研究ノート

「超スタジオ・システム的共闘」としての作曲家グループ──「3人の会」論の余白に

藤原征生

はじめに

本年(2019年)5月、新元号・令和を冠した時代が始まった。それに先立つ約3か月前、ある作曲家が没後30年を迎えた。その名は芥川也寸志。1925(大正14)年、芥川龍之介の三男として生まれ、戦時下に東京音楽学校に入学、陸軍軍楽隊での動員を経験したのち、戦後まもなく活動を始め、1989(平成元)年1月31日に死去。大正の終わりに生まれ平成の始まりに没した、まさしく昭和を代表する作曲家の一人である。

芥川は作曲活動にとどまらず、著作、TV・ラジオへの出演、音楽著作権運動への参画など数多くの分野で幅広い功績を遺したが、とりわけ本業たる音楽のフィールドにおいては、同じく東京音楽学校出身の團伊玖磨(1924-2001)・黛敏郎(1929-1997)とともに「3人の会」を結成したことが大きな功績として取り沙汰されてきた。本稿では、芥川が実質的なリーダーとしての役割を担った「3人の会」を、昭和を代表する娯楽・映画との関わりを軸にして捉え直したい。

「3人の会」

「3人の会」は、1953年に東京音楽学校出身の三人の作曲家、芥川也寸志・團伊玖磨・黛敏郎が結成したグループである。翌年1月に日比谷公会堂で第一回の作品発表会を開催して以降、1962年までに五回の作品発表会が彼らによって催された。芥川の《エローラ交響曲》、團の《シルクロード》、そして黛の《涅槃交響曲》など、それぞれの代表作となる意欲的作品が、これらの演奏会で初演された。有名作家の息子(芥川)や旧財閥総帥家の嫡男(團)など由緒ある出自を持ち、かつ揃ってスマートな出で立ちの三人が集まり、当時第一級の演奏会場で大編成の管弦楽作品を自ら指揮して作品発表会を開いたことは、楽壇にとどまらぬ大きな反響を呼び、音楽史上に「日本の音楽界に真の戦後を切り拓いた」*1という評価を得るに至った。

*1 片山杜秀『片山杜秀の本1 音盤考現学』(アルテスパブリッシング、2008年)、147。

しかし、従来の音楽研究において、「3人の会」については五回の作品発表会ばかりが取り沙汰されてきた。彼らの華々しい活動が戦後間もない社会に与えた衝撃と、そこから産み出された作品の重要性に鑑みればもっともなことである。一方、「3人の会」のメンバーはそれぞれ結成前から(そして会の活動が沈静化した後も)映画音楽に精力的に取り組んでおり、彼らの音楽活動の中で小さからぬ位置を占めているということは言うまでもない*2。先行研究において、彼らの映画音楽での活動が全く触れられてこなかったわけではないが、「彼らはオーケストラを雇う資金を映画音楽で稼ぎ出した」*3といった具合に、あくまでも芸術活動に従事するための方便として映画に手を染めたという論調で捉えられてきた。だが、彼らのフィルモグラフィを丹念に眺めると、三人が映画音楽において積極的に協働しているさまが浮かび上がる。彼らの活動をより克明に描き出すために、音楽研究が眼差しを注いでこなかった「3人の会」の映画音楽での仕事ぶりに目を向ける必要がある。

*2 それぞれが取り組んだ映画音楽の総本数は團で約75本、芥川で約100本、黛で約165本である。
*3 『日本の作曲20世紀』(音楽之友社、1999)、53。

「3人の会」と映画音楽

では、彼らは映画音楽とどのような関係を取り結んだのだろうか。

当事者である芥川によれば、「3人の会」は作品発表会を開くという経済的理由によって結成された*4。一人ではオーケストラを雇ったり大きな演奏会場を借りたりできないが、三人で分担すればどうにかなるというわけである。つまり「3人の会」とは、メンバー同士が特定の理念によって結びついているわけではなく、三人で演奏会を共催するという極めて実利的な理由によって立ち上げられた会であった。そしてこの実利性は、彼らの映画音楽での仕事にも影響を及ぼしている。結成直後の芥川の発言を引用する。

*4 「日本の作曲ゼミナール 芥川也寸志」(『音楽の世界』1977年6月号[音楽の世界社、1977年]、20-31)、24-25。

ぼく達の会は単なる研究発表団体というだけではなくて、細かい生活の上でもお互いに結びついていたいのです。外面的な例で言えば「君、今シンフォニーを書いているなら、その映画は俺が引受けてやるから、それを書けよ、今度は俺が何か書いている時は君頼むよ」という様にお互いに実生活の上でも結びついていたいのです。*5

*5 「座談会 新しい作曲グループ『3人の会』の発言」(『音楽芸術』12(2)[音楽之友社、1954年]、56-68)、57。

映画音楽の仕事をグループ内で積極的に分配しあってこなしていくというこの発言を裏付けるように、昭和20年代後半から昭和30年代後半にかけて、芥川・團・黛の三人が映画音楽の仕事を融通しあっているように見受けられる時期が確かに存在する。例えば、谷口千吉(1912-2007)のフィルモグラフィに注目すれば、1953年から1955年までの監督作品すべての音楽が「3人の会」のメンバーいずれかの手によって作曲されていることが分かる(表1)。

