果てない未来に 映画における性的マイノリティとエイジング
2017年10月、映画研究者のジェニファー・コーツ氏が京都大学で主宰した国際シンポジウム「Cinema and Social Change in Japan」にて、筆者は「エイジング」をテーマにした発表を次の言葉で始めた。「30代前半、ゲイ男性。自分が年老いて死ぬときは誰がそばにいるのだろうか、と時々思うことがある」と。このように思い始めたのは、李相日監督の『怒り』(2016)の終盤に挿入される、あるフラッシュバックを目の当たりにして以降、同性間の喪失や性的マイノリティのエイジングに関心を向けるようになったからである。直人(綾野剛)が知らぬ間に死んでしまった事実に絶望する優馬(妻夫木聡)の記憶として展開するこの場面において、直人は優馬の母親の遺骨を納骨した葉山の墓地から見える海の美しさを思い出し【図1】、「あそこに入れるんなら死ぬのも悪くないかもな」と言う。「一緒の墓に入るかってこの前、俺に聞いたろ」と直人は続け、「一緒は無理でも、となりならいいよな」とつぶやく彼の横顔は琥珀色の夕焼けに染まる。吉田修一の原作小説によって二人のゲイカップルの運命がコントロールされているとはいえ、二人は片方の死によって引き裂かれる。クィアな人々が誰か(たち)と一緒に歳を重ねられたかもしれない未来を実現させる映画的想像力は一体何によって阻まれているのか。本稿ではその要因について一考したい。
1990年代に「ニュー・クィア・シネマ」の隆盛を提唱した映画批評家のB・ルービー・リッチがかつて述べたように*1、もし映画研究者/批評家の仕事のひとつが映画とその作品が製作された社会との関係性に目を向けることだとすれば、近年の性的マイノリティの登場人物を含む日本映画作品の増加の要因について我々は何を言えるだろうか。明確な影響のひとつに「LGBTブーム」が挙げられる。アメリカ合衆国において同性婚が全州規模で合法化された2015年以前から、日本においては「LGBTブーム」がゆるやかに始まっており、LGBTを対象とした商品やサービスによる膨大な経済効果について経済誌が取り上げていた記憶がある。
*1 CUSchooloftheArts, “Foundational Moments of New Queer Cinema with B. Ruby Rich.” YouTube. https://www.youtube.com/watch?v=Ff7wLKKpIkE&t=4104s
もちろん、「LGBTブーム」において性的マイノリティを何らかの形で商業的に搾取する戦略は映画産業も例外ではない。例えば、ある種のツイストとして男子大学生同士のホモエロティックな描写を含む『エイプリルフールズ』(石川淳一、2015)のように、主にゲイ男性を物語の主柱に置く作品が増えている。小説を原作とする作品(『EDEN』武正清、2012;『横道世之介』沖田修一、2013;『怒り』)の他には、少女漫画(『にがくてあまい』草野翔吾、2016)やBL漫画(『どうしても触れたくない』天野千尋、2014;『ひだまりが聴こえる』上條大輔、2017)の映画化は、同性間の恋愛や親密さを描く手段となっている。さらに、性的マイノリティのエロティックな関係や彼/彼女たちが直面する問題の表象は、商業映画よりもインディペンデント映画(『こっぱみじん』田尻祐司、2013;『Starting Over』西原孝至、2014;『たゆたゆ』山本文、2016;『カランコエの花』中川駿、2016)や学生映画(『春みたいだ』シガヤダイスケ、2017)に居場所を見つけている。
現段階の調査において、性的マイノリティを含む/主題とした映画製作や消費に対する日本のメディア産業の戦略に関する十分なデータは得られていない。しかしながら、1980年代末から1990年代の東京都内のアート・シアターへ輸入・上映されたクィア映画の主な観客層が若い女性であったように*2、性的マイノリティを含む/主題とした映画作品の受容と若者文化について、当時と現在の間に似た傾向があるのではないかと考えている。より正確に言えば、『キネマ旬報』2017年1月下旬号が最近の「キラキラ青春映画」の戦略において若さが重要であると特集したように、性的マイノリティを含む/主題とした映画作品は若者たちの体験にもっと注目するようになっているのではないか。この推測については更なる熟考が必要ではあるが、年齢の高い性的マイノリティの存在が見えづらくなっている現状を説明する糸口になる可能性は高い。
