繊細で不安定な脈動 ──ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』をめぐって
19世紀末にアメリカ中西部の農家に生を享けた青年が、20世紀初頭のミズーリ大学の農学部に入学する。2年生になって、基礎科目として履修した英文学概論において、いささか尊大なひとりの教官に、シェイクスピアのソネット73番の意味について尋ねられる…。1965年に上梓されたジョン・ウィリアムズの小説『ストーナー』(東江一紀訳、作品社、2014年)の第1章には、1人の若者が知の世界の扉に手をかける瞬間がみずみずしい筆致で描かれている。
主人公ウィリアム・ストーナーは始めから文学が得意だったのではない。だが彼は、「その平板で無味乾燥な意味合いの奥に、自分のめざす高みへの足がかりが隠れて」いるのではないかと予感しつつ、講義室の椅子から身を乗り出し「指関節の茶色い肌が白くなるほど強く机のへりを両手でつか」みながらくだんの講義に出席している。気難しい教官アーチャー・スローンが暗唱でソネットを詠じる。「ウィリアム・ストーナーは、自分がしばしのあいだ息を詰めていたことに気づいた」。そして、自らの手から緊張をほどいた彼は、ある奇妙な感覚に襲われる。
てのひらを下に向け、改めて自分の両手に見入ったストーナーは、その肌の茶色さに、爪が無骨な指先に収まるその精緻なありかたに、驚嘆の念を覚えた。見えない末端の静脈、動脈を血が巡り、かすかではかなげな脈動が指先から全身へと伝わっていくのが、感じ取れるような気がした。
この体験を契機として、彼は家業を継ぐことをやめ、文学の道へと進む。「かすかではかなげな脈動」は、原文では“throbbing delicately and precariously from his fingertips through his body”となっている。「繊細に不安定に脈動しつつ」指先から体全体へと脈打つ血。作者は、人が学問の悦びに触れた瞬間の言いしれぬ興奮と感動を、手と指先のあえかな知覚として結晶化する。折に触れこの小説を読み返しながら、わたしは、ここで述べられた人生の経験の尊さ、知の根源的な在り方をめぐる省察に打たれずいられない。
この小説では主人公の手をめぐる印象深い描写がちりばめられている。ストーナーはつねに自分の手を見ることで生を確認しようとしているかのようである。父から大学進学を勧められたとき、彼は「ランプの灯に鈍く輝く油布の上に両手を広げ」てみせる(第1章)。その父が亡くなり帰省したストーナーは、墓所に葬ったあと、夜中、月明かりのなか乾いた土くれを手に取り「それをほぐし、ほの暗い月明かりの下で、ばらばらに崩れた土の粒が指のあいだをこぼれ落ちるのを見守る」(第7章)。青年ストーナーは中流家庭の令嬢イーディスと結婚するが、すぐさまそれは無残な結果を招き、娘グレースとの愛にみちた生活もイーディスによって破壊される。そのさい、妻からの当てこすりの言葉に対してストーナーは「本を持った自分の両手が震え始める」(第8章)のを他人事のように眺める。やがて聴講生であるキャサリンとの愛を意識するにいたる瞬間も彼は「片方の膝頭の上で握り合わされた自分のいかつい大きな両手に視線を落とす」(第12章)。そして最後(第17章)の臨終の場面でも指先が重要な役目を果たす。
ふと、我が身を省みる。わたしは大学で映画の講義をしているが、そのとき(特にスクリーニングで映画全篇を学生たちと見ているとき)、学生がさめざめと泣く場に何度か立ち会った。だがまた一見何の反応も見せない学生もいる。彼らは何も感じていないのだろうか。そうとも言い切れないように思う。しばらくしてから、忘れかけたころになって、実はあの時に見た映画のことが忘れられないと打ち明けてくる学生もいるからである。彼らは感情を押し殺しながら、それをいかに発露すべきかも分からず、沈黙のまま堪えている。そうした学生たちは、もしかしたら自らの血の「繊細で不安定な脈動」を感じているのではないか。
『ストーナー』に話を戻すと、この小説は残酷に言えば学問の世界に身を投じながら結局何者にもなれなかった男の物語だ(それは冒頭部分で簡潔に要約される)。彼は何も為し得ないどころか、満足に語ることもできない。雄弁さほどストーナーから遠いものはない。くだんのソネット講義の場面でも、スローン教官の質問に言葉を詰まらせてしまう。だがそれにもかかわらず(いやだからこそ)、彼の中を流れる血が「繊細に不安定に脈動する」さまに、奇蹟と呼ぶほかない邂逅が刻印されているともいえる。作者のジョン・ウィリアムズは、それをごくありふれた言葉に置き換える。「愛」である。不意の沈黙にもかかわらず、教官スローンは、彼が学問に目覚めたことを理解する。青年を研究室に招き、学問の府で職を得る道を示しながら、「まだ自分というものを理解していないのか? きみは教師になるのだよ」という。どうしてそんなことを言うのですかという青年の問いに、スローンは「君は恋をしているのだよ(You are in love.)」と答える。ストーナーが愛(love)の何たるかを真に理解するのはキャサリンとの出会いを通してである。それは「人間としての生成の営み、刻一刻、日一日、意志と知力と心性によって生み出され、更新されていくひとつの条件」(第13章)なのだと。
文学であれ、映画であれ、他の何であれ、表象文化論を形づくる知の営みもまた、「人間としての生成の営み、刻一刻、日一日、意志と知力と心性によって生み出され、更新されていくひとつの条件」なのではないか。「高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった」。死を前にしてストーナーは自分の来し方に思いを馳せるが、最期の瞬間、「歓喜の情」とともに、「いまはそのような考察が、自分の生涯にふさわしくない、つまらないものに思える」という境地にいたる。学生たちと映画を見たり、文献を読んだり、議論を交わし、草稿の添削を重ねていくときに襲われる感情がある。それがこの「歓喜の情」なのだろうか。
数ある至言のなかから、ストーナーが「よい教師になれるかもしれない」という自覚に至る第7章の一節を最後に引きたい。
教師とは、知の真実を伝える者であり、人間としての愚かさ、弱さ、無能さに関係なく、威厳を与えられる者のことだった。知の真実とは、語りえぬ知識ではなく、ひとたび手にすれば自分を変えてしまう知識、それゆえ誰もその存在を見誤る心配のない知識のことだった。