あたかも見えているかのように──修辞学におけるエナルゲイアの概念をめぐって
本稿は、「エナルゲイア(ενάργεια)」という概念を手掛かりに、修辞学における言語と視覚の関係をめぐる問題を検討するものである*1。
*1 本稿では、ギリシャ語のενάργειαを基本的にそのまま「エナルゲイア」と訳す。ただし文脈や含意を明示する必要性がある場合は、「迫真性」や「明証性」と訳し分けてある。
1. フリュネ効果
紀元前340−330年頃、当時のギリシャにおいて著名なヘタイラの一人であったフリュネは瀆神の罪で裁判にかけられる。彼女の弁護人を買って出たのは、これまた名の知られた弁論家であり、フリュネの恋人でもあったヒュペレイデスである。アテナイオスによれば、自らの弁護が首尾よく運ばず、形勢が不利となったヒュペレイデスが取った手段は、フリュネを法廷の前に連れ出し、彼女の衣服を引き裂くというものであった。このいくぶん強行的な策略は結果的に功を奏し、「人々の胸に迷信的な恐怖心を起こさせ、裁判官は憐みの情にほだされ、このアフロディーテに仕えまつる巫女に死を与えぬことにした」*2という。偽プルタルコスもまたこの裁判について証言を残している。「そしてまさに彼女〔フリュネ〕が有罪と宣告されようとしたとき、彼〔ヒュペレイデス〕は彼女を法廷の中央に出し、彼女の着衣を引き裂いて、乳房をあらわにして見せた。裁判官たちはその美しさを見て彼女を無罪放免した」*3。
*2 Athenaeus, Deipnosophistae, XIII, 590 E.(The Learned Banqueters, Volume VI, Books 12-13.594b, edited and translated by S. Douglas Olson, Harvard University Press, 2010; アテナイオス『食卓の賢人たち 5』柳沼重剛訳、京都大学学術出版会、2004年)以下、古典古代の著作を引用する際は、原著の巻数をローマ数字で、伝統的に踏襲されている章節番号をアラビア数字で示す。参照した英・仏語訳および日本語訳の箇所については、すべて同様の数字が表記されているため割愛する。
*3 Plutarch, Moralia, XII, 849E.(Plutarque, Œuvres morales, Tome XII, 1re partie, Traités 54-57, Texte établi et traduit par Marcel Cuvigny et Guy Lachenaud, Les Belles Lettres, 1981, XII; プルタルコス『モラリア 10』伊藤照夫訳、京都大学学術出版会、2013年)
それぞれの証言ごとの細部をめぐる食い違いについてはここでは措いておこう。この逸話がいまもなお注目に値するとすれば、それは、フリュネの裁判の経緯と顛末が、論理や論証を積み重ねて「語ること」の瑕疵を、憐みや畏怖といった感情を喚起するような「見ること」が補うという事態のある種の雛形となっているように思われるからである。1995年にパリとクレテイユで開かれたコロックDire l’évidenceの成果としてまとめられた同名の論集の序文で、編者たちはこの点を明確に述べている。
この〔フリュネの裁判の〕逸話が古代において、そして近代に至るまでよく知られていたのは、それが語ること(dire)と見ること(voir)の間にある抗争を明るみに出しているからである。[…]証明する(démontrer)力を持たなかった彼は、見せた(montrer)のである。そして論証によって勝ち得えなかったものを、身振りによって獲得したのである。修辞学校においてこの寓話は、単に言葉(parole)ではなく視覚(vue)に根ざした、憐れみへの訴えかけの古典的な例として残っていくことになる。*4
*4 Carlos Lévy et Laurent Pernot, « Phryné devoilée », Carlos Lévy et Laurent Pernot, (eds.), Dire l’évidence, Harmattan,1997, p.6.
直接的な感覚としての視覚*5が──とりわけ説得の局面において──言語の限界を乗り越えること。フリュネの逸話と彼女の形象が近代に至るまで多くの芸術家たちに霊感を与え続けてきたのは、いわばこうした「フリュネ効果」と呼ぶべきものが、言語と視覚が取り結ぶ緊張関係を示しているからに他ならない*6。
*5 直接的な感覚として視覚が思想史上で担ってきた特権性については、たとえば以下を参照のこと、Martin Jay, Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought, University of California Press, 1993. 〔マーティン・ジェイ『うつむく眼: 二十世紀フランス思想における視覚の失墜』亀井大輔ほか訳、法政大学出版局、2018年〕
*6 近代におけるフリュネの形象については、たとえば以下を参照のこと。Bernard Vouilloux, Le tableau vivant. Phryné, l’orateur et la peintre, Flammarion, 2002.
