研究発表2
日時:15:20 - 16:40
場所:山形大学小白川キャンパス 人文社会科学部1号館 201教室
- 「一つの文」とは何か──現代中国語小説の分析から/橋本陽介(お茶の水女子大学)
- アンゲロプロスからヴェイユへ──『シテール島への船出』をめぐって/今村純子(立教大学)
司会:北村紗衣(武蔵大学)
橋本陽介氏の発表は、現代中国語小説の一文の、日本語訳や英訳との比較から始められた。当該の文の訳であるのにもかかわらず、日本語訳や英訳は2~3文に分けられている。中国語の物語文は、読点・句点による区切り方が日本語や英語と相当異なっている。このことは、一つの考え、統一されたまとまりという観念が、中国語では日本語や英語とは異なることを示し、(西洋中心の)言語学をベースとしたものとは違った考えを要請していると指摘した。
橋本氏によると中国語は、従属節を取ることが少なく、連続構造を用いて修辞的な構造をも形作ってきた。これを「流水文」(呂叔湘)という。その根本原因は従属節として埋め込まれない比較的独立した節が次々と連続し、連帯することよって「文」が作られる、という中国語の特質による。これまでの研究では、長い中国語の一文がどのような法則で切られているかについては触れられてこなかったという。今回示された法則は以下のようなものである。「動詞句の連続」(主語が変わる場合もある)、「性質や状態性叙述の標点節を含む連続構造」(一つの空間描写、一人の人物描写は一つの文とする)、「状態性述語と動作性述語が両方出てくるパターン」、「連続構造と連用修飾」、「大きくとらえた上で、詳細情報連続」、「判断、説明、評価と連続構造」「後ろに詳細情報が続く場合」。
こうした問題は現実をどう記号化しているのか?という問題でもある。西洋中心の言語学に慣れた目では「長い」と見える一文も、その規範を外してみると「不思議なことではない」。かくいう橋本氏の提示する視座は西洋の言語を中心とした言語学を照らし返すだろう。
質疑では、文の長短をいうときの個体差の問題(個体差はあっても論理構成にはパターンの類型化が可能であろうとのこと)、ネイティヴスピーカーにによる音読の時の音調の変化(「、」でつながる読み方がなされるとのこと)、長い文が終わるとき、次の話題はどのようになっているのか、といったことが確認された。また日本語においても文と言って、例えば平安時代の物語文にもともと句読点はなく、後の読者らが付したもので活字本1ページに渡って「。」が付かないようなものも見いだされる(中国語も20世紀に入るまでは句読点はつけられなかったとのことである)。こうした和文と、中世以降の和漢混淆文とは「一つの文」と論理構造に大きな違いがあるだろう。日本、中国ともに西洋の論理構造が入る前後の違いはどのようなものか。今回は「現代中国語小説」が対象であり、また、質疑で見通しを伺うことができたが、今後こうした通時的なものを踏まえた論の展開にも期待が膨らむ。
今村純子氏「アンゲロプロスからヴェイユへ──『シテール島への船出』をめぐって」は、シモーヌ・ヴェイユから問いつづけて来た今村氏が、映画からヴェイユを映し出す、という試みである。
テオ・アンゲロプロスはヴェイユの一世代後を生きた。アンゲロプロスの映像表現は「美は語らない。美は何も言わない。だが、美は呼びかける力がある。美は呼びかける。そして声なき正義と真理をあらわし出すのである」(「人格と聖なるもの」)というヴェイユの言葉と共振するという。ヴェイユの思想に見える真に自らの生を創造しようとする人の徹底的な孤独、つまり「ないもの」にされるよりないということが、『シテール島への船出』には描きだされている。主人公の父、スピロは亡命先のロシアから32年ぶりに帰郷しながら、開発のために業者の入った村の人々との折り合いが付かず、また故郷から、国から追放される。このことはしかし、「一緒にいたい。一緒に生きたい」と宣言した妻カテリーナとふたり立つことによって──それは朝靄の海の上という水のイマージュが駆使されている──、詩的に、その至高の悦びが描き出される、と今村氏は指摘する。ラストシーン(これはこの映画のタイトルとなるシーンである)であるが、これはヴェイユのいう「水の中の魚のようではなく、海の中の一滴の雫のように生きること」(「ピタゴラス派の学説について」)自由、その美を体現として見ることができるという。
32年間待ったカテリーナは、極限の疲労の中で、また夫に告白されたこの間にあった出来事に打ちのめされつつも、夫とともに生きることを選び直す。主人公やその妹の見せる父に対する距離感とは対比的に(全体的に、主人公アレクサンドロスとその愛人/妹のヴーラは、スピロとカテリーナの組み合わせと対比されている)、カテリーナが選び直す夫とともに生きることには、ヴェイユのいう「停止の瞬間」(「美に参与し、頽落することなく成し遂げられる一連の動作にはすべて、閃光のように短い停止の瞬間が孕まれている」)が見られるという。
