食べたくなる本
「私たちは自分を支える日常のことをじつはほとんど知らない」(p.317)──。おそらく生はあまりに限られているので、たったの一杯、たったの一皿が内包する多様でさえも、真剣に向きあうなら私たちは眩暈を起こしてしまう。だから、私たちは仕入れたばかりの言葉で、あるいは一人ひとりの傾向や感覚の解像度にしたがって、果ては世界認識の方式にしたがって、多様を削減して圧縮する。この一杯、この一皿の香りや味わいについても、その背後に見え隠れする喜びや哀しみについても、ひいてはそこに潜む危機についても、私たちはなにも知らない。
三浦哲哉が私たちを誘うのは、食の経験を圧縮する「習慣」や「基準」を開き、経験の条件へと遡行し、組み替えることだ。留学と震災という二つの断絶によって習慣をリセットされた著者は、帰国後の空港で、震災後の福島で、日常を構成する食をとおして、自分がいまいる世界をまあたらしいものとして味わい直すことになる。
こうした習慣と基準の再構築は、もう少し控えめな仕方で、日々の食事をまかなう過程で、料理本がなしていることだ。「自分とはちがうべつの誰かの感性がきわめて具体的に綴られた痕跡」(p.9)としての料理本は、まるではじめてであるかのようにこの世界と出会い直し、味わい、習慣をいくばくか更新し、拡張することを可能にするのだから。
食を通じて、いまだ見ぬ、わたしたちの足元に迫るサスペンスへ──。こうして「料理本批評」という特異なジャンルが誕生する。
この料理本批評の書の思いがけない数頁は、『食べたくなる本』の著者がもはや我慢ならなくなり、レシピを考案してしまい、あるいはつくってしまう、その蛮行の瞬間にやってきた(pp.243-45)。ナポリタン、肉じゃが、うな重といったありふれた一皿をばらばらに解体して組み替え、再び一皿に盛りつける「再構築料理」は、まさしく本書の主題を本の外部で、しかし本編で、再演するものだろう。訪れたことさえないレストランのコンセプトを本から受けとることで提案されたこれらの皿は、伝統、資本、自然、家族といった料理が生まれる諸条件を切り離して差し出す〈料理本〉(pp.93-94)こそが可能にした〈料理本批評〉の実演であり、料理への深い愛と倒錯が引き起こした、〈料理本批評本〉における、喜びに満ちた場外乱闘なのである。
(山内朋樹)