翻訳

スティーヴン・エリック・ブロナー(著)、小田透(翻訳)

フランクフルト学派と批判理論 〈疎外〉と〈物象化〉の現代的地平

白水社
2018年10月
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オックスフォード大学出版局のVery Short Introductions叢書の一冊であり、Critical Theory (2011)の増補改訂版(2017)の翻訳である本書は、フランクフルト学派と批判理論についてのコンパクトな入門書でありながら、疎外と物象化という2つの概念を軸に据えることによって批判理論の現代性や政治性の議論にまで踏みこんだ意欲作である。著者のスティーヴン・エリック・ブロナーは啓蒙思想や左翼思想の大家であり、米国東海岸のラトガーズ大学で政治科学の教授を務めている。

本書が描き出すのはフランクフルト学派の思想の通史である。前史ともいうべきルカーチ、グラムシ、コルシュから語り起こし、ヘーゲルやマルクスといった学派の思想的源泉にさかのぼっていく。ホルクハイマーやアドルノのような社会研究研究所の中心人物をクローズアップするだけでなく、研究所の系譜のなかでは傍流的であった同世代のベンヤミンやフロムやマルクーゼを並置したり、ブロッホのような独立独歩の異端派や同時代のモダニズム芸術を対位法的に配置したり、第2第3世代のハーバーマスやホネットを対置したりするという叙述戦略を取ることで、本書は、学派のさまざまなスペクトラム──哲学的、社会学的、美学的、政治的、心理的、倫理的、ユートピア的──に光を当てることに成功している。

しかし、それぞれの思想家の仕事の要約や批判理論の概説を期待して本書を開いた者は、期待を裏切られた感じがするかもしれない。というのも、本書が前景化するのは、彼らの思想内容、その表象形式、そして歴史的現実とのあいだの弁証法的関係性だからである。ブロナーの歴史叙述の力点の置き所は、思想家ひとりひとりの通時的変遷ではなく、共時的に捉えられた思想と現実の緊張関係のあり方、そしてその時代ごとの変遷のほうにある。ポスト・ロシア革命の時代、ファシズムの時代、戦後、68年、ポストモダン、グローバル/ポストコロニアルな時代といったそれぞれに異なる特定の時代のなかで、批判理論に内在する変容(トランスフォーメーション)の理念──唯物的(マテリアル)に、世俗的(セキュラー)に、この世界をラディカルに変えていこうという意志──が、どのように具体化されてきたかを、ブロナーは執拗に問い質す。形而上学的否定に留まろうとするアドルノやホルクハイマー、ルール遵守を前提とした討議を想定するハーバーマス、唯物的矛盾の心理的解決を模索するホネットが厳しい批判されされる。そうした方向性は、具体的な実践に翻訳されると、何らかの唯物的隘路に入り込まざるをえないからである。

本書は一貫して文化産業の批判力を積極的に肯定している。これはフランクフルト学派の基本路線からの逸脱ではない、十把一絡げの断罪や一般化のほうが無益である、とブロナーは主張する。具体的な状況や文脈に深く分け入り、物事の度合や具合を繊細にキャッチし、そこにユートピア的な可能性が潜んでいないかを精査することが必要なのだ、というわけである。学派が発展させることのなかったポピュラーなものやエンターテイメントなものの革命的潜勢力──たとえばベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」においてそうした論点を先取りしていた──や、肯定的に捉え直された啓蒙の遺産──普遍性、世俗性、実験性、寛容、自律、連帯、抵抗、自由──を現代に取り戻すこと、それがブロナーの言う批判理論の再生=奪還である

最後の2章で素描される批判理論は、もしかすると、「クリティーシュ・テオリー」ではなく「クリティカル・セオリー」と綴るほうが適切かもしれない。ブロナーは80年代以降の英語圏、とりわけアメリカにおいて影響力を持ち始めた諸ディシプリン(たとえばジェンダー研究、人種研究、サバルタン研究、ポストコロニアル研究)を念頭に置きつつ、批判理論の変容の理念にラディカルに忠実で誠実であるためには、フランクフルト学派以外との連帯が必要であると説いているのだ、と言ってもいいだろう。

難しい課題である。ブロナーが本書を改訂していた2016年末より混迷を深めているように見える現代世界の政治的状況は、この課題をさらに困難なものにしている。入門書という制約あってのことだろうが、ブロナーの提言は素描的なものにとどまっており、精密な議論というよりは、喚起的なマニフェストのように響く。「批判的社会理論を政治化せよ」という、アメリカ的な、あまりにアメリカ的な提案に眉を顰める読者もいることだろう。「それは批判理論のカルチュラル・スタディーズ化ではないのか?」という疑問は正当である。だがもしそう感じるとしたら、わたしたちは、「何のために批判理論がある(べきな)のか」という問いにたいして、何か別の回答を提示できなければならないだろう。

本書は多様な読解を許容する。批判理論の入門書としても、フランクフルト学派の通史としても、理論と実践をめぐる思索としても、カルチュラル・スタディーズとの対話としても、時局論としても読むことができる。学派の第2第3世代の扱い方がやや雑であり、不当なところがあると言わざるをえないとしても、アメリカで活躍したマルクーゼやフロムにページを割くことによって可能になった、英語化されたフランクフルト学派まで含めた学派の批判的通史には新鮮味がある。アイザイア・バーリンの言う反啓蒙や多元主義という観点を『啓蒙の弁証法』と突き合わせるべきだという議論は刺激的である。フロム、マルクーゼ、ブロッホの思想的意義はもっと再考されるべきであるし、コルシュやポロックのような忘れられた思想家たちと合わせて再読されるべきだという魅惑的な誘いもある。批判理論とモダニズム芸術の親和性を論じた3章は、難解で知られるフランクフルト学派に同時代の芸術のほうからアプローチするさいの助けとなるだろう。スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論』は、小著ながら、さまざまな示唆に充ちた一冊である。

(小田透)

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2019年2月17日 発行