人形とポストヒューマン
今年2月に監訳書『ポストヒューマン──新しい人文学に向けて』(ロージ・ブライドッティ著、フィルムアート社)を上梓した。ポストヒューマンという主題について人文学の立場から論じるべきことを包括的にまとめた著作であり、また、フェミニズム思想家として著名な著者がこれまでに展開してきた思想をコンパクトにまとめた内容にもなっている。とりわけ私が気に入っているのは、本書がマルクス主義や実存主義を経てポスト構造主義にいたるまでの思想の流れを分かりやすく概観し、また、それらの思想が抱えている問題点を明確に指摘した上で、ポストヒューマンという主題をその先に人文学が向かうべき道筋としてはっきりと位置づけている点である(第1章)。
著者にとってポストヒューマンとは、高度の情報技術によって人間が有限性を超越する可能性を多幸症的に思い描くことでもなければ(レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』)、それとは逆に、先進的な生命科学による人体への介入が人間性を危機にさらしてしまう可能性に警告を発することでもない(フランシス・フクヤマ『人間の終わり』)。ブライドッティにとってポストヒューマンとは、人間という存在をこれまで規定してきた諸前提、とりわけ西洋・白人・男性中心的な人間観を厳しく批判するための概念であり、さらには、そうした諸前提がもはや保持しえず、また、保持するべきでもない現代のグローバルな地政学的状況のもと、わたしたちの存在のありかたを新たに描きなおすことに向けられた概念なのである。
その意味でポストヒューマンは、人文学、すなわち人間についての学を鍛えなおすという企図をもっており、このことを明確に打ち出した点に本書の重要な意義がある(特に第4章)*1。ポストヒューマンは、たとえるならば人間の姿を映し出す鏡のようなものとして機能する。その場合に、鏡に映し出された未来の人間の姿に幻惑されるのでも、そこに過去の理想像との乖離を認めて幻滅するのでもなく、その像を現在のものとしてしっかり見据えて襟を正すのが本書のスタンスだといっていいだろう。
*1 ブライドッティはこのテーマを下記の論文でさらに展開している。ロージ・ブライドッティ「批判的ポストヒューマニティーズのための理論的枠組み」、門林岳史・増田展大訳、『現代思想』2019年1月号、183-213頁。
さて、この鏡像としてポストヒューマンという着想を踏まえるならば、人形はすぐれてポストヒューマン的な形象ではないだろうか。あるいは、人形をただちにポストヒューマン的な存在として位置づけることに飛躍があるとしても、人形とポストヒューマンには、人間を映し出す鏡のようなものとして機能するという点において、相同的な関係性を見出すことができるのではないだろうか。
金森修は遺著『人形論』(平凡社、2018年)において、人形を〈亜人間〉的なものとして捉え、そこに人間未満であると同時に人間を超えていくような位相を認めた。金森は次のように述べる。
人形が人間世界に占める地位は、〈人間超え〉と〈人間未満〉との随時反転する上下運動の中で、ほんの一瞬安定化するだけの儚さを身に纏う。穢れを引き受ける代替物、巫女的・守護神的な媒介者、少女に愛玩される特権的玩具、片眼、片腕でも放置される倉庫のがらくた──そのいずれでもありうる人形は、人間存在の複雑さを同型的に体現する特殊な対象なのである。(211頁)
すなわち、人形とは、人間からわずかに逸脱しつつ、その逸脱においてこそ人間存在を映し出すような存在の様態なのである。それは、sub-human(人間未満)であるとともにsuper-human(人間超え)、post-humanであるとともにpre-human、あるいはa-humanでもex-humanでもありうるかもしれない。いずれにせよ、人間から逸脱するその契機において人間を映し出す、その構造において、人形をめぐる思考は、数々のポストヒューマン的思考と同じパターンを呈示する。金森は別の箇所で次のようにも述べている。
いま私の脳裏には動物やロボットを語るときの常套句が響いているが、ここでもその常套句を変奏させて、〈人形を考えることは人間を考えることに繫がる〉と述べても別にかまわない。(50頁)