ヴェイユの「労働者に必要なのは美であり、詩であり、その源泉は神であり、宗教である」の有名な言葉、またこれに関わる象徴を読み解く注意力の働きへの言及があるが、アンゲロプロスの作品は、この注意力の働きを研ぎ澄ませている。ヴェイユが工場内の物質に見た「映し出す」働きは、アンゲロプロスの作品において凍結した路面の薄氷や曇りガラスに映し出されるものを通して、「その語がそこにあるのが絶対的に適っている」(『ティマイオス』註解)という仕方で、世界の必然性と同意のありようを提示すると結ばれた。
アンゲロプロス作品において『シテール島への船出』あたりからの変容があることが言われる。この頃から見いだされる「特権的な点」、「群衆」から「個人」への物語の中心の移行にともなう変化を、その美と抒情においてこそシモーヌ・ヴェイユを映し出すものとして、今村氏はこの作品『シテール島』をふたたび見いだしている。
今ふり返って、『シテール島』の物語(主人公が映画監督のレベル)と物語内物語(メタ物語、主人公がスピロの息子のレベル)の関わりについてをおたずねすればよかったのか、と感じている。端的にはあの船出がメタ物語内の出来事であること、このナラティヴのありようからも、「長回しの部屋」(長い文とアンゲロプロスの映画を扱った研究発表2を評して司会の北村氏のまとめ)で橋本氏の提起した記号化や論理構成の問題ともつなげた議論をまたしてみたい気がする。
斉藤昭子(東京理科大学)
「一つの文」とは何か──現代中国語小説の分析から
橋本陽介(お茶の水女子大学)
言語における「文」の定義はさまざまあるが、意味としては「ひとつのまとまった考えを表すもの」とされる。形式的には現代の書き言葉では「句点から句点まで」が「一つの文」と通常は見なされる。しかし中国語の物語文では、読点・句点による区切り方が日本語や英語などの言語と相当に異なっている。区切り方が異なるということは中国語の「一つの文」の観念が日本語や英語とは異なるということである。本研究は、中国語小説文における「一つの文」がどのように構成されているのかを明らかにする。
Givón(1997)は、文法的複雑さを得る手段として、「従属構造」と「連続構造」があることを指摘している。中国語は「従属構造」を取ることが少なく、「連続構造」を好む言語であり、「連続構造」を用いてその修辞的特徴も発展させてきたと考えられる。従来の研究において中国語の「文」が奇妙に思われるのは、「従属構造」を基本とする「文」の観念、論理を前提としているからである。ところが、中国語を観察すると、それとは異なる法則に基づいて「一つの文」を作っていることがわかる。ではそれはどのような法則だろうか。
「文」とは現実をコード化し、表象するものである。中国語のような言語の観察からは、これまで当然と思われてきた欧米言語中心の書き言葉における「一つの文」の観念が揺さぶられることになる。「一つの文」とは何か、新たな問題を提起したい。
なお現代では文学と言語学の研究が分断されているが、論者の提唱する「比較詩学」はその両者をつなぐものであり、どちらかの規範に収まるものではない。既存の様々な研究領域にとって、新たな問題を提起するものである。その考え方と、広がる研究領域についても言及する。
アンゲロプロスからヴェイユへ──『シテール島への船出』をめぐって
今村純子(立教大学)
テオ・アンゲロプロス(1935〜2012)とシモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)は、活動時期を戦後と戦前にわけている。一方、その思想の核に古代ギリシアを置くヴェイユは、戦後ギリシアの政治・社会を知らない。だが両者の資質として、歴史的・社会的自己を手放さずに、水のイマージュに満ちた詩的表現のありようを示す点には相通ずるものがある。ヴェイユの思想の背景にはつねに南仏の光が注いでおり、アンゲロプロスの表現の基調にあるのは「霧の中の風景」である。ヴェイユが工場内の物質に「映し出す」働きを見るのに対して、アンゲロプロスは凍結した路面の薄氷や曇りガラスにうっすらと映し出されるものを捉えてようとしている。たとえば、オーディションのシーンに集められた無数の役者たちがそれぞれに発する「わたしです」という台詞も、32年亡命していた父の発する力ない言葉も、その父に語りかける母の愛情深い言葉も、その境界や輪郭は茫然としており、すぐさま雲散霧消してしまいうるものである。
映画『シテール島への船出』は、ヴェイユが述べる「不幸がつくる島」へと、生のリズムをとって向かう一点がわたしたちのうちにあること、また、「海のなかの一滴の雫」のように生きる自由を、まさしく霧の風景のうちに描き出している。本発表では、アンゲロプロスの作品の放つ光によって、ヴェイユのうちなる萌芽の可能性を探ってみたい。