「見出された色」のありか ──ブリンキー・パレルモの「メタル・ピクチャー」における色彩をめぐって
1960年代より木材や布など日常的な素材を用いた立体や抽象絵画を手がけ、ヨーゼフ・ボイスの「愛弟子」としても知られたブリンキー・パレルモ(1943-1977年)は、1973年に西ドイツを離れ、趣味で聴いていたジャズ音楽の中心地でもあったニューヨークへと活動の場を移した。3年間を過ごすこととなったこの場所で彼は金属という新たな素材に集中的に取り組む。「メタル・ピクチャー」(“Metalbilder”、“Metal Picture”)と呼ばれるそれらは、アクリル絵具で画面を分割するように塗り分けたアルミ製の板を3〜4枚ほど、横一列に並べた作品群である【図1】【図2】。パレルモはキュレーターのイーヴリン・ヴァイスに宛てた手紙の中で、アルミのパネルを使うことで、キャンバスと木枠を用いた場合とは全く異なる「イメージ」が作れるようになったと綴り、絵の具を塗り重ねて色を調整することで、「構想段階では想像すらできなかったような」「色の配列」や「色の響き合い」(Farbklang)*1を生み出すことができるようになったと伝えている。
*1 Dieter Schwarz, “To the People of New York City: A Multipart Adress”, To the People of New York City, ed. Lynne Cooke, Karen Kelly, Barbara Schröder, New York: Dia Art Foundation, Düsseldorf: Richter Verlag, 2009, p. 147. 原典はPalermo(São Paulo: XIII. Bienal de São Paulo, 1975, n.p.)内で引用された1975年8月12日の書簡。
パレルモはドイツでの活動時期からすでに、服飾用の単色の布を2〜3枚縫い合わせて抽象絵画のように構成した「布絵画」シリーズなどで色彩の探求を重ね、「色の達人」とも言われていた。では、金属という素材によって実現した「イメージ」や「色の響き合い」とは何を指すのだろうか。本稿では、作風が大きく変化した渡米期の作品における色彩について、主に同時代のアメリカ美術との関係性から考察を試みたい。
パレルモに関する言説については、ニューヨークでの活動を終え西ドイツへ戻った矢先に、1977年に旅行で訪れたモルディブ諸島にて33歳でその生涯を閉じてしまったという伝記的事実も手伝って、神秘化されてきた部分があるとされる。作品の繊細で詩的、直感的な要素や、パレルモ自身が作品に関して寡黙であったという側面も、パレルモを論じようとする者たちに作品を既存の理論によって「分析」する困難さを突きつけてきた。とはいえ2000年代以降、戦後の欧米における前衛美術に対する見直しの流れの中で、またモダニズム絵画以降の抽象画の文脈においてパレルモ再評価の動きが活発となってきている。以下では、未だ日本で言及される機会の少ないパレルモについて紹介しながら、彼の色彩を考察するための手がかりとして「メタル・ピクチャー」を取り上げる。
パレルモは、第二次大戦下のドイツ、ライプツィヒでペーター・シュヴァルツェとして生まれた。翌年に双子の兄弟とともにハイスターカンプ夫妻の養子となったのち、5歳の時に一家は旧東独のライプツィヒから旧西独のミュンスターへ移住する。同地の工芸学校で学んだものの1962年にデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学、2年後にはボイスのクラスに移り、ゲルハルト・リヒターやイミ・クネーベル、ジグマー・ポルケらと出会う。実はブリンキー・パレルモという名前は、イタリアのボクシング選手のマネージャーの名前にちなんで自ら名乗り始めたのだという。