スクリーン・スタディーズ デジタル時代の映像/メディア経験
本書は、デジタル以降の変化に対応した映像研究、メディア研究の更新を目指した416ページ、全16章の論集である。書棚でもはっきりと確認できる分厚さと重量感は、もしかすると気軽に手に取り難いような印象を抱かせるかもしれない。しかし各論考は、目次を一読していただければ分かるように、対象・アプローチともにきわめて多彩で、歴史から現在まで、理論的なパースペクティヴの更新から経験的な調査に開かれた論考まで、これまで映像研究、視覚文化論、メディア研究、文化研究、イメージ学等の領域に関心を持ってきた読者であれば、様々な入り口から楽しめる内容になっていることと思う。
振り返ってみると、2007年の発売当初、電話と音楽再生装置とインターネットを統合した「電話の再発明」と呼ばれたiPhoneが、現在までにデバイスと一体化したスクリーンとカメラ機能を中心にした映像メディアと化していったのが象徴的で、あくまで「かける」ものであった初期の携帯電話に対し、いつの間にか「ケータイを見る」「スマホを見る」という言い方が定着していった。2000年代半ばから現在に至るメディアの変化は、デジタル化した諸メディアが統合していく段階から、統合されたメディアの行き着く先が情報の提示と操作を可能にするスクリーンへと一元化されていく過程であったと言えるかもしれない。これはしたがって、本書で繰り返し取り上げられているように、いわゆる映像文化の領域に限定されるような変化ではない。
デジタル以降のメディア研究において、たとえば『ニューメディアの言語』で示されたレフ・マノヴィッチの有名なテーゼ、「キノ=アイ」から「キノ=ブラッシュ」へ、あるいは「デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである」は、あくまでデジタル化に伴うイメージの変化を端的に要約したものであった。しかしながら、デジタル化した情報が流通するためのインフラのような存在となったスクリーンと映像は、空間に遍在し、携帯され、多様な形態をとることによって、様々な領域で文化の生産・流通・消費の各段階になし崩し的な影響を与えつつある。
したがって本書では、一方でスクリーンの変化に伴うイメージやその分析の方法の変容を取り上げつつ、他方でスクリーンによる空間の編成やイベントの構造の変化、スクリーンの物質性やその形態の問題、観客の移動性や受容の局面へのアプローチ、流通の構造やアーカイブの機能の問題、それらが可能にしたことや覆い隠すものの存在に繰り返し焦点が当てられる。結果として本書は、「スクリーン」や「映像」あるいは「メディア」と呼ばれてきたものの見方それ自体を、今までとはやや異なった形に変えてくれるだろう。本書がデジタル以降の映像研究を標榜するだけでなく、広範な映像史・メディア史の読み直しを含んでいるのは、それらが単に過去の研究ではなく、現在的な状況における歴史記述の再編でもあるからである。
本書で示されている方向性は、必ずしも統一的なものではなく、またより明確な道具立てが揃うまでの過渡的なものと言えるかもしれない。しかしながら、この変わりつつある状況を記述しようと試みるならば、もはや出来合いの大文字の理論などなく、それぞれの領域で経験的な研究を積み上げ、歴史を記述し、方法をより適合的なものへと組み替えていく作業を積み重ねていくより他ない。本書を読み終わった時に読者が、今までとは異なった地図を手にし(それは一挙に眺望を与えるような類のものではないかもしれないが)、願わくばその地点から、過去と現在とあるいはその先の変動ついて、別様な記述が始まることを期待している。
(大久保遼)