第9回表象文化論学会賞授賞式
【学会賞】
高村峰生『触れることのモダニティ ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ゠ポンティ』(以文社)
この度は表象文化論学会の学会賞を頂き、大変光栄に思っています。審査にあたって下さった先生方どうもありがとうございました。今、雑誌のほうの『表象』の編集委員をしてもいるので、しばしば勘違いされるのですが、私は学生としては一度も駒場の表象文化論に所属したことはないんです。東大の学部の2年生から3年生に上がるときに所属学科を決める進学振り分けがありますが、「表象」に入るためにはとても点数が足らず鼻から選択肢に入らないという感じでした。結局は、本郷の文学部英文学科に進んで、アメリカ文学を中心にテクストを精読する訓練をしました。卒論、修論とウィリアム・フォークナーについて書きましたが、どこかでいつも専門家にうまくなりきることができない自分があり、それで博士課程になってからアメリカのイリノイ大学というところに進み、比較文学科に籍を置くことになりました。その留学先の授業のレポートとして書いたドン・デリーロについての論文を『表象』に投稿しようと思ったのが入会のきっかけでした。つまり、まったく純粋に学問的な関心から入ったということです。とはいえ、『表象』という雑誌は会員でない時でも創刊時から読んでいて、やはり非常に知的な刺激を受けていましたし、そうでなければわざわざ入会してまで投稿したいとは思わなかったと思います。あと、今回、賞を頂いた著作はあとがきにも書きましたが、イリノイ大学に提出した博士論文がもとになっています。そういう意味ではアメリカの大学の比較文学科と表象文化論は関心を共有する面があるのではないかと思います。
組織の外から内に入った者として発言させていただきますと、表象文化論にはある種の直感主義が実力主義と結びついていると思います。「表象文化論って何ですか」って皆さんもよく聞かれると思いますが、直感的にはなんとなく分かっているがうまく記述することができない。あるいは記述できる程度のことは表象文化論学会の本質的に重要な部分ではない。ほかの伝統的な学問分野というのはもう少しはっきり定義できるものである気がします。表象の場合は構成メンバーによる集合的な意識がなんか調整的に働いていて、よく「この論文は表象っぽいとか」「表象っぽくない」とかそういう言葉を耳にします。たぶん、これは表象文化論において問われる問いには学問の狭い領域内を超えたアクチュアリティーが付与されていなければならないということで、だからこそ学問領域外の人間にも分かる形で実力が発揮されていないといけない。それでもアクチュアリティーとは何かというのは答えるのが難しい問いであって、最終的には会員メンバーの集合的な学問的関心に支えられているところがあると思います。逆に言うと表象文化論学会は構成メンバーが変わるとそのものの内実もかなりラディカルに変化する運動体であって、自分のような表象文化論を特別に意識して著作を書いたわけではないような「よそ者」を呑み込んでそれをも養分としながら変化し続けるのだと思います。そして、それこそが純粋な好奇心と学問的な手続きが手を取り合う非常に有効なあり方だと思いますので、今後も表象文化論学会が集合的な直観の働く場として、そして「面白い」と思うことは実行できてしまう場として機能してくれればいいなあと思っていますし、会の発展と会員の皆様のご活躍を心から祈っています。自分自身も今回の賞を励みとして研鑽を重ねて、何らかの形で学会に還元していきたいと思います。どうもありがとうございました。
増田展大『科学者の網膜 身体をめぐる映像技術論:1880-1910』(青弓社)
このたび第9回表象文化論学学会賞を頂き、大変光栄なことと喜んでいます。なにより、お忙しいなかで推薦して頂いた方々、そして審査に当たってくださった先生方に、心よりお礼申し上げます。
拙著『科学者の網膜』は、今回(第13回)の大会会場でもある神戸大学の人文学研究科に提出した博士学位論文をもとに、大幅な加筆・修正を加えたものです。全5章の構成をとっていますが、そのうち第1章と第4章に当たる2章はもともと、この表象文化論学会で発表させて頂いた内容から展開しています。そのうちのひとつは、後に投稿した学会誌『表象』第6号にも掲載して頂きました。そのたびに貴重なコメントを頂くばかりか、今回の学会賞まで頂けることとなり、本当に感謝の気持ちで一杯です。各委員の先生方には、毎年の大会や研究集会の企画運営、そして雑誌『表象』の刊行にあたって大変な労をとってくださり、感謝の念に堪えません。
