意味がない無意味
先鋭的なジル・ドゥルーズ研究者であり現代社会・文化の批評に積極的に関わる千葉雅也が、2004年〜2016年に執筆した批評/哲学論文集。対象は多岐にわたるが、「存在一般が「このもの」に向けて崩壊し、そして「このもの」が存在一般に向けて崩壊する」(p.6)という仕方で、多数の「このもの」を通して一貫した、存在論的批評とよべるものを構成している。
中心をなす概念はタイトルをなす「意味がない無意味」だ。概念というよりむしろ形象のようであり、それは少年とよばれ、4分33秒のパラダイスとよばれ、水槽とよばれ、噴射される香水の身体=資料体とよばれ、エアヘッドネスとよばれ、ソォダ水の気泡とよばれ、どんぶりの中の死海とよばれ、パラマウンドとよばれる。閉鎖性、偶然性、束の間の持続と消滅性をもつ形象だ。
これらの形象はその閉鎖性によって無限の「解釈」を停止させる。そうして「解釈」を本務とする人文学とは異なる「非人文学」が開始され、世界それ自体の偶然性を反響する個物の偶然性がそれとして享楽される。そこにはつねに、同じようにたんなる偶然の個物である千葉自身の生が痛切に入り込み、個々の物とともに束の間閉じられたカプセルを空中に彫琢する。
自己の偶然性をつねに分析に捲き込むこの再帰性ないし運命性が、現代文化批評としての本書の深度を増していると思う。それは「[……]後者のモデルニテ、つまり「第二級のもの」や「流行」にこだわるボードレール的な眼差しを、第二級の流行としての日本のポストモダン論それ自体に向けるメタ批評論」(p.101)という文に表されるような方法的意識とともに、さまざまな「覇権」的文化に侵された派生的生態系としてもある現代日本語批評という一種のマイナー文学の可能性を、その雑種性を有意味に肯定するのでも標準化するのでもない仕方で、新たに作出している。いわば世界一切の偶然性を反響する無意味な模型の一つとしてである。
圧巻はいくつもありまったく選べないが、美術論をする私の関心からは「パラマウンド──森村泰昌の鼻」、「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない──倒錯の強い定義」、「さしあたり採用された洋食器によって──金子國義への追悼」、「美術史にブラックライトを当てること──クリスチャン・ラッセンのブルー」を特に凄まじいものとして読んだ。多数の仕方で外部から犯された、現代日本(語)における批評/哲学/生のおそろしい悦びを開きつつ−閉じる特異な書だ。
(平倉圭)