*2 菅野優香「クィア・LGBT映画祭試論─映画文化とクィアの系譜」『現代思想』2015年10月号、202-209頁。
ここで日本のゲイコミュニティにおけるエイジングに関する先行研究を簡単に紹介したい。社会学者の小倉泰嗣によれば、エイジングについての議論は2001年頃からゲイのメディアに現れるようになり、2005年の東京レズビアン&ゲイパレードではエイジングを主題としたシンポジウム「私たちのエイジング─婚姻制度の外で年齢を重ねるということ」が企画され、50代半ばのゲイやレズビアンのパネリスト3名が話をしている*3。同年には、雑誌『Queer Japan』が特集「夢見る老後!」を組むなど、ゲイコミュニティにおいてエイジングに対する関心が高かったことが分かる。小倉はこのような傾向の背景には、「ゲイとして生涯を全うしようとする意識が、世代としての広がりをもって共有されはじめるのは、九〇年代のムーブメントを駆け抜けゲイ・アイデンティティを獲得したいまの四〇歳前後の世代あたりからだろう」*4と2009年の時点で分析している。
*3, 4 小倉康嗣「『ゲイのエイジング』というフィールドの問いかけ─<生き方を実験しあう共同性へ>」『挑発するセクシュアリティ 法・社会・思想へのアプローチ』関修・志田哲之編、新泉社、2009年、168-169頁、 170頁。
では、現在のメディアにおいて中年期以降の性的マイノリティの生活は2000年代末からどのように表象されてきたのか。最適な例のひとつがよしながふみの漫画シリーズ『きのう何食べた?』である。グルメ漫画としても人気があり2007年12月号から『モーニング』誌上で連載中の本作は、一組のゲイカップル─弁護士の筧史朗と美容師の矢吹賢二─の同棲生活を食のテーマから描く。この漫画シリーズに筆者が関心を寄せる理由は、シリーズが進むにつれて登場人物たちが実際に歳を重ねる点である。第一巻で43歳であった史朗は最新話時点で52歳、賢二は41歳から50歳へと加齢している。よしながは、現実世界同様、登場人物たちが老いによる肉体変化を経る過程を見せることに躊躇しない。例えば、頭髪が薄くなったため泣く泣く賢二が長髪から短髪へとイメチェンしたり、史朗が避けられない老いを受け入れる象徴だと信じてやまない老眼鏡を拒んだりする様子が描かれる。自分たちの老いに加えて、彼らはそれぞれの親の老いの問題にも直面する。そのような過程において、カップルが二人の将来に向けて会話する様子がときどき挿入される。筆者が知る限り、『きのう何食べた?』は(ゲイ男性に限られてはいるが)性的マイノリティが抱えるエイジングのプロセスと問題をもっとも真摯に描いたメディア・テクストの一つである。
一方、映画製作者たちはどのようにエイジングを描いてきたのか。いくつか例を見てみよう。一つ目は2001年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された崟利子の『Blessed─祝福─』である。筆者は『Blessed─祝福─』を「第6回みたかジェンダー・セクシュアリティ映画祭 in ICU」で初めて観て、いかに撮影者がキャメラを通じて老いた身体と関われるかを例示する作品であること、崟が老いを扱う女性監督の一人に加えられることを確認できた。作品のなかで、崟と当時のパートナーであったサクラは、崟が子ども時代に10年間住んでいたアパートを訪れる。本作は、1998年に山形で上映された『西天下茶屋・おおいし荘』の撮影時に崟が遭遇した二人の年老いた女性のフッテージを使用している。崟はこの二人の女性が30年前から同じアパートに住んでいたことを思い出すのだが、なぜこの二人の女性をクィア・エイジングの文脈で取り上げるのか。一つには、彼女たちの関係性が別々の部屋ではあるが一つ屋根の下で長年一緒に暮らす女性同士の親密さの強度を示す一例として読めるかもしれないからだ。ICUでの上映後トークにおいて監督が興味深い話をしたのだが、彼女が子どものとき、一人の女性が男性のような格好をしていたのを見たことがあったと言う。崟は彼女たちを特定の関係性で捉えることはなかった。ただ、崟が彼女たちを撮影していたとき、彼女たちを見られる対象としての女性としてではなく、むしろ、ただそこに偶然あった身体として見ていたという。崟のこのような発言をどのように解釈するべきか、答えは見つかっていない。
