリエ・ド・リラダンの長編小説『未来のイヴ』は、発明家エディソンがエワルド卿のために、彼の恋人アリシア・クラリーの代替物として、人造人間ハダリーを作成する物語であるが、一貫して人造人間に魂を付与することが問題となっている。別言すれば、いかにして「操り人形(fantoche)」を「亡霊(fantôme)」に、すなわち<生命を持っているかのように見える存在>にするかが問題なのである*4。このように、『未来のイヴ』は人形に生命を与えることをテーマとした物語であり、そしてそこで重要になってくるものが「愛」なのである。というのも、最終的にハダリーに生命を与えることができるのは、エワルド卿の愛のみだからである。本稿では、人形への生命付与と愛という観点から、『未来のイヴ』を再読してみたい。まず『未来のイヴ』を「人形愛」の書とする澁澤龍彦の読解を批判的に考察し、次いでエワルド卿のハダリーに対する愛は澁澤流の「人形愛」の概念に収まらないものであることを確認して、『未来のイヴ』に見られる人形観を描出したい。
*4 Villiers de l'Isle-Adam, L'Ève future, Édition d'Alan Raitt, Gallimard, « Folio classique », 1993, p.146. 本稿では『未来のイヴ』からの引用は全て本書を参照し、拙訳を用いる。今後、本書からの引用には本文中にページ数のみ記す。
澁澤龍彦は様々なエッセイにおいて『未来のイヴ』における「人形愛」について言及している。澁澤によれば、「人形愛」はもともと「心理学用語、性病理学用語」の「ピグマリオニズム」の翻訳語として彼が用い始めた造語である*5。澁澤の定義によれば、ピグマリオニズムとは「自分自身のつくったもの、あるいは自分自身の行為を愛する心的傾向*6」であり、したがって「人形愛の情熱は自己愛*7」である。さらに、以下の澁澤による『未来のイヴ』の要約に見られるように、ミッシェル・カルージュの提唱する「独身者の機械」に結びつく*8。
リラダンの小説では、万能の発明家エディソンが、失意の青年エワルド卿のために、美しい人造人間をつくってやるという設定になっているが、じつは、この恋人の肉体を忠実に模した魂のない人形は、エワルド卿の頭の中だけで生まれた理想の女、幻影の女でしかなく、いかに科学の粋を凝らしても、ついに「独身者の機械」以上のものではあり得なかったのだ*9。
そして、澁澤においては、「独身者の機械」とは「快楽と苦痛のオナニー・マシン*10」と言い換え可能である。このように、澁澤にとっては、『未来のイヴ』における「人形愛」はエワルド卿の人造人間ハダリーに対する愛のことを指し、それは魂のない身体に対する不毛な愛であり、エワルド卿の自己愛に他ならないものということになる。しかし、エワルド卿のハダリーに対する愛は果たして澁澤のいう「人形愛」なのだろうか。
*5 澁澤龍彦、「人形愛の形而上学」、『ビブリオテカ 澁澤龍彦』、白水社、1980年、第IV巻、195ページ。
*6 澁澤龍彦、「人形愛──あるいはデカルト・コンプレックス」、『澁澤龍彦集成』、桃源社、1970年、第IV巻、299ページ。
*7 澁澤龍彦、「少女コレクション序説」、『ビブリオテカ 澁澤龍彦』、前掲書、193ページ。強調は作者。
*8「独身者の機械」については、以下を参照。ミッシェル・カルージュ、『独身者の機械 未来のイヴ、さえも………』、高山宏、森永徹訳、ありな書房、1991年。
*9 澁澤龍彦、「人形愛──あるいはデカルト・コンプレックス」、前掲書、298ページ。
*10 澁澤龍彦、「人形愛の形而上学」、前掲書、202ページ。
まず最初に確認しておかなくてはならないのは、人造人間はエワルド卿自身がつくったものでもなければ、彼が作成を依頼したものでもないことだ。エワルド卿に恋人アリシアの代替物として人造人間を試すよう提案するのはエディソンなのである。『未来のイヴ』は十年近くの生成期間を経て完成したが*11、初期の段階においては、後のエワルド卿に当たる人物が、恋人そっくりの人造人間の作成を依頼する設定になっており、決定稿のように変更されたことには大きな意味がある。なぜなら、これによって、エワルド卿は心ならずも人造人間を受け入れることになるからである。実のところ、決定稿において彼が人造人間を本当に受け入れるのは小説の終わり近くになってからであり、しかも大きな葛藤を経てでしかない。さらに、彼がアリシアではなく、ただハダリーのみを愛することをはっきりと示すのは、まさに小説の終わりであり、船上火災によってハダリーがアリシアとともに決定的に失われてしまってからである。したがって、仮にエワルド卿の「人形愛」が語れるにしても、それは遡及的にでしかないのである。とはいえ、エワルド卿が最終的に生身の人間に代えて人造人間を選んだことは事実であり、その限りにおいて彼の「人形愛」を語ることは可能である。
*11『未来のイヴ』の生成過程に関しては、とりわけ以下を参照。Villiers de l'Isle-Adam, Œuvres complètes, édition établie par Alan Raitt et Pierre-Georges Castex avec la collaboration de Jean-Marie Bellefroid, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1986, tome I, pp. 1429-1561.