そのような経緯を持つ本書ですので、この場で個別にすべての方のお名前を挙げることはできませんが、お二人の先生に限ってお礼を述べたいと思います。まず、私がこの大学に入学して以来、ご指導を頂いてきた神戸大学の前川修先生、そして、その後に研究員として受け入れて頂き、博士論文の審査や本書出版のきっかけを頂いた早稲田大学の長谷正人先生です。お二人の先生からは共通して、厳しいと同時に暖かいご指導を常々頂いていますが、そのたびに私自身は四苦八苦しつつ、博士論文から本書の執筆までに四年の時間を要しました。その間、粘り強く励ましの声をかけてくださった青弓社の編集者である矢野未知生さんにも、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
少しだけ本書の内容を紹介させて頂きますと、『科学者の網膜』とは、19世紀末のフランスで写真を測定手段として応用した科学者たちが、この新たな映像技術を喧伝するうえで利用した比喩表現のことです。医学や生理学、解剖学や心理学の諸分野において、写真をみずからの網膜と重ね合わせて「見ること」と「知ること」を結びつけようとした五人の科学者の身振りには、写真から映画へという、よく知られた映像史観からは漏れ出てしまうような、映像技術に対する過剰なまでの期待や願望が浮かび上がります。と同時に、そのことが少なからずデジタル技術を経て大きく変動している現代の映像メディアを考えるうえで有意義なものとなるのではないか、このような考えから曲がりなりにも議論を練り上げようとしたのが本書の試みでした。
私自身は美学・芸術学という研究室に所属することから出発しましたが、その分野にとっては、ある意味でいびつな研究テーマを進めてきました。実際、この場所から一歩外に出てしまえば、自身の研究がどういった分野に属するのか、不安になることも少なくありませんでした。それでも結果として今回のような賞を頂けたことは、数多くの先生方から自由に研究に取り組む場を頂いたおかげであり、先行する著作や論考はもちろんのこと、周りにいた方々と刺激的な議論を交わすことができたからだと痛感しています。そのうえで先に申しましたとおり、私自身の研究について貴重かつ有意義なご指摘を数多く頂いたのが、この学会であったことは言うまでもありません。多様な分野やテーマ、方法論が交錯する刺激的な場に感謝しつつ、今回の受賞を励みとして、今後も自身の研究をさらに深化させることができるように精進したいと考えています。
この度は誠にありがとうございました。
【奨励賞】
北村匡平『スター女優の文化社会学 戦後日本が欲望した聖女と魔女』(作品社)
この度は、第9回表象文化論学会の奨励賞をいただき、大変嬉しく光栄に思います。ご多忙の中、審査に携わってくださった選考委員の先生方、また推薦の労を取ってくださった先生に心から感謝申し上げます。受賞の一報をいただいたときは、嬉しさや驚きよりも、なんのことだろうという空白の時間がしばらくあったことを覚えています。そもそも選考の対象になっていることなど露ほども思っていませんでした。ですので、私にとっては身に余る光栄で、嬉しさと畏れ多い気持ちが混在した状態でここに立っております。
今回、賞を賜った拙著は、東京大学大学院学際情報学府に提出した修士論文が元になっております。なぜ未熟なままの議論を出版することになったのかは、あとがきに書いておりますので、ここでは割愛させていただきますが、私にとっては満を持して出版したというより、不安なままどうにか捻り出したというものでした。
けっして長い期間とはいえない未熟な研究なのですが、それでも修士課程の2年間は、自分にとって非常に過酷な時間でした。というのも、それまで理論偏重だった過去の自分と一度決別し、徹底的に体を動かして資料にあたるという、自分にとって非常に苦手な作業を課したからです。ですが、この先も見えない資料調査の繰り返しによって、目指すべき方向性が、映画研究や映画女優論という射程を超えて、日本の戦後研究に直結するのだと明確化していきました。