二つ目の例は『佐藤家の朝食、鈴木家の夕食』(月川翔、2013)である。2013年当初はBS向けに製作されたが、本作はのちに2015年度の台湾国際クィア映画祭で上映された。本作は主人公の拓海(山崎賢人)が「普通」の家族とは何かという価値観を理解しようともがき、彼なりの答えを導き出すまでの過程を描く。佐藤家は高校生の拓海を息子に持つレズビアンカップルで、鈴木家は拓海より一歳下の娘・そら(小林涼子)を持つゲイ男性とバイ男性のカップル。本作は、どちらの家庭も中年の性的マイノリティを親に据え、ときに子どもたちと対立させることで、生物学的な血筋、制度としての家族、そして誰かを愛するとは何か、といった問いを観客に考えさせる。エイジングに関しては、結婚して子どもをつくり家庭を築くという異性愛規範的なライフコースを転覆こそはさせないものの、婚姻外の方法を模索し実践することで、誰と生きて誰と共に歳をとるのか、その手段の一つを物語映画のレベルで提示している。
最後の例は2018年9月末から一般公開されるドキュメンタリー映画『愛と法』(戸田ひかる、Of Love & Law、2017)である。本作が撮影対象とする南和行氏と吉田昌史氏は、大阪で「なんもり法律事務所」を共同経営する「弁護士夫夫」である*5。彼らは社会的に弱い立場にある人々(未成年や性的マイノリティなど)の依頼を率先して受け入れており、本作ではろくでなし子裁判、君が代不起立裁判、無戸籍者裁判に取り組む姿が映し出される。戸田のキャメラは二人の弁護士としての側面を捉える一方で、彼らのプライベートな空間に入り込み、親密な瞬間を描き出す。例えば、南氏が憲法カフェで同性婚による家族形成に対して懐疑的な態度を示す受講者との議論を経て帰宅した後、宣伝スチルにも使用されている自宅でのショット【図2】が挿入される。きわめて演出された印象を与えるこの構図は、膝枕や手をつなぐ身体的接触をフレームに収めることで彼らの親密さを提示する。【図2】の場面で南氏と吉田氏は家族のイメージについて意見交換するのだが、たとえ子供に恵まれたとしても、彼/彼女が成人し自立したら、結局は二人が家族の核になることが確認される。ここで重要なのは、日本において同性カップルの老いのロールモデルや選択肢が少ない現状において*6、彼らが二人の関係性を軸に未来を見据えようとしている点である。そのような未来への期待は、南氏が作詞作曲した「Pictures & Memories」(2014)という歌に込められている。本作を試写で見たとき、「思い出を詰めた鞄は二人で持つには少し重くて/だけどまだまだ道は続いていく/果てない未来に」と締めくくられる曲の「未来」という歌詞が、英語字幕では"journey"と訳されていたことに感銘を受けた。老いて死ぬプロセスが最終的に個人的な経験であったとしても、そこに至るまでのエイジングのプロセスを「旅路」と捉え、その「旅路」に同行する(単一/複数の)パートナーや道中で出会う人々との関わりを通じて、選択肢を減らしたり、増やしたりする。規範化されたロールモデルがないからこそ可能な「旅路」を二人は歩んでいくのかもしれないという希望に満ちたドキュメンタリー映画である。
*5 『愛と法』プレス用資料、4頁。
*6 加賀直樹「誇りは持てた どう老いるのか ロールモデルなきLGBTの老後」『AERA』2017年6月12日号、28-29頁。
*7 kazpon2323,「Pictures and Memories」YouTube. https://www.youtube.com/watch?v=TS6B83YSMwk
現在の日本映画において性的マイノリティの未来を描くための映画的想像力が欠落している事実は、現実世界の性的マイノリティのコミュニティにおけるロールモデルの乏しさが要因の一つに挙げられるだろう。しかし、社会の高齢化がますます進行し、熟年離婚や未婚の割合が増えることで、異性愛者にとっても規範化されたエイジングのロールモデルもまた機能しなくなりつつある。映画研究においてエイジングを理論的に議論している先行研究はけっして多くはないが、例えば天野正子が戦後から2010年代初頭までの日本映画を分析した『<老いがい>の時代─日本映画に読む』(2014)に依拠しつつ、より広い視覚文化におけるエイジングの表象を考察していく必要があるだろう。他にも、2000年代後半以降、エリザベス・フリーマンやジュディス・ハルバシュタムによって発展してきたクィアな時間性についての言説や、クィア研究とエイジングおよびディスアビリティ研究の交錯を試みるジェイン・ギャロップやシンシア・ポートの研究成果を映画研究やメディア研究へ援用することは、エイジングの表象を検討する際に大きな助けとなると確信している。
久保豊(早稲田大学)