では、エワルド卿が選んだものは結局「恋人の肉体を忠実に模した魂のない人形」に過ぎなかったのだろうか。小説ではむしろ人造人間に魂を与えることこそが重大事となっている。エディソンは最初から人造人間に魂を吹き込むことを明言している。エワルド卿の最初の懸念は、人造人間が「何も感じない、知性のない人形(poupée)」(p.126)にしかならないのではないかということであり、エディソンはこの懸念を払拭しなくてはならないのである。『未来のイヴ』の物語全体を通じて、人造人間を「魂のない人形」以上のものにすることが試みられている。エディソンの言葉を借りれば、「操り人形」を「亡霊」にすることが問題なのである。したがって、人造人間のうちに「魂のない人形」しか見ないことは、『未来のイヴ』の物語をその出発点にまで引き戻してしまうことなのである。とはいえ、それでもなお「魂のない人形」、「操り人形」はエディソンの人造人間の基体である。だからこそ、『未来のイヴ』の人造人間を人形として読む本稿の試みも成立するわけである。
いかにして人形に魂を付与するか。このことに人造人間に搭載された蓄音機が果たす役割は小さくない。なぜなら、あらかじめ録音されたものとはいえ、人造人間は言葉を持つことになるからである。とはいえ、この「言葉」も根本的には依然として「操り人形」の属性に留まる。重要なのは「操り人形」が観客にもたらす効果なのである。人造人間の魂は最終的にエワルド卿の主観に依拠することになるはずであり、完成した、すなわちアリシアそっくりになった人造人間の、エワルド卿に対するプレゼンテーションこそが最も重要なのである。この検討に入る前に、二点確認しておくべきことがある。
まず、人造人間がアリシアの姿と声を纏う以前から、自ら行動し、またその独特の声で話すことができたということである。これは人造人間の内部装置への書き込みというエディソンの説明では理解できないことであり、エワルド卿にとって謎となっていた。結局、彼は完成した人造人間を受け入れた後に、この謎の種明かしをされることになる。イヴリン・ハバルという、人工物を身に纏うことで男を誘惑し、破滅させる女性に*12、夫を殺されたアンダーソン夫人は、そのショックで嗜眠状態になるのだが、エディソンが彼女に催眠療法を施したところ、彼女の内に突如ソワナという未知の魂が出現した。そして、このソワナが神経流体として人造人間に合体し、それを操り、話していたというのである。つまり、人造人間とソワナとの関係は、ちょうど「操り人形」と「操り師」の関係にあったわけである。エワルド卿には当初「操り師」が隠されていたために、人造人間が自らの行動し、話しているように見えていたのである。
*12 エディソンが人造人間を着想したのはイヴリン・ハバルのような女性に対抗するためであり、ハバルはハダリーのモデルともみなせる。両者の共通点と差異は「人形」という観点からも大変興味深いが、紙幅の関係で本稿で扱わない。
もう一つ確認しておかねばならないことは、エワルド卿の自己愛に関する問題である。澁澤は最初に見たように「人形愛」を「自己愛」と規定し、『未来のイヴ』もまたその根拠となっている。しかしながら、エディソンが自己愛であると喝破するものは何よりもまずエワルド卿のアリシアに対する恋なのである。エディソンはそこから敷衍して、あらゆる情熱恋愛を自己愛的なものとする。彼によれば、あらゆる人間は自らの幻影にしか恋をしないのである。だからこそアリシアを人造人間で置き換えても問題ないということになるのであるが、だとすれば、ことさらに「人形愛」のみを自己愛と規定することも意味をなさなくなる。さらに、ここで注意したいことは、エディソンが人造人間によってエワルド卿の夢を実現することを同毒療法の概念で語っていることである。何の治療なのであろうか。小説の終わり近く、エワルド卿がハダリーとともに故郷に向けて旅立った後に、エディソンはソワナがすでにそこにいなくなっているとは知らずに、彼女に向かってこう述べる。「<科学>が<人間>を<恋>からさえ……解放できると、初めて証明できたかもしれませんね。」(p.345)この言を信じるなら、エディソンは人造人間によってエワルド卿の恋を実現させるだけでなく、消滅させることを目論んでいたことになる。したがって、人造人間が自己愛を反映するものであることは確かだとしても、これもまた出発点でしかないのである。