REPRE36研究ノート原稿_藤原_表1_キャプションなし.jpg

表1 1953年から1955年までの谷口千吉全監督作品

「3人の会」と映画監督との連携は他にも見出すことができ、例えば豊田四郎(1906-1977)の1953年から1964年にかけての監督作は、1960年以降はいくつかの例外を交えながらも、その大半を芥川と團が独占的に担当していることが見て取れる(表2)*6

*6 他にも市川崑や五所平之助の監督作品において同じような関係性が見出せるが、本稿においては紙面の都合上割愛する。

REPRE36研究ノート原稿_藤原_表2_キャプションなし.jpg

表2 1953年から1964年までの豊田四郎全監督作品(網掛けは「3人の会」以外の作曲家による作品)

さらに、記録映画『カラコルム』(1956年6月12日公開)では、音楽担当として團と黛の名前が併記されている(図1)。映画史上のみならず音楽史上においても、両者が共作したのは本作のみであり、その点で存在意義の大きなものであると言える。

カラコルムクレディット.jpg

図1 『カラコルム』(00:00:49*7

*7 文中のタイムコードは市販DVD(京都大学学術出版会、2010年)の再生時間に準拠する。

もっとも、本篇中のいくつかの楽曲には團の管弦楽曲《シルクロード》からの流用が見出せる。具体的には、オープニングやエンディングで演奏されるメイン・テーマが同組曲の第4曲〈行進〉の主題と同じであるだけでなく、第3曲〈舞踏〉の旋律が本篇中(00:04:53-00:08:08)に現れることも確認できる。ここからうかがい知れることは、團が作品の音楽設計の枠組みを手がけ、黛がそれを引き継ぎ完成させたという事実である。実際に、同作の編集を担当した伊勢長之助は、團の《シルクロード》を黛が編曲し、そこに黛による楽曲をいくつか加えて音楽を完成させたと発言しており*8、團本人も同内容の証言を残している*9。しかし、ここで問題なのは音楽が誰の手によって作曲されたのかということではない。むしろ、黛が同じ作曲グループのメンバーである團の演奏会用作品を用いて仕事を補佐したことこそ重要視すべきである。他の作曲家の作品から編曲して映画の音楽にあてがうという手法は、双方の作曲家が近しい関係性にあってこそ成功する試みだと言えるからだ。われわれは、芥川の言う「実際的な結びつき」がまさしく発揮されているさまをここで目の当たりすることができる。

*8 「『カラコルム』完成報告座談会」(『キネマ旬報』(145)[キネマ旬報社、1975年]、36-41)、41。
*9 秋山邦晴「日本映画音楽史を形作る人々 團伊玖磨 その3」(『キネマ旬報』(660)[キネマ旬報社、1975年]、130-135)、130-131。

芥川が証言するように、「3人の会」結成の契機は三人が映画音楽の仕事のため滞在していた京都で邂逅したことだった*10。そして、五回の演奏会ののち彼らが実質上活動を停止した1960年代半ばは、各メンバーが映画音楽から距離をとり始めた時期でもある。この符合は、彼らの活動の原動力の一つに映画音楽があったことを如実に示している。映画が隆盛を極めていた1950~1960年代の日本において、映画産業に携わる各スタッフが「五社(六社)協定」による専属制によって各社間の移動を制限されていたことは知られているが、そのような状況下でも音楽関係者はそこから比較的自由な「超スタジオ・システム的存在」だった*11。ここにおいて、わけても積極的に「超スタジオ・システム共闘」を実践していた「3人の会」が音楽史上のみならず映画史上にも重要性を持つことは言を俟たない。

*10 芥川也寸志『音楽の旅』(旺文社、1981年)、50。
*11 詳しくは拙稿「戦後日本映画産業と音楽家──芥川也寸志と「3人の会」の活動を例に」(『人間・環境学』(27)[京都大学大学院人間・環境学研究科、2018]、77-88)をご参照いただきたい。

おわりに

ここまでみてきたように、「3人の会」の活動の中には、映画音楽の仕事を三人の連携によってこなしていた形跡が確かに見受けられることから、このグループが映画音楽での連携を前提として結成されたものであるという推測が成り立つ。時に「散人の会」と揶揄されることのあった「3人の会」が作曲グループとしての団結力を最も強く発揮したのは、他でもない映画音楽での共同作業だったのである。今後、彼らを含む戦後日本の作曲家たちがどのように映画音楽に携わったかについて、映画研究・音楽研究の双方から、多角的視点で幅広く解明されることが望まれる。

「3人の会」は戦後の復興期とともに産声をあげ、平成に入ってすぐに芥川の死によってその歩みを止めた。それから30年、新たに始まった令和の時代で、彼らのように音楽・映画を股にかけ活躍するグループは産まれ得るだろうか。スタジオ・システムがもはや喪われた現在、それは愚問ですらあるかもしれない。

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年6月14日 発行