拙著は、同時代の観客がいかなる条件のもとでスクリーンのペルソナを憧憬していたのか、その映画館の現場を再構成したいという欲望に駆られて書かれたものです。そのために、映画テクストや高尚な批評言説のみを扱うのではなく、スクリーンイメージを外部から構成するテクストの連関、映画以外のメディアとの関わりを分析する必要性を感じました。そこでファン雑誌やプレスシートを映画経験にとっての重要なメディアとして設定し、スター女優と戦後日本のジェンダー規範を分析するという自分なりの方法論ができあがりました。幸い書評にも恵まれ、自分が思っていた以上に読者を得ることができました。
とはいえ、この研究は自分一人の力では決して成し遂げることができなかったものと確信しております。主指導教員である吉見俊哉先生、副指導教員である北田暁大先生のご指導によって、映画と社会、映画とメディアの関係の考察を深めることができました。また長谷正人先生と岡室美奈子先生にも温かいご指導をいただき、創意に満ちた作品の分析、真摯に物語に向き合うことを教わりました。この場を借りて、これまで私の研究を支えてくださった先生方に深く感謝いたします。また研究会を通じてアドバイスをくれた学友たち、そして初めての単著をサポートしてくださった作品社の青木誠也さんにも心から感謝申し上げます。
今年は日本映画界にとって非常に嬉しい年でもありました。ご存知のように、是枝裕和監督の『万引き家族』がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞、日本映画の未来が明るく照らされたように感じました。是枝監督は受賞のスピーチで「映画を作り続けていく勇気をもらえます」という印象的な言葉を述べておりましたが、今回の受賞は、研究をこれからも続けていく勇気をもらえた、そんな僥倖としかいいようがない出来事でした。これを励みに、もっと面白くスリリングな研究ができるように精進して参りたいと思います。この度は誠にありがとうございました。
【特別賞】
該当なし
選考委員
- 北原恵
- 長木誠司
- 中島隆博
- 細馬宏通
選考委員会
2018年5月13日(日) 東京大学駒場キャンパス
選考過程
2018年1月上旬から2月上旬まで、表象文化論学会ホームページおよび会員メーリングリストをつうじて会員から候補作の推薦を募り、以下の著作が推薦された(著者名50音順。括弧内の数字は複数の推薦があった場合、その総数)。
【学会賞】
- 阿部賢一『カレル・タイゲ ポエジーの探求者』水声社(1)
- 小澤京子『ユートピア都市の書法 クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想』法政大学出版局(2)
- 串田純一『ハイデガーと生き物の問題』法政大学出版局(2)
- 高村峰生『触れることのモダニティ ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ』以文社(1)
- 星野太『崇高の修辞学』月曜社(2)
- 増田展大『科学者の網膜 身体をめぐる映像技術論:1880-1910』青弓社(1)
【奨励賞】
- 北村匡平『スター女優の文化社会学──戦後日本が欲望した聖女と魔女』作品社(1)
- 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社(1)
- 高村峰生『触れることのモダニティ ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ』以文社(1)
- 土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』フィルムアート社(1)
- 利根川由奈『ルネ・マグリット──国家を背負わされた画家』水声社(1)
- 星野太『崇高の修辞学』月曜社(1)
- 増田展大『科学者の網膜 身体をめぐる映像技術論:1880-1910』青弓社(2)
【特別賞】
推薦なし
選考作業は、各選考委員が候補作それぞれについて意見を述べ、全員の討議によって各賞を決定してゆくという手順で進行した。慎重かつ厳正な審議の末、学会賞に高村氏と増田氏の著作、奨励賞に北村氏の著作を選出することに決定された。
【選考委員コメント】
北原恵
今回は、10本もの著作がノミネートされ、審査会では中堅若手たちの博士論文などの成果が一気に目の前に並べられた。対象者が「若手」だと言っても、社会人を経験してから大学に戻った私にとっては、1990年代後半から2000年代初めにかけて、駒場で一緒に学んだ研究者たちも含む世代が見事な果実を次々と実らせているのだから、「審査委員」などという立場で評価できるものではない。それでも今回引き受けて、久しぶりに表象文化論学会での最新の成果を知ることができた。