ところで先に引用した一節の末尾で言われているように、フリュネの裁判は古代の修辞学の書物の中でしばしば言及されている。その中でもおそらく最も知られているのが、『弁論家の教育』におけるクインティリアヌスのものである。修辞学の定義を検討するに際してクインティリアヌスは、実際に裸体や傷を見せることで説得性を確立するような方法の事例としてこの裁判に触れている*7。興味深いのはそれが、「説得する能力」という広く受け入れられていた修辞学の定義が不十分であることを主張するための論拠として引き合いに出されているということだ。つまり、こうした「言葉なしの(sine voce)」「外見(aspectus)」*8のみによる手段であっても十分に──ときに言葉による以上に──説得力を持ちうるのであり、それゆえ修辞学を「説得」という側面のみに集約すれば、その本質を見誤ることになるというわけである。それに代えてクインティリアヌスが提示するのは、「良く語るための学問(bene dicendi scientiam)」*9という定義である。ベルナール・ヴイユーは、ここでの一連の議論のポイントを以下のように強調している。
*7 Cf. Quintilianus, Institutio Oratoria, II, 15, 9.(Quintilian, The Orator’s Education(Institutio oratoria), edited and translated by Donald A. Russell, 5 vols., Harvard University Press, 2001; クインティリアヌス『弁論家の教育 1』森谷宇一ほか訳、京都大学学術出版局、2005年)以下、I.O.と略記。
*8 I.O., II, 15, 6.
*9 I.O., II, 15, 34.
言い換えれば、説得する能力を自任するとき、修辞学は、クインティリアヌスが修辞学とっての本来的な領域とみなしたもの、すなわち言葉から逸脱し、そしてあらゆる非言語的な手段、とりわけ言語的な経路を通らないようなあらゆる手段に訴えがちになるだろう[…]。こうした拡大が批難されるべきであり、また批難されているとすれば、それは倫理的な次元での理由による。つまり、良く語るための学問として、そして善を良く語るための学問としての修辞学という定義は、その実践の領域を言語のうちに基礎づけ、そのうちに限定するのである。*10
*10 Bernard Vouilloux, Le tableau vivant. Phryné, l’orateur et la peintre, op. cit., p.154.
修辞学をもっぱら言語によって「語ること」に定位させるクインティリアヌスが、言葉を媒介しない外見のみに頼る方法にも説得性を認めているとしても、それはあくまで非修辞学的な説得としてという但し書きとともになのである。この意味において、フリュネの裁判は、修辞学とは何ではないかということを例証していることになるだろう。このことから窺い知ることができるように、修辞学において視覚性が問題ととなるとすれば、それは──字義的な意味で──何かを見せることに関わるわけではない。むしろそこで問われるのは、いかにして言語によって「フリュネ効果」を獲得するのか、つまりいかにして言語によって──比喩的な意味で──「あたかも見えているかのように」するのかということである。
2. エナルゲイア──修辞学
ギリシャからローマへと連なる修辞学の伝統において、視覚をめぐる問いと結びつけられてきたのが「エナルゲイア(ενάργεια)」という語である。この語は論者によってさまざまに語られているが、おおむね次のように定義することができる。すなわち、「言語を媒介とすることによって、実際には現前しない対象を、聞き手や読み手の眼前にあたかも見ているかのようにすること」である。この暫定的な定義に基づくならば、あたかも真に見えているかのようにするという意味で、ενάργειαは「迫真性」と訳すことができる。すでにアリストテレスは『弁論術』で視覚的な感覚を喚起することがもたらす修辞的な有用性を語っているが*11、そうした視覚的な効果がエナルゲイアという概念と明示的に関係づけられるのには紀元前1世紀頃を待たねばならない。たとえば、この時代に書かれたとされるハリカルナッソスのディオニュシオスの「リュシアス論」には、この語の簡潔な説明を読むことができる。「エナルゲイアというのは、語られる事柄を眼に見えるようにできることであり、細かい状況まで把握することから生まれる」*12。あるいはデメトリオスがホメロスを引きながら語るところによれば、エナルゲイアとは、出来事や対象をいかなる細部も漏らさず語ることや、繰り返しを用いることで生み出されるものである*13。
*11 付言しておけば、字面上の類似からアリストテレスの写本でしばしば混同されてきた「エネルゲイア(ἐνέργεια)」と「エナルゲイア(ενάργεια)」は、語源的には関係を持たない。前者が接頭辞ἐν(…の中に)と名詞ἔργον(仕事)から成るのに対して、後者はἄργος(光・明るいさ)を語源とする。両者の関係については、たとえば以下を参照のこと。Eva Keuls, “Rheotric and visual aids in Greece and Rome”, Eric A. Havelock and Jackson Herschbell (eds.), Communication arts in the ancient world, Hasting House, 1978, pp.121-134; Ned O'Gorman, “Aristotle's Phantasia in the Rhetoric: Lexis, Appearance, and the Epideictic Function of Discourse”, Philosophy and Rhetoric, 38, 2005, pp.16-40.