金森は『人形論』に先立って、それぞれ動物と人造人間を主題とした二冊の小さな著作、『動物に魂はあるのか──生命を見つめる哲学』(中公新書、2012年)、『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、2010年)を著した。「〜を考えることは人間を考えることに繫がる」はたしかに常套句かもしれないが、私としてはむしろ、そこに常套句になることも辞さない一貫した思考を認めたい(ちなみに動物と機械はブライドッティにとってもすぐれてポストヒューマン的存在である[それぞれ第2章、第3章])*2。そこで以下に、金森の人形論にささやかなポストヒューマン的補遺を加えてみたい。
*2 さらに言えば、『ポストヒューマン』第4章では来たるべきポストヒューマニティーズをマッピングするうえで、人文学が、しばしば敵対的な関係をもつ自然科学と生産的な対話を築いていく必要性が論じられる。この点でも、科学認識論の研究者としての金森の著作『サイエンス・ウォーズ』(平凡社、初版2000年)との関連性が見出せるのだが、この点については本稿で十分に論じることができない。
金森は彼のいう〈人形ワールド〉を概念化するにあたって、人間の人形に対する三つの関わりかた、呪術・愛玩・鑑賞からなる三角形を基底平面として設定した。さらに金森は、「いずれもが人間の情念に関わる」(49頁)この三つの項目に先立って、人形が人形であるために欠かせない前提条件として、それが端的にモノとして存在するという事実を認める。このようにして、物質性という頂点を呪術・愛玩・鑑賞からなる三角形の上方に据えた〈人形三角錐〉が、人形ワールドをマッピングする空間としてできあがる。物質性は金森の図式において特別な位置づけを与えられる。なぜなら、人間が人形に情念を投影するとしても、人形はその投影像から常に逸脱し続ける、そうした逸脱の運動を根源において与えるのが人形の物質性だからであろう(ここにはすでに私の解釈が入っている)。とするならば私としては、呪術・愛玩・鑑賞の基底平面をはさんで物質性の極と相対する位置に、物質性の虚像として情念性ないし精神性の極を設けてみたい。いわば呪術・愛玩・鑑賞の三角形を鏡面と見立て、人形の物質性が鏡の向こう側に人間の精神性を映し出しながらも逸脱していくような動的な図式を描いてみたいのである。
もちろん、この即興的に作った図式が人形ワールド全体に対してどのような妥当性をもつか検証する力量は私にはないが、ひとつの作品を挙げて例証してみたい。是枝裕和監督の映画『空気人形』(2009年)である。主人公(ペ・ドゥナ)はいわゆるラブドールであるが、〈彼女〉はあるとき、人間のような心を持ってしまう。主人の留守の間にこっそり外出し、はてにはレンタルビデオ店でバイトまで始める彼女であるが、あるとき彼女はバイト中に、棚の突起に引っかけて自分の手首のあたりを破いてしまう。たちまち体内の空気が抜けてしぼんでいってしまう彼女。それに気づいたバイト先の先輩(彼女は彼に秘かに想いを寄せている)は事態を察して手首の傷をテープで留め、「見ないで」と恥ずかしそうに眼を背ける彼女をよそに、「空気を……栓はどこ?」と下腹部を露出させ、覆い被さってヘソのあたりの空気栓から自らの息を彼女の体内に吹き入れていく。あからさまな性行為のメタファーであり、生命の起源としての息(プネウマ)などとヤボな文献学的注釈をつけたくもなるところだろう。それはともかく、その日を境に彼女は空気ポンプを捨て、少しずつ体内から抜けていく空気を補填する日常のメンテナンスをやめるようになる。愛する人の息を他のもので代替することを拒んだ結果であり、そうして彼女は〈死〉を獲得するにいたる。
だが、こうして彼女がいよいよ人間らしくなる一方、この象徴的なシーン付近から映画のナラティヴは、彼女の周りの人間たちこそが人形のような存在であることを露呈しはじめる。彼女に向きあった人間たちは、「自分もまたあなたのようにからっぽの存在だ」と次々に吐露しだすのである(この言葉のツケを払って、彼女の愛を受けた男性は、文字どおり要らなくなった人形のようにゴミ捨て場に遺棄される)。
人形の物質性に人間たちは自らの情念を投影し、ひるがえってそこに自分たちの虚ろな実存を発見する。この反転構造が、この映画に明確なポストヒューマン的主題を与えている。つまるところ、ポストヒューマンを考えることは人間を考えることに繫がる。常套句にすぎないとはいえ、人文学的思考が粘り強く継続して取り組み続けなければいけない課題がそこにあることもたしかである。