三角形や矩形、棒状の木材にキャンバス布を貼り彩色したオブジェや、展示室の壁を単色で塗ったインスタレーションを中心に、ハイナー・フリードリヒ画廊をはじめとするドイツ各都市での個展や第5回ドクメンタへの参加などで知られるようになる。既製の布や錆止め用の塗料といった素材・材料、展示空間に介入する表現には、1960年代のデュッセルドルフで盛んであったフルクサスのほか、同地で徐々に紹介されつつあったコンセプチュアル・アートなどの欧米の同美術との共時性が見られる。パレルモはニューヨークに住む以前にすでに2度アメリカを訪れており、マイケル・アッシャーらカリフォルニアのアーティストたちや、デュッセルドルフでも個展を行ったロバート・ライマンやダン・フレイヴィンとの親交を通して、すでにアメリカの新たな潮流の作家たちと美術的関心を共有していたという点は見逃せない。
1974年から本格的に制作された「メタル・ピクチャー」は、パレルモの作品の中で最も色の組み合わせが豊富となった作品群である。作品の素材を科学調査によって分析したピア・ゴットシャラーによれば、支持体となるアルミ板には反射性の高い白の絵具が下地として2種類塗られ、その上に、最も多い部分で23層もの異なる絵具が塗り重ねられていたという*2。つまり、パレルモは構想段階で配色を決めておきつつ、最終的な色にたどり着くまで何度も塗り重ねながら調整していたことがわかる。その結果、絵具が支持体に染み込んでしまうことなく鮮やかな発色が可能となり、【図1】の《コニー・アイランドⅡ》(Coney Island Ⅱ)(1975年)のように、ミントグリーンに近い水色と赤といった補色の組み合わせや、ピンクと濃いブルーの隣に鮮やかな赤色を置くという、大胆かつ全体としては調和のとれた配色が完成したのである。
*2 Pia Gottschaller, “The Diversity of One”, To the People of New York City, op. cit., pp.133-143.
それでは、この独特な色彩の源泉はどこにあったのだろうか。例えば上記の作品はコニー・アイランドで見かけた小屋から着想を得たとされる*3。また《ウースター通り》(Wooster Street)1975年)という作品の場合は、フリードリヒ画廊が面していたソーホーのウースター通りに、正面がこの作品と同じ緑色に塗られた店舗があったことがわかっている*4。このように「メタル・ピクチャー」では、既存の色彩、いわば「ファウンド・カラー」ともいうべき色が用いられている。それ以前にもパレルモはしばしば作品の展示場所と関連のある色、あるいは建築物の色を援用しており、例えば1971年にミュンヘンのフリードリヒ画廊で行なったインスタレーションでは、ミュンヘンの新古典様式の建物に使われてきた色と同じイエロー・オーカーで展示室の壁を彩色していた*5。こうしたインスタレーションは、外で「見つけ出した」色彩を展示室という新たな場所に配置し直すことで、人々が思いもかけなかった新鮮な印象がもたらされるが、「メタル・ピクチャー」では、パネルという持ち運び可能な形態によってさらに即興性が加わっているといえよう。
*3 Christine Mehring, Blinky Palermo: Abstraction of an Era, Yale University Press, 2008. p. 157.
*4 ヘレン・ウィンクラーの発言を参照した。“New York Conversations about Blinky”, Palermo,eds., Susanne Küper, Ulrike Groos, Vanessa Joan Müller, Städtische Kunsthalle Düsseldorf, Kunstverein für die Rheinlande und Westfalen (exh., cat.) Köln: DuMont Buchverlag, 2007, p. 133.