*12 Dionysius Halicarnasseus, Lysias, 7, 1.(Dionysius of Halicarnassus, Critical Essays, Volume I, edited and translated by Stephen Usher, Harvard University Press, 1974; ディオニュシオス/デメトリオス『修辞学論集』木曽明子・戸田和弘訳、京都大学学術出版局、2004年)
*13 Demetrius, De elocutione, 209-211.(Aristotle et al., On Style, Aristotle:Poetics.; Longinus: On the Sublime; Demetrius: On Style, edited and translated by Doreen C. Innes et. al., Harvard University Press, 1995; ディオニュシオス/デメトリオス『修辞学論集』、前掲書)
エナルゲイアが修辞学の体系のうちに明確に組み入れられるのは、やはりクインティリアヌスの『弁論家の教育』によってである。ただし、本書でこの語には一義的に扱うことができないほどの広い外延が与えられていること、扱われる文脈ごとにその都度さまざまな他の語彙──描出(illustratio)、鮮明さ(evidentia)、呈示(repraesentatio)──と同一視されることには留意する必要がある。この点を十分に踏まえたうえで、それらの語彙のうち「鮮明さ(evidentia)」に焦点を絞ってクインティリアヌスの記述を確認しておきたい。というのも、ενάργειαからevidentia──これは「見る」を意味する動詞videreを語源とする──への翻訳には、修辞学における言語と視覚の問題を検討するうえで重要な論点が含まれているからである。この点についてはのちに立ち返ろう。
たとえば本書の第四巻では、「鮮明さ(evidentia)」が、「明晰さ」、「簡潔さ」、「真実らしさ」と並んで「陳述(narratio)」の原理の一つに数えられている。「私の理解する限りでは、ただ真実を語る(dicendum)のみならず、さらにそれを多少とも見せる(ostendendum)必要があるとき、陳述における鮮明さは実に大きな美点である」*14。さらに、聞き手の感情をいかに動かすかということを論点とした第六巻の第二章でクインティリアヌスは、キケロを参照しながらこう述べている。
*14 I.O., IV, 2, 64.
エナルゲイアとはキケロによって「描出(illustratio)」や「鮮明さ(evidentia)」などと名付けられており、それは何かを語る(dicere)というよりもむしろ見せている(ostendere)ように思われるものである。そして感情が、われわれが出来事そのものの中にいるかのように続くことになる。*15
*15 I.O., VI, 2, 32.
この箇所で明快に説明されているように、「語る」というよりも「見せる」ことで、聞き手があたかも語られている出来事に立ち会っているかのような働きをするとき、言葉は「迫真的なもの」となるのである。
『弁論家の教育』の中でのエナルゲイアのこうした位置づけは、「パンタシアー(φαντασια/visio)」というまた別の概念とも関係を持っている。第六巻の同じ箇所の記述によれば、「ギリシャ人たちがパンタシアーと呼んでいるもの(われわれはこれを「見えるもの(visiones)」と呼ぶ)は、あたかもわれわれがそれらを眼で見て手元に持っているかのように、不在の事物のイメージ(imagines)をわれわれの心に呈示する(repraesentantur)ものである」*16。この一節から窺えるように、クインティリアヌスは一貫して、パンタシアーを不在の事物をイメージによって描くための能力──いわゆる「想像力」──として扱っている。つまり、言葉がエナルゲイアの性質を獲得するためには、弁論家がこの能力を有することが要請されるのだ。
*16 I.O., VI, 2, 29.