10本は、いずれも力作揃いで、審査はいつまでかかるのだろうと、気の遠くなる気分で上京したのだが、ひとりずつ審査委員が1冊ずつ丁寧に講評していくと、評価が真逆に分かれる著作はなく、拍子抜けするほどあっさりと学会賞の2作品が決まった。
意見が分かれなかったのは、最初に、優劣のつけがたい専門性の高いモノグラフィーを避け、専門領域以外の読者にも接点を持ちうるような開かれた研究であることを、選考の指針としたためであった。そのゆえ、長年努力を続けてきた卓越した研究が今回の選考からはずれたかもしれないが、それは、このような選考基準を設けたためである。
また、今後は、審査も難しくなるかもしれないが、日本語以外で書かれた著作も自薦・他薦してほしいと思った。
増田展大の『科学者の網膜』は、まず冒頭からぐいぐいと引き込まれてしまった。『カドール岩の謎』(1912年)というフランスの無声映画を紹介しながら、本書の目的──「十九世紀科学に頻出する「見ること」と「知ること」の同一視をひとたび切り離し、両者のあいだで映像技術が具体的に機能する仕方を明らかにすること、そのうえで技術的な実践と科学的な言説とが相互に編成されるプロセスを再考し、両者を架橋する映像技術の新たな側面を照らし出すこと」を、展開する構成力と発想力、視覚イメージを喚起する文章力には、感嘆せざるを得ない。文章が魅力的なのである。
たとえば、ボルゲーゼの彫像のポーズを模倣する裸体の男性を写した写真を分析し、世紀転換期のヨーロッパにおいて、「異常者」の身体を創出したがゆえに、逆にブルジョワジーの身体が「人種や階級といった境界線上でその優位性を失いかねないという、身体にまつわる危機感を蔓延させることにもなった」という指摘。犯罪者の身元確認のために考案された人体測定法が、「正常な」身体を実証する方法として採られたという指摘には納得させられた。
高村峰生の『触れることのモダニティ』は、ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティらの言説分析を通じて、「触覚がモダニズム期の芸術家や哲学者たちにどのような影響を与えたのか」を検討する研究である。本書は、近代における植民地主義や帝国主義言説の基礎をなす「視覚」に対する「触覚」の優位や差異を論じるのではなく、視覚に支配された近現代が、モダニストの作品における触覚的なものを不可避的に生み出したことを明らかにした
特に私が面白かったのは、ローマ式敬礼と、スティーグリッツのオキーフ表象について述べた個所である。近年のイタリア・ファシズム研究によれば、手のひらを下にして腕を前に真っ直ぐに伸ばすローマ式敬礼は実はローマ起源でなく、ジャック=ルイ・ダヴッドの≪ホラティウス兄弟の誓い≫(1784年)においてはじめて現れ、その後20世紀初頭に映画によって普及したという。そして筆者は、ファシスト党が「握手」をブルジョワ的で不潔だとみなし、身体接触のない「ローマ式敬礼」を採用したことに、人々の身体的接触への恐れへの訴えかけを読み取り、さらに、エトルリアを「単に身体的」であると描写したロレンスの短文に込められた洞察まで、読み解くのである。
また、スティーグリッツによるオキーフの写真の分析も秀逸だ。スティーグリッツの男性の肖像写真は、目をまっすぐにカメラに向けており、人間性(視覚)に関心があることを示しているが、一方、オキーフや女性の身体、特に手を撮った写真では、視線はしばしば焦点が定まらず、夢見るように空中に投げられており、触覚が女性性、原始性に結び付けられていると指摘する。「国家、ジェンダー、セクシュアリティの問題系と切り離すことができない」スティーグリッツのオキーフの手は、どのように読み解かれていくのか。続きは、第2章5節「スティーグリッツの写真における「女性的なもの」と「原始的なもの」」をぜひ読んでほしい。
北村匡平の『スター女優の文化社会学』は、原節子と京マチ子を占領期・ポスト占領期の日本人の欲望に着目して読み解いていく社会学研究である。本書は、「戦前から人気を博し占領期に絶頂期を迎えた原節子と、戦後派ナンバーワンのスターとして鮮烈なデビューを果たした肉体派女優・京マチ子のペルソナを通して、日本人の<戦後>を解き明かすこと」を主眼に企図されている、女優たちの身体を描写するときに述べられる「西洋的な顔」や「バタ臭い」表象をアプリオリに使っており、最初から結論ありきの感もするが、その疑問をしのぐ圧倒的な面白さと魅力が本書にはある。「映画史」や「女優論」を超えようとするチャレンジ精神は随所に満ち溢れ、同書が修士論文であることを鑑みると、今後の一層の活躍が期待できるという点で、審査員たちの意見は一致した。
