壊れながら立ち上がり続ける 個の変容の哲学
現代思想と現代科学は、世界を構成する中心としての近代的な主体概念を試練にさらし、主体を、それに先立つ関係性の網の目の効果へと解消してきた。それゆえ、著者が言うように、現代は「個体」や「個の力」について語るのが困難な状況にある。しかし、著者が携わってきた精神医療やリハビリテーション医療の臨床が教えるのは、主体の形而上学の虚構が暴かれようとも、個は、たとえいびつな仕方によってであれ、みずからを維持し、前進できなければならないということである。本書の瞠目すべき点は、そうして主題化される個体の、損傷や解体をも含んだ生成と変容のプロセスを、現象学による現代思想と現代科学の拒絶という見慣れた(?)身振りによってではなく、むしろそれらの成果を縦横無尽に取り入れ、吟味しながら、追求していくことにある。(例えば、フッサール研究から出発し、システム現象学にも精通する著者が、本書の幕開けに選んだのが、本格的なドゥルーズ+ガタリ論であり、それをさらに遺伝学や化学の知見によって補強する議論であることは、本書のこの態勢を鮮烈に示しているだろう。)このような視座から、「意識」、「体験」、「ナラティブ」、「技」など、多岐にわたるテーマを論じつつ本書が試みるのは、粗野な直接性によっては覆い隠される、幾重もの媒介、迂回、冗長をはらむ「間接性」の組織化を、意識下へと、生理学的、生物学的な身体の次元にまで潜り、つぶさに掬い上げていきながら、それを、理論的にも、記述的にも、臨床的にも練り上げつつ、実体化された主体ではない、変容する個体、つまり、壊れながら立ち上がり続ける個体の哲学を案出することである。それは「生きていくこと」の哲学でもあるだろう。本書に間歇的に姿を現す印象的な「星こわし」、ヨスイとサキの物語は、もしかしたら、そんな生きていくことの──もしかしたら著者自身の──絶望でも希望でもあるものを、描出するものなのかもしれない。
(小倉拓也)