シンポジウム ポストトゥルースの表象と政治
日時:17:00 - 18:40
場所:山形大学小白川キャンパス 人文社会科学部1号館 301講義室
- 再見真実──中国インディペンデント・ドキュメンタリーにおける歴史という被写体/秋山珠子(立教大学)
- 「ポストトゥルース」の位相──虚構と主体の縫合を問う/大橋完太郎(神戸大学)
- SEAとポストトゥルース──その共犯性と攪乱/竹田恵子(東京大学)
司会:柿並良佑(山形大学)
大橋完太郎はポストトゥルースの事象的定義を概観した。ポストトゥルース(post-truth)は、OEDのWord of the Year 2016に輝いた単語だが「公共的な意見を形成するうえで、客観的事実が情動や個人的心情への訴えよりも影響を持たないような状況を意味する、または説明する」と定義されている。「ポスト」とは、単なる時間的な後続性ではなく、ある特定の概念が重要でなくなった、あるいは今日的意義を持たなくなった、という含意がある。
ポストトゥルースの位相のひとつめは現実と虚構との関係である。例えばアリストテレス『詩学』において虚構作品における「真実らしさ」には価値があるとされている。しかしそれは「虚構=遊び」は共通感覚だと認めたうえでの話である。近年の諸研究においても虚構が現実を食い荒らすという認識は避けられている。しかし虚構は自らがフィクションであると主張することで自らの暴力性を隠蔽できる側面もあることが確認された。
もうひとつの位相は、ポストヒストリーとしてのポストトゥルースである。ポストモダン的相対主義に陥り、歴史が単なる言説のパワーゲームに陥る可能性がある時代において、真理性を担保する場はどのようになっているのか、また、従来までの歴史学的根拠はどのようになるのだろうか、という疑問が残る。
政治哲学者のMyriam Revault d’ Allonesは論文『政治的表象=代議制の諸矛盾』(2003)にてrepresentationの3つの意味を1)抽象的な意味を伝える形象・アレゴリー・エンブレム2)不在なものを強調して再現前化すること3)誰かの代理として行動すること、としている。これらの「表象概念の厚み」を知ることで表象/代議制の危機を脱することができるのではないか。またポストトゥルースにおいて問題となっている「情動」においてもいくつかの抵抗理念が示された。感情のパフォーマンスが信頼のインデックスとなる状況において、例えばブライアン・マッスミはemotion/affectの切り分けを提示し、スピノザは情動の再知性化を試みた。
山形国際ドキュメンタリー映画祭に長年関わってきた秋山珠子は、中国インディペンデント・ドキュメンタリーにおける歴史的「真実」がどのように扱われてきたか事例をもとにした発表を行った。インディペンデント・ドキュメンタリーとは、国の検閲を通すことなく主に個人によって制作されたドキュメンタリー作品である。文化大革命以来、社会的モビリティが高まり、最初のインディペンデント・ドキュメンタリーが誕生したのは1990年である。以来、とりわけ2000年前後に中国でデジタル機材が普及しはじめると、より多くのインディペンデント・ドキュメンタリーが制作されることになり、各国の映画祭に出品されるようになっていく。こうした作品群において、とりわけ中国現代史は主要な被写体でありつづけてきた。3名の作家の作品を通して歴史という被写体が、どのように扱われ、中国における「真実」がどのように扱われてきたのかという事例を提供した。
呉文光監督は《私の紅衛兵時代》において、紅衛兵をいわば「普通の人」として描き評価を受けたが、後にこれらは個別の主観的事実に過ぎないとし自ら批判するようになっていく。そして「メモリー・プロジェクト」を若い世代と立ち上げ寄付を募り、大飢餓時に亡くなった者の墓をつくる。しかしその墓に葬られている人々の碑においては生年や姓・名が不明であるといったように、真実と虚構の往還が見て取れる。王兵監督の《鳳鳴 中国の記憶》は1950年代以降の中国で起きた反右派闘争や文化大革命の粛正運動で数々の迫害を受けた老女が自分の人生をひたすら3時間語るという手法を取り、観客が各々、そのストーリーを想像できるようになっている。胡傑監督《林昭のたましいを探して》では、反右派運動で投獄され死刑となった林昭の遺髪や、自らの血を使った血書など「生々しい」現実を想起させる手法を取っている。
竹田恵子は、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下SEAと表記)とポストトゥルースの関係性について、複数の視点から、考察を行った。SEAとは「参加型アート」「ソーシャル・プラクティス」「アート・プロジェクト」等呼称や定義が定まっているとはいえない比較的新しい概念だが、ニコラ・ブリオー『関係性の美学』(1998)を契機として、その前後に言説が拡大する形で、現在盛んに議論がなされている。パブロ・エルゲラは、SEAの定義のひとつとして社会的政治的な動機からはじまっていたとしても、象徴的・隠喩的のみ社会問題を扱う芸術はSEAではないとしている。このように、SEAにおいてはアクチュアルな諸問題に関与することが多かれ少なかれ求められることであろう。
もちろん、芸術における「真実」は科学のような普遍の真実ではなく、ランシエールが述べるように「政治的なものに対する芸術の関係は、虚構から政治的なものへの移行ではなく、虚構を算出する二つの方法の関係に等しい」(2008=2013)のである。現在の政治の状況を鑑みると、芸術と同様、「虚構/真実」のレベルをどのように扱うのかというその技法が、政治と芸術に共通して見られるように思われる。
ポストトゥルースをめぐる①政治的・技術的状況と、②アート界における状況を表として提示しまとめると、80年代最後から90年代以降、①の状況が推し進められるにつれ、②はより「真実」のほうへと向かっているように思われる。象徴的な事例として、世界中のNGOや国連に依頼を受けて、正確な爆撃の被害、環境破壊の事実を測定する集団「フォレンジック・アーキテクチャー」(ターナー賞2018ノミネート)を紹介した。
しかしSEAの問題として、アクチュアルな出来事を扱っていたとしてもビデオや写真などのメディア媒介して紹介されるため、直接的にそのアクチュアリティに触れることができない点、アイロニカルに社会問題を提示する作品は、SNS時代における今日ではその受容のされ方において、もはや抵抗たり得る力を喪い差別構造を補完する可能性がある点を指摘した。
竹田恵子(東京大学)
ソーシャルメディアを通じた言説の氾濫や公文書に対する扱いの問題などに見られるように、真実をめぐる体制が昨今大きく変化しようとしている。資料・証言を通じて検証される歴史的真理が相対化される体制のもとで、虚偽と真理、空想と現実、あるいは虚構と事実といった従来までの二項対立は揺るがされている。こういった状況において、かつて真理の似姿として考えられていた「表象/代理/代議制」はどのようなものとして考えられることになるのだろうか? 理論的・実践的な諸分野からの考察を通じて、ポストトゥルース状況下における芸術=政治のあり方を検討したい。