*5 Mehring,op. cit., pp. 129-130. 展覧会名はWandmalerei auf Gegenüberliegenden Wänden(1971年)。
一方「メタル・ピクチャー」には絵具の混色による色彩だけでなく、赤や青、黄、黒、白という絵具チューブそのままの原色も多用されている。これらは、パレルモが芸術アカデミー在学時から強い関心を寄せていたモンドリアンやマレーヴィチなど20世紀初頭の抽象絵画を象徴する色彩でもあった*6が、ここでは、パレルモが赤黄黒の3色を、光という要素と結びつけて考えていたことに注目したい。パレルモは1976年にヴェネチア・ビエンナーレのイタリア館で《四方位》(Himmelsrichtungen)というインスタレーションを発表した。これは赤、黒、黄、白に彩色した4枚のガラス板を展示室の四隅の上方に、それぞれ部屋の角に対して斜め向きになるように梁で固定した作品である。題名が指す通り、4色はそれぞれ東西南北の方角に設置され、鑑賞者は自身の立つ方角を意識するとともに、ガラスの表面が展示室に差し込む光を反射することによって、太陽の軌道や季節の循環をも連想する*7。
*6 遺作となった《ニューヨーク・シティーの人々へ》(To the People of New York City)(1977年)に用いられたカドミウム・レッド、カドミウム・イエロー、黒という3色に関しては様々な解釈がなされてきたが、稿を改めて検証したい。
*7 このインスタレーションについては次を参照した。Lynne Cooke, “An-Other Alexandrian”, To the People of New York City, op. cit., pp. 172-174.
色と光との関係性に対するこうしたパレルモの捉え方が、「メタル・ピクチャー」でどのように表れているかを考える上で、1974年に彼がアメリカ南西部を旅する中で訪れたロスコ・チャペル(テキサス、1971年完成)は重要である。ロスコ・チャペルは八角形の建物で、内部には抽象表現主義の画家マーク・ロスコによる、淡い黒を基調とした絵画が見る者をぐるりと囲むように配置されている。天窓から差し込む光が時間によって刻々と移り変わる中で、訪問者は、静謐な空気を湛えたチャペルの中で作品に向き合うこととなる。パレルモがロスコ・チャペルを訪問したのは夕刻であったが、夜明けから朝の光の変化を体験したいと考え、翌朝の夜明け前にも訪れたという。この旅行の直後に制作を始めた連作《一日の時間Ⅰ〜Ⅵ》(Times of the DayⅠ〜Ⅵ)以降、パレルモは光と時間というテーマをさらに集中的に探求していく。
《一日の時間Ⅲ》【図2】では、最も左のパネルに薄い色、最も右のパネルに濃い色が置かれ、朝から夜へという一日の循環を思わせる。ただしロスコ・チャペルが鑑賞者の身体を包み込むような崇高さを与えるとすれば、「メタル・ピクチャー」では、厚塗りされた絵具の物質性によって色彩は明示的、直截的な印象を与える。まるでペンキ職人の仕事のようなテクスチャーは、超越性よりもむしろ制作のプロセスを想像させるために、親密さをもたらす。またパネルと壁の間に1.5cmほどの厚さの金属板が取り付けられ、作品は壁から浮いているかのような「軽やかさ」*8すらまとっているのである。こうして、パレルモが「見つけ出した」色は、金属および絵具という確固とした素材に搭載されながらも、他方で即興性、瞬間性という要素と結びついていく。
*8 Gottschaller, op. cit., p.136.
画家のデイヴィッド・リードは、1974年に画廊で「メタル・ピクチャー」を初めて見た際のことを述懐し、金属に絵具を塗った表面が「あまりに乱雑、あまりに粗野」*9であることに当惑したものの、パレルモの作品の理解を深めていく中でパレルモが当時誰よりも新しい取り組みを行っていることに気がついたと述べている。リードは《一日の時間》について、この作品における色彩によって、時の移ろいとともに光が変化すること、作品を見る角度によって色が微細に変化することが示された、つまり「色彩が光になった」*10と書いている。このように、「メタル・ピクチャー」は、決して色彩そのものが非物質的な自律へと向かうのではなく、光や周囲の環境との呼応によって、絶えずうつろいゆく「呼吸」を感じさせるのである。
*9 David Reed, “Exchange”,To the People of New York City, op. cit., pp.173-174
*10 David Reed, “After Palermo”,Palermo, op. cit., p.173.
岡添瑠子(早稲田大学/秋田公立美術大学)