以上を踏まえた上で、アリシアそっくりになった人造人間をエワルド卿が受け入れるプロセスを考察したい。まず重要なのは、エディソンがアリシアそっくりになった人造人間を、アリシア本人であるかのようにエワルド卿に引き合わせることだ。人造人間を本物のアリシアと勘違いしたエワルド卿は、とうとう彼の心を理解したかに思える彼女に対して愛を再燃させ、それゆえに自分が人造人間に、「おもちゃ」(p.305)に、「人形(poupée)」(p.306)に期待したことを後悔する。ところがまさにエワルド卿の心が恋情で満たされた瞬間に、人造人間は、自身の声でこう告げて、正体を明かす。「お分かりにならないの?私はハダリーです。」(p.306)エワルド卿はこの言葉に地獄から罵られたように感じ、エディソンに対する殺意を覚える。この一連のプロセスは極めて重要である。なぜならエワルド卿はこうして初めて自身のアリシアに対する恋が自己愛に他ならなかったことを理解したからだ。まさにこのプロセスにエディソンによる同毒療法があると言えるだろう。人造人間はエワルド卿の愛を叶えると同時に、彼に冷水を浴びせ、愛を破壊するものとして機能したわけである。
しかしここからエワルド卿と人造人間の新たな関係が始まる。なぜなら彼はアリシアの幻影の背後にハダリーと名のる何者かが存在することに気づかざるを得ないからだ。ハダリーの出現はエワルド卿の自己愛的に閉じた世界に入った亀裂だったのである。だからこそ、エワルド卿はハダリーに「お前は誰だ」(p.308)と問い掛けることになる。こうしてハダリーは彼にとって未知の主体となった。彼女はもはや身体的なものではなく、精神的なものである。なぜなら彼女は身体的にはアリシアそのものだからだ。実際、彼女はエワルド卿の問いに答えて、あらゆるものの形を借りて現れ出ようとする霊的存在として自らを説明する。こうしてハダリーは今や「亡霊」となったのである。
しかしエワルド卿も簡単にはハダリーの誘惑に屈しない。興味深いのは、彼がハダリーを貶めるために「この不気味な自動人形(automate)」(p.319)と、ハダリーの物質性を強調していることである。対して、彼がハダリーを受け入れることを決めた時に用いる呼びかけは「亡霊」(p.324)である。このことはエワルド卿にとってハダリーが二重であることを意味する。彼女は人形であると同時にそこに宿った霊なのだ。
ハダリーを受け入れたエワルド卿は最後にエディソンから、ソワナという未知の魂がハダリーを操っていたという説明を受けることになる。この最後の種明かしはおそらくエディソンのエワルド卿に対する最後の治療となり得たはずのものだ。なぜなら、ソワナ自体は神秘的な存在であるにしても、ソワナがハダリーを操っていたのであれば、ハダリー自体は神秘的な存在ではなくなるからだ。いかに完成度が高いとはいえ、ハダリーは「操り人形」に過ぎないのであり、エワルド卿は欲望のままにそれを操作できることになる。こうしてエワルド卿は真に恋愛から解放されることになるわけだ。エディソンの思惑通りに事が済めば、ハダリーは完璧な「独身者の機械」だったはずだ。しかしエワルド卿は、ハダリーがアリシアの声で話したことがすべて録音であったというエディソンの説明に納得せず、ハダリーの内に「この世ならぬものの存在」(p.341)を確信するのである。したがって、エワルド卿にとっては、ソワナとハダリーはもはや分離不能なものであり、ハダリーは人形というよりも「亡霊」そのものになったのである。そして、このことによって、ハダリーはエディソンのみならず、エワルド卿からも自由なものとなり、統御不能な主体になったのである。船上火災でハダリーが失われてしまった時に、エワルド卿が喪に服すのはそういう主体としてのハダリーに対してなのである。
ハダリーは精巧な「操り人形」に過ぎないのか、それとも「この世ならぬもの」を宿した「亡霊」なのか。小説は最後までどちらの可能性も残している。しかし、この曖昧さは、とりわけ人形論の観点からすれば、決して否定的なものではない。なぜなら、ある者にとっては、「操り人形」であり、「独身者の機械」であるものが、他の者にとっては、神秘的な生命を有した存在であり、他者との出会いの場となり得る可能性を示しているからである。
木元豊(武蔵大学人文学部教授)