美と破壊の女優 京マチ子
「千の顔をもつ国民女優、その本当の怖さ。痛快な映画研究の誕生!」
四方田犬彦が本書に寄せたこの帯文は、本書の魅力の核心を見事に言い当て、まさに名人芸の域に達している。ここには、千変万化する(千の顔をもつ英雄ならぬ)女優・京マチ子の役柄や演技、それらに伴う複数のイメージを歴史的に跡づけ、その全貌を浮かび上がらせんとする本書の野心的な試みと、その成功が巧みに表現されている。
また、京マチ子の出演作品を論じる際、女優論の枠を超えて本格的な作品論にまで著者の筆致が及ぶのは、まこと「痛快」きわまりない。著者が豊かに備えている批評的なセンスが随所で遺憾無く発揮されており、それが流麗な文体と相まって、(いい意味で)研究書らしからぬ圧倒的なリーダビリティを生み出している。映画の場面描写が抜群に巧く、そのうえ目の覚めるような分析や解釈が次々と繰り出されるのだから、論じられている作品を見直したくなること請け合いである。
さて、以下では本書の内容をもう少し詳しく説明しておこう(すでに本書に興味を惹かれた向きには、これより先に綴られていく駄文など相手にせず、ただちに本書を取り寄せ、読みはじめることを強く推奨する)。
国内にあってキャリア初期に「肉体派女優」「ヴァンプ女優」として強烈な存在感を放ち、人気を博した京マチ子は、主演した映画が国際映画祭で立て続けに受賞を果たしたことで「グランプリ女優」と呼ばれるようになる。ここで興味深いのは、「肉体派ヴァンプ女優」(第一章)としての顔と「国際派グランプリ女優」(第二章)としての顔を彼女が見事に使い分けていた点である。そのヴォリュームのある恵まれた肉体を活かして、戦後の自由で開放的なアプレ娘を演じた彼女は、一方では日本女性の古典的な幽玄美を体現して国際的な賞賛を浴びた。この二つの顔の使い分けは彼女のキャリアを単に時系列で区切るだけのものではない。それは、彼女が「国民女優」として内向きの顔と外向きの顔とで、それぞれ異なるイメージを求められたことに由来している(両極端なイメージが同時代の観客にすんなり受け入れられた背景に、京マチ子の「素のイメージ」があったことを、当時のファン言説を参照しながら明らかにしていく第三章の鮮やかで説得的な手つきには、『スター女優の文化社会学――戦後日本が欲した聖女と魔女』[作品社、2017年]を上梓した著者の面目躍如たるものがある)。
帯文で何気なく使われているかに見える「国民女優」という概念は、実は本書の議論の前提をなす重要なものである(序章)。国民女優とは、単に同時代に人気を博すだけでなく、国民国家のアイデンティティを引き受けるような存在でなければならない。京マチ子は、まさに「敗戦国日本の欲望を、そのまま引き受けて表象する媒体」(29頁)であった。国内向けには戦前・戦中を通して過剰に抑圧されてきた肉体の解放者として、国外向けには敗戦国民が自信とアイデンティティを取り戻すための代弁者として、彼女の存在が要請されたのである。一人の女性に国家のアイデンティティを背負わせてしまうことが恐るべき事態であるとすれば、京マチ子がそれを可能にするだけの力量を備えていたことにも我々は改めて畏怖しなければならないだろう。
京マチ子の身体を媒介して表象された日本イメージに関しては、彼女が出演した海外との合作映画を取り上げた第五章でも論じられている。評者がもっとも感銘を受けたチャプターのひとつであり、とりわけ『八月十五夜の茶屋』(ダニエル・マン監督、1956年)の分析を通して、沖縄、日本、アメリカの関係がどのような表象に仮託されているかを明らかにした議論には目から鱗が落ちる思いがした(ここで表象されているのが、あくまでアメリカ人から見たそれぞれのイメージだという点も重要である)。また、この映画によって、京マチ子のコメディエンヌとしての才能が発掘されたことに着目している点にも、著者の炯眼が表れている。
初期の代表作『羅生門』(黒澤明監督、1950年)ですでに実質的な一人四役をこなしていた京マチ子は、その「変身」のテーマを、キャリアを通じて繰り返し変奏していくことになる。出演作品ごとにまったく異なる役柄を披露するのはもちろん、同じ作品のなかで七変化を見せる「演技派女優」としての彼女の実態は、第七章に詳しい。大映のスター女優として、後進の若尾文子や山本富士子らと共演/競演していた時期の京マチ子については、第八章で論じられている(ここでは、小津安二郎が大映で撮った『浮草』[1959年]も取り上げられる)。終章では、それまで主題ごとに捉えてきた彼女のキャリアを時系列順に整理し直してくれる。さらには、京マチ子をマリリン・モンローに比すユニークで大胆な議論が展開されていく。この闊達自在な身振りを評者は是としたい。
京マチ子の訃報が飛び込んできたのは、この新刊紹介を準備している最中のことであった。錚々たる巨匠監督たちとともに日本映画の黄金時代を彩ってきた大女優の死は、たとえそれが95歳の大往生であったとしても惜しみてあまりあるものだ。だが、その前に本書が世に出ていたことは我々にとって僥倖だったと思う。本人の死後も、その映像は生き続ける(そのような事態を指して映画と幽霊の親和性の高さを指摘したのも四方田犬彦だった)。本書は、京マチ子の出演作品と出会い直すための最良のガイドであり、彼女の記憶を永く後世に引き継ぐために欠かすことのできない一冊となるだろう。
(伊藤弘了)