審査対象は10点もあるので、全てに触れることはできないが、利根川由奈の『ルネ・マグリット』を紹介したい。なぜなら私がこれまで持っていた表層的なマグリット理解を根底的に突き崩す著作だったからである。多文化・多民族国家であるベルギーが、マグリットを文化政策に登用することによって「ベルギー美術史」の独自性を打ち立て、フランスやアメリカ美術の優位性にいかに対抗しようとしたか、見事に検証されており、私は特に植民地主義との関連を論じたサベナ・ベルギー広告の分析に多くの示唆を受けた。
以上、いずれも学会賞・奨励賞を贈るに相応しい研究であり、今後のさらなる活躍を期待したい。
中島隆博
今年度は質量ともに力作揃いで、選考には大いに迷い、学会賞二作と奨励賞一作という結果になった。
学会賞として最後まで思案したのは、増田展大『科学者の網膜』と高村峰生『触れることのモダニティ』(の二作であった。スタイルは異なるとはいえ、問いを共有する両作は、表象文化論らしい構想力を存分に示したもので、結果的に同時受賞となったことは大変喜ばしいことであった。
では、いかなる問いが共有されていたのか。それは、見ることがすなわち知ることであるという近代の根本テーゼが、技術の進展とともに揺らぎ、見ることが大きく変容したのではないかという問いであった。
増田さんは、それを、ジュール・ジャンサンが写真について述べた「写真の感光板は、科学者の真の網膜である」という言葉を手掛かりに、人間の視覚につきまとう誤謬を補完する技術において深めていった。写真や映画といった技術によって、人間の視覚にある種の過剰な可視化がもたらされ、見ることと知ることの関係自体に過剰な緊張が生じる。写真や映画の技術の進展とともに、ヒステリーという近代を象徴する症状が示す異常な身ぶりや、国民化される身体が身ぶりを失うことはその結果である。ところが、人は見ることと知ることを何とか再び繋ぎ合わせようとし、異常な身ぶりを平凡なそれへと再び回収しようとするのだ。しかも、それもまた常に技術によって支えられているのだ。こうした動的な構造が、エドモン・デボネ、ジョルジュ・ドゥメニー、アルベール・ロンド、アルフレッド・ビネ、ポール・リシェといった、五人の科学者の詳細な検討を通じて示されている。その検討する手つきのしつこさに、世紀転換期のいかがわしさが相まって、この本をきわめて魅力的にしている。そして、21世紀のわたしたちがこの動的な構造を逃れているわけでは決してないことを、たえず喚起するのである。
高村さんは、先ほどの問いを、視覚ではなく触覚において探求する。作家D.H.ロレンスの触覚の議論を、エトルリア文明という古代性と繋げて読解し、それをローマという古代性に拠ろうとするイタリア・ファシズムへの批判として理解したり、さらには「私に触れるな」というキリスト教の禁止の手前への遡行として理解することは、読者にさらなる思考を強く喚起する。また、写真家アルフレッド・スティーグリッツを中心とする同人たちが、触覚の領域である「手」によって、機械としての写真を統御しようとした試みの可能性と限界が正確に測定される。さらにはヴァルター・ベンヤミンの二つの異なる触覚性(アウラに結びつくものと、複製技術に見出されるもの)に、生そのものの変性を認める丁寧な議論が展開される。最後に、モーリス・メルロ=ポンティの時間と身体の関係を「触覚的時間」、さらには「触覚的身体」として提示し直し、見ることが知ることであるというデカルト的なテーゼへの抵抗として読解することに成功している。この本は、触覚が開く、もう一つのモダニズムもしくはモダニズムへの批判に、わたしたちを触れさせてくれたのである。
奨励賞に推した北村匡平『スター女優の文化社会学』(作品社、2017)は、原節子と京マチ子という二人のスター女優を通じて、日本の戦後を切り取って見せたものだ。聖女と魔女という対立で二人のコントラストを鮮やかに切り取りながらも、その「共犯性」を指摘することで、日本の戦後の欲望の形である〈理想化の時代〉を描き切った筆力は見事なものである。おそらく北村さんは、この強いコントラストを示す構図が、原節子と京マチ子の時代にふさわしいと確信していたことだろう。逆に言うと、今後北村さんがまったく別のスタイルで時代を切り取る可能性を、読者に予感させてくれもするのである。