第13回研究発表集会報告

関連企画 バザン・レリス・闘牛──映画『闘牛』の上映とワークショップ

報告:東志保

日時:2018年11月11日(日)10:00-14:30
場所:人文社会科学部棟1号館3階301講義室

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*プログラム

10:00 上映前挨拶(大久保清朗)
10:05-11:20 映画『闘牛』上映
11:30-12:00 映画解説 谷昌親「映画的生成変化としての闘牛──映画『闘牛』をめぐるA.M.P.M」
13:00-14:00 ワークショップ発表

  •  大久保清朗「劇場としてのドキュメンタリー」
  •  千葉文夫「ミシェル・レリスによる闘牛技、1937-51年」
  •  角井誠 「「存在論的猥褻さ」をめぐって──アンドレ・バザンにおける死の表象」

14:00-14:30 ディスカッション&質疑応答

*参加無料・事前予約不要
*問い合わせ先:アンドレ・バザン研究会(cahiersandrebazin@gmail.com
アンドレ・バザン研究会ブログ

主催:アンドレ・バザン研究会
共催:表象文化論学会、山形大学人文社会科学部附属映像文化研究所


2018年11月11日、アンドレ・バザンの命日にあたる日に、本ワークショップは開催された。まず、アンドレ・バザン研究会主催の大久保清朗氏の挨拶に続いて『闘牛』が上映された。その後、谷昌親氏による作品解説、大久保清朗氏、千葉文夫氏、角井誠氏によるワークショップの報告、更に登壇者全員によるディスカッションが行われた。

谷昌親氏による作品解説「映画的生成変化としての闘牛──映画『闘牛』をめぐるA.M.P.M」では、『闘牛』に関わる四人の重要人物──監督のピエール・ブロンベルジェ、共同監督で編集を手がけたミリアム・ボルソツキ、ナレーションを執筆したミシェル・レリス、「すべての午後の死」という題で批評を著したアンドレ・バザン──の関係性に着目した。

『闘牛』は、ブロンベルジェとミリアムの共同作業によって生み出された作品であるが、すでにふたりは、ニコル・ヴェドレスの『パリ1900年』で、モンタージュのみで構成された映画を完成させており、『闘牛』もその延長線上で作られた映画といえる。その『パリ1900年』で、既に、ミリアムのモンタージュ技術を高く評価していたバザンは、『闘牛』をデクパージュによる映画と美学的に同時代にある「ネオ・モンタージュ」の映画として位置づけたが、それは、完成美に亀裂が入る「つなぎ間違い」的なものである。その典型的な例が『闘牛』の反復や静止によって特徴付けられたモンタージュである。更に、本来は繰り返せない不可逆性の死が、反復として表される『闘牛』は、時間を客観的な時間ではなく、ベルグソン的な「持続」としてとらえたバザンのprésence(存在)についての考えと共鳴する。ここに、野性的で意表を突くものとしてのprésenceについて考えていたレリスと繋がる可能性を提示した。

大久保氏の報告、「劇場としてのドキュメンタリー」では、バザンにとっての映画における死の問題を、演劇とドキュメンタリーの関係性から論じたものであった。

『闘牛』では、一回しか起こらない出来事を記録するドキュメンタリーと、反復され上演される演劇という、一見相反する要素が共存しているが、それは、闘牛の儀礼的性質を強調し、映画を一種の通過儀礼として構想したブロンベルジェの考えと対応するものである。実際、バザンも、闘牛を演劇に属するものと述べており、現実に起こる死ではなく「形而上的な核である死」に魅了されていた。だからこそ、死の一回性を冒涜した、共産党スパイの処刑をとらえた上海のニュース映画を「猥褻」と否定するのである。しかし、その一方で、一回性の消失を肯定的にとらえている側面もあり、このことがバザンにとっての映画における死の問題を複雑にしている。これは、バザンと同様に映画の時間再現性に注目した日本の美学者、中井正一が見いだした、歴史の「聖なる一回性」を突き崩すフィルムの可能性へと接続されうるものと論じた。

千葉氏の報告、「ミシェル・レリスによる闘牛技、1937−51年」では、レリスの闘牛についてのテクストについて特化して議論が進められた。

レリスは、1937、38年の間に、闘牛について集中的に書いているが、1951年の『闘牛』のナレーションとは、明らかに趣を異にするものである。1930年代のレリスによる闘牛についてのテクストは、闘牛士の名前は一切出てこず、現場の感覚が薄いものであった。それはむしろ、アンドレ・マッソン、ジョルジュ・バタイユ、パブロ・ピカソなどの仕事に対抗するように出来ていた。そのことは、1946年版の『成熟の年齢』で、ルクレティアとユディトの絵画を見開きに使うことで、サド的な要素とマゾ的な要素が合わさったエロティシズムを表現し、バタイユに献辞を捧げていることからも明らかであろう。そして、レリスは、マッチョ的な闘牛の例外的な瞬間に注目する。ピカソが、レリスに対して殺される牡牛の方だと言及しているように、レリスのテクストの特徴は、牛であれ、闘牛士であれ、傷を受けて死に至る瞬間への同化である。

角井氏の報告、「「存在論的猥褻さ」をめぐってーアンドレ・バザンにおける死の表象」では、バザンの映画における死の表象の問題を中心に据えたものであった。

「すべての午後の死」が、どこかちぐはぐな印象を与えるテクストなのは、この批評が単にふたつのテクストの組み合わせから成るものというだけではない。上海のニュース映画の処刑映像を批判しつつ、死が反復的に表される『闘牛』を讃えることは可能なのか、という疑問を残すものだからである。バザンは、ベルグソン的な「持続」を「持続」のなかで複製し、過ぎ去った出来事を「再=現前化」することを映画の特質と考えていたが、それゆえに、死と性行為という特異な瞬間を普通の瞬間として反復する、耐え難いイメージをもたらしてしまう。「すべての午後の死」では、その問題が語られた後に、突然『闘牛』に戻ることで死の表象は肯定される。それは、バザンのなかでは、アウラの保存と破壊という映画のふたつの側面が分ちがたく結びついていたからであり、だからこそ『闘牛』について語るには、処刑のニュース映画についても語らざるを得なかったのではないかと指摘した。

ディスカッションでは、バザンが取り憑かれていた死の問題について、登壇者それぞれからコメントが加えられた。映画のみならず、テレビ、インターネットを通して、容易にショッキングなものが反復して見られる可能性もある現代において、バザンの死についての議論が有効であるのかどうか、あるいは、憑依や供犠を生きられた演劇としてとらえるレリスや、観客に参加を促すアルトーの残酷演劇と、バザンの映画論はどこかで繋がるところがあるのか、といった問題提起がなされた。

『闘牛』は、バザンが「猥褻」と否定した直接的な死の映像に肯定的な側面を見いだす契機となった作品であり、その意味でも、この映画が日本語字幕付きで上映され、また、同時代的にprésenceについて考えていたバザンとレリスのテクストの緻密な分析がなされたことの意義は大きいと報告者は感じた。大久保氏が、バザンの命日を追悼するというネガティブな意味合いより、その前日にトリュフォーが『大人は判ってくれない』を撮影開始するというポジティブな意味合いを強調したように、本ワークショップは、バザンの批評が、文学、映画、思想の境域を超えて、様々な議論に広がっていく豊かさを持つことを示した、示唆に富んだものであった。

東志保(大阪大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年2月17日 発行