3. エナルゲイア──哲学
ところでエナルゲイアという修辞学的な概念は、ヘレニズム期の哲学、とりわけ「真理の基準」をめぐる認識論な議論のうちですでに術語として練りあげられていたことはおさえておく必要がある*17。セクストス・エンペイリコスによれば、エピクロスはエナルゲイアを「パンタシアー」と同一視しながら、「それがいついかなるときも真なるものとして存立する」*18とみなしていたとされる。注意すべきは、エピクロスにとっての「パンタシアー」とは、つねに「存在するものから、そして存在するもののとおりに生じる」*19ようなものであるということだ。したがって、エピクロスのターミノロジーに照らし合わせれば、「パンタシアー」とは「想像力」のような主観的な能力というよりもむしろ、実在性や客観的な真理と関わるものなのだ。この点を明確にするために、以下では後者の意味での「パンタシアー」を「表象」と訳しておこう。
*17 ヘレニズム期の哲学におけるエナルゲイアの概念について以下を参照のこと。Graham Zanker, “Enargeia in the ancient criticism of poetry”, Rheinisches Museum für Philologie, 124, 1981, pp.297-311 ; Claude Calame, « Quand dire c’est faire voir: l’évidence dans la rhétorique antique », Études de Lettres, 4, 1981, pp.3-20 ; Adriana Zangara, Voir l’histoire. Théories anciennes du récit historique, Vrin, 2007, pp.234-25 ; Katerina Ierodiakonou, “The notion of enargeia in Hellenistic philosophy”, Benjamin Morison and Katerina Ierodiakonou (eds.), Episteme etc.: Essays in Honour of Jonathan Barnes, Oxford University Press, 2012, pp.60-73.
*18 Sexti Empirici, Adversus Mathematicos, VII, 203.(Sextus Empiricus, Against the professors, edited and translated by R.G. Bury, Harvard University Press; セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁(二)──論理学者たちへの論駁』金山弥平・金山万里子訳、京都大学学術出版会)以下、Math.と略記。
*19 Math., VII, 203.
ストア派も、エピクロスと同様に認識の確実性を形容するためにエナルゲイアという語を用いているが、彼らは「把握可能な表象(καταληπτικη φαντασια)」*20という概念と関係づけることで、それをより正確に規定している。知られるように、ストア派の認識論では広義の表象が種差に基づいて細分化されていた。その分類に従えば、表象のうちにはまず、「説得的なもの」、「非説得的なもの」、「説得的であると同時に非説得的なもの」、「説得的でも非説得的でもないもの」が存在する。さらに「説得的表象」は、「真なるもの」、「偽なるもの」、「真であると同時に偽なるもの」、「真でも偽でもないもの」に分類される。そして、「真なる表象」は、「把握可能なもの」と「把握不可能なもの」に分けられる*21。以上の込み入った分類の詳細には立ち入らず、最後の区別にのみ着目しよう。セクストスによれば、後者の「把握不可能な表象」は、「錯乱」のような病的な状態において見られるものであり、外部から偶然的に起こるものでしかない*22。それに対して前者の「把握可能な表象」とは、「存在するものに由来し、存在するものそのもののとおりに刻印、押印され、存在しないものからは生じえないような表象」*23である。あらゆる表象が「真なるもの」だと考えていたエピクロスとは異なり、ストア派にとって表象は「把握可能」となる、つまりその対象が実在し、かつそれが存在するがままに現れるという条件のもとでのみ、認識の確実性や真理の基準となりうるのである。
*20 「把握」をめぐるストア派と懐疑主義の間の論争の展開については、以下の論考に詳しい。金山弥平「古代懐疑主義」、内山勝利編『哲学の歴史』第二巻、中央公論新社、2007年。
*21 Math., VII, 241-248.
*22 Math., VII, 247.
*23 Math., VII, 248.
このように性格づけられるところの「把握可能な表象」がエナルゲイアと密接な関わりを持っていたことは、セクストスのテクストの別の箇所で、この語の形容詞形であるενάργεςが以下のように使われていることから裏づけることができるだろう。「把握可能な表象とは明証的で(ενάργες)印象的なものであるから、彼ら〔ストア派〕が言うには、ほとんど髪を引っつかむようにして、われわれを承認へと引っ張っていくのである」*24。したがって、ストア派においてエナルゲイアという語句は、外在的な手段によって基礎づけられる必要のない無媒介な自明性という「把握可能な表象」が備える性質を指し示していると言える。
*24 Math., VII, 257.
