国際シンポジウム ピエール・パシェまたは自伝的エッセー・今日一人称で書くことの意味
日時:2018年10月27日(土)14:00~18:00
場所:明治大学駿河台キャンパス・リバティータワー7F 1074教室
使用言語:フランス語(通訳あり)
聴講無料・予約不要
登壇者:マリエル・マセ(フランス国立社会科学高等研究院)、ブランディーヌ・リンケル(作家)、
森元庸介(東京大学)、安原伸一朗(日本大学)、ローラン・ジェニー(ジュネーヴ大学名誉教授[代理人による発表])
司会:根本美作子
パリ高等社会科学研究院教員マリエル・マセ氏と作家のブランディーヌ・リンケルさんを招聘し、ジュネーヴ大学名誉教授ロラン・ジェニー氏に寄稿参加してもらい、10月27日に明治大学でピエール・パシェをめぐる国際シンポジウムを開催した。日本側からは東京大学の森元庸介氏と、日本大学の安原伸一朗氏が参加、私が司会を勤めた。
日本においてピエール・パシェに関するシンポジウムが開催されるのはこれが二回目(一回目はパシェの中国に関する作品、『引きつった魂』を中心に、アジアと旅する個人をテーマに同じく明治大学で2017年1月に開催)だが、今回は、パシェの作品に共通した形式であるエッセーというジャンルを出発点に、現代における一人称文学の可能性を視野に入れてパシェの作品について各人に論じてもらった。
共通のテーマとして筆者が参加者にお願いしていて問題意識は、自伝的エッセーが文学という制度の民主化を担っているのではないかという考えであった。これを受けてジェニー氏が、「自伝的エッセーの特徴の一つは、自身の個人的なことを起点に思考を発動させながら、自分自身だけではなく、読者の思考も発動させる」と語ったのに対し、安原氏はさらに「パシェの述べる“親密さ/内奥”が、逆説的ながらも、公共空間に開かれようとするものにほかならない」とし、その「言語をめぐる考察にこそ、パシェの内省的な著作が開かれている鍵がある」と指摘。森元氏は「注意」というパシェのキーワードに着目し、「注意」に対する逆説的な「注意」を促しつつ、パシェのエッセーの核心にある受動と能動の複雑な交感を丁寧に紐解いた。
リンケル氏はそのパシェの「注意」が日常へと向かう様に言及し、様々な日常的事象に等しく注意を向けるところにパシェのエッセーの馴染みやすさ、気安さを見出し、彼を、自分と同様、ミュージック・ホールのアーチストになぞらえた。そしてミュージック・ホールのアーチストが、自らの弱みを意識しながら、自らの孤独を通して、人々の孤独に触れようとする様を語り、パシェのエッセーが制度としての文学から逸脱する様を描いた。
マセ氏は、パシェの論文「死者に語りかけるエレクトラ」を丁寧に読みこみながら、エッセーという形が、パシェにとって「ものごとを精確に言う努力」を意味したことを論じた。死者に語りかけるということは、彼らの非存在に耳を傾けることを意味する。死後に何らかの生の続きがあることを否定し、あくまでも死者の非存在を見据えることの狂気を、パシェの論文はその不撓不屈の注意力(attention)で支えようとする。マセ氏はこの注意力の活動を可能にするものこそエッセーの力学であるとし、パシェが死者の無に注意を払うことができるのも、エッセーの「ものごとを精確に言」おうとする姿勢に多くを負っていることを指摘した。最後にパシェの、「死者の現実に耳を傾けさせるこの動きなしには、わたしたちは一つの部屋から別の部屋にいる者に語りかけることもできないだろう、生きている者同士で」という言葉を取り上げ、死者の現実が、この世を成立させているさまを明らかにして、マセ氏は声をもたない者たちに耳を傾けることの意味を改めて強調した。
【関連講演】2018年10月26日 マリエル・マセ講演『人類学をひらく 詩がおしえてくれること』(明治大学)
Philippe DescolaやEduardo Kohn, Anna Tsingといった新しい人類学に触発されつつ、世界が現在直面している環境問題と難民問題を見据えて、マセ氏は詩に、人類学的な「開け」を読み取る。これは共生の思想を、世界を構成するものすべてに敷衍しようとする非常に画期的、且つ刺激的な試みで、多くの聴講者の関心を集めた。石となること、あるいは難民の生命を飲み込んでしまう海に耳を傾ける文学・芸術における最近の試みを紹介しながら、マセ氏は詩を中心に、文学が声のないものに声を与える様を伝え、新しい共生の理念を説いた。
(根本美作子)