こうした哲学的な文脈が修辞学的な意味でのエナルゲイアに少なからぬ影響を及ぼしていたことは、クインティリアヌスがエナルゲイアにevidentiaというラテン語訳を与えるときに念頭に置いている、キケロの『アカデミカ』にあたってみれば直ちに理解することができる。というのも、本書で展開されているのはもっぱら哲学的な考察だからである。キケロはストア派の主張を導入するに際して、いみじくも「把握(comprehensio)」に結びつけるかたちでエナルゲイアに言及している。
さらに彼ら〔エピクテトスらのストア派〕は、懐疑派に対して認識や知覚、あるいはストア派がカタレープシス(καταληψιν)と呼ぶものを直訳した把握が何であるかを定義する必要はないと言った。把握したり認識したりできるものがあると説得しようとするのは愚かなことである、なぜならエナルゲイア以上に明白なものはないから、と言うのである。(ギリシャ語のエナルゲイアは明晰さ(perspicuitas)とか明証性(evidentia)と訳せるだろう[…])。つまり、明証性以上に明白な議論は見つけ出せないし、これほど明白なものを定義する必要はないと彼らは考えたのである。*25
*25 Cicero, Academica, Ⅱ, 17.(Cicero, De natura deorum ; Academica, edited and translated by Harris Rackham, Harvard University Press, 1933)以下、Aca.と略記。
キケロが書くところによれば、懐疑派の学祖であるピュロンは、「把握」の概念を放棄したことで「知と無知の判断をやめてしまい、その結果、何も判断できるものがなくなってしまった」*26。認識や知覚の確実性を疑問に付す懐疑派に対するストア派の反論は、まさに「明証性」を基礎としているのである。
*26 Aca., II, 18.
4. 修辞学的な視覚
ここまで確認してきたように、エナルゲイアという語は哲学と修辞学の二つの領域にまたがっている。しかしながら、注目すべきは、この概念の両者での用いられ方が著しい対照をなしているということである。というのも哲学的な文脈でのエナルゲイアとは「明証性」、対象の実在性とその表象の無謬性を表しているのに対して、修辞学の著作におけるそれは「迫真性」、言語によって不在の対象にイメージを与えることで「真に迫ること」だからである。その意味で、現実には見えていないものを見えているようにすることとしての修辞学的なエナルゲイアは、ストア派の認識論な枠組みで言うところの「把握不可能な表象」に等しいものであろう。
『弁論家の教育』に立ち返ることで、両者の差異を具体的に検証してみよう。本書を注意深く読んでみると、クインティリアヌスがキケロを援用しながら哲学的な術語としてのエナルゲイア(=明証性)を修辞学の領域で受容する際に、いくつかのわずかな──とはいえ決定的な──用語上の操作を加えていることに気づかれる。それはまずもって、φαντασια(パンタシアー)というギリシャ語の訳語をめぐって現れている。先に引いた一節で、クインティリアヌスはφαντασιαをvisioという語で訳していた。それに対して、『アカデミカ』でキケロがこの言葉をストア派の術語として翻訳するうえで選択しているのはvisumである*27。この差異は、キケロの語彙ではvisioが夢想や幻覚といった状態において生じるものを指しているだけに一層決定的なものである*28。
*27 Aca., I, 40.「〔ゼノンは〕哲学の第三部門に関しては実に多くの変更を加えた。彼は感覚ついていくつかの新しい説を立てたのだ。感覚は複合体であり、外側からもたらされたある種の刺激からなる。ゼノンはそれをパンタシアーと呼んだが、われわれは表象(visum)と呼んでいいだろう。」
*28 Cf. Aca., II, 49; 90. なおキケロとクインティリアヌスにおけるパンタシアーの訳語をめぐる差異については以下を参照のこと。Juliette Dross, « De la philosophie à la rhétorique: la relation entre phantasia et enargeia dans le traité Du sublime et l’Institution oratoire», Philosophie antique, 4, 2004, pp. 61-93.
ではなぜクインティリアヌスは、このような訳語の変更を行ったのか。それはおそらく、哲学的な意味でのパンタシアー(=表象)ないしはそれらと結びついた視覚性とは異なった仕方で修辞学的な視覚性を扱うためではないだろうか。事実、彼は聞き手の感情を動かすことに長けた「エウパンタシオートス(εὐφαντασίωτος)」、すなわち「事物や声や動きをきわめて本当らしく想像する(finget)ことのできる者」となるための条件を次のように語っている。
精神の休息状態や空虚な願望やいわば白昼夢のようなものの中では、私がいま述べているイメージに襲われてわれわれは、自分が旅行したり、航海したり、戦ったり、民衆に話しかけたり、本当は持っていない富の使い方を決めたりしているような気になり、しかもそう考えているのではなく実際にそうしているような気になるものである。精神のこの欠点をわれわれは役立つものに変えることができないだろうか。*29
*29 I.O., VI, 2, 30.
「精神の欠点」と言われているように、実際には現前しないものを見せることは、通常であれば認識的な誤謬へとつながりうる。しかしながら修辞学にあっては、こうした欠点は役立つものへと転換することができる。そしてこのような転換の力能を備えた者こそ「エウパンタシオートス」と呼ばれる人々なのである。言うまでもなく彼らにとってパンタシアーとは、実在的な対象と紐づけられたものというより、幻覚や錯覚、夢想に起因するような実在性を持たないものである。クインティリアヌスがφαντασιαをvisumではなくあえてvisioと訳すとき、おおよそ以上のことが念頭にあったと言える*30。
*30 星野太が指摘するように、『弁論家の教育』におけるこうしたパンタシアーの位置づけの変化は、同時代に書かれた偽ロンギノスの『崇高論』にも共通して見られる。星野太『崇高の修辞学』、月曜社、2017年。
このようなキケロからの差異はまた、evidentiaという語の位置づけからも確認することができる。『アカデミカ』でキケロは、明証性(evidentia)と明晰さ(perspicuitas)を同義として扱っていた──「ギリシャ語のエナルゲイアは明晰さとか明証性と訳せるだろう」。ところがクインティリアヌスの場合、この両者は明確に区別されている。
私が陳述の規則の中で言及したエナルゲイアを、われわれは措辞(elocutio)のうちに置くべきである。なぜなら鮮明さ(evidentia)、または他の人々が呼ぶところでは呈示(repraesentatio)は明晰さ(perspicuitas)以上のものであり、後者は明白である(patet)だけだが、前者はある程度まで自らを見せている(ostendit)からである。話している事柄を明瞭に、あたかも眼に見えているかのように語ることは大きな美点である。*31
*31 I.O., VIII, 3, 61-62.
単に「明白である」こととしてのperspicuitasから「自らを見せている」こととしてのevidentiaを分け、もっぱら後者をενάργειαの訳語とするクインティリアヌスの意図はいまや明らかだろう。つまりここでのエナルゲイアとは、対象の実在性を条件とする哲学的なエナルゲイアではなく、むしろ不在の対象にイメージを与えるという修辞学的なそれなのである。こうした論の運びは、φαντασιαをvisioと翻訳していたこととも矛盾なく一致する。クインティリアヌスは、彼に先立つ哲学的なテクストで用いられていたενάργειαやφαντασιαという概念にわずかな変更を加えることで、それらを修辞学の領域にまで拡張しているのだ。
最後に、バルバラ・カッサンの見取り図に従ってここまでの議論を整理しておこう。彼女によれば、「視覚と結びつく哲学者の明証性(évidence)とは、真理と関わり、かつ必然的に真であるような自明の基準(index sui)である。そこにおいてエナルゲイアは、現れるがままに対象が存在するということを確証するために存在する」*32。このような哲学的なエナルゲイアはまた、誤りなく語るための厳密で哲学的な言語をめぐる問いと不可分に関わるという。なぜならば、「見たものを見たままに語るためには、最も控えめで、可能な限り適切で、言葉の厳密な意味で最も「現象に即した(phénoménologique)」語ることを発明しなければならない」*33からである。他方、修辞学的なエナルゲイアとは、言葉によって構築されたもの、ないしは言葉の効果である。それは、「視覚を前提としながらも、視覚の「かのように(comme si)」と、フィクションとしての視覚と結びついている。問題となるのは、眼前に彷彿とさせること、現前しているかのような幻想を与えることで視覚を構築することなのである」*34。さらにカッサンは、この二つのタイプのエナルゲイアの差異を次のように際立たせている。すなわち、「真理や実在と結びつく」哲学的なエナルゲイアは「言わないことで効力を発揮する」するのに対して、「「かのように」と結びつく」修辞学的なエナルゲイアは「語ることでしか効力を発揮しない」*35。見たものを見たままに語ることと、見えていないものをあたかも見えているかのように語ること──およそ正反対の事態がエナルゲイアという一語には集約されている。この意味においてエナルゲイアという概念は、単に視覚と言語の緊張関係のみならず、哲学と修辞学の、もっと言えば視覚と言語をめぐる哲学と修辞学の緊張関係を浮かび上がらせているのである。
*32 Barbara Cassin, « Procédures sophistiques de construire l’évidence », Carlos Lévy et Laurent Pernot (eds.), Dire l’évidence, op.cit., p.19.
*33 ibid.
*34 ibid, p.20.
*35 ibid, p.22.