パネル5 20世紀西洋の人形・模像・分身 ──モダニズム芸術における〈肖像〉の諸相
日時:2018年7月8日(日)16:30-18:30
場所:人文学研究科B棟(B135)
・オスカー・ココシュカのアルマ・マーラー人形──肖像画との関連からの一考察/古川真宏(京都造形芸術大学)
・完全な個性──バレエ『木彫りの王子』における分身としての「人形」の役割/岡本佳子(東京大学)
・クロソウスキーにおけるロベルト像/須田永遠(東京大学)
【コメンテーター】香川檀(武蔵大学)
【司会】鯖江秀樹(京都精華大学)
本パネルは、肖像の囚われのうちに創作活動を展開した二十世紀ヨーロッパの作家たちを対象として、肖像こそが各作品の核心をなす想像力の源泉であることを浮かびあがらせるものであった。肖像とはそれゆえ、ある特定の人物をモデルとした「写し(コピー)」というよりはむしろ、オリジナルを凌駕し、「投影」、「分身」、「シュミラークル」といった問題圏を通過することとなる。本パネルの副題で肖像という語に括弧が付されているのは、人形(ヒトガタ)のこの特異きわまる相貌が、発表者のあいだで共有されていることを暗示していた。
最初の発表者、古川真宏氏は、オスカー・ココシュカが約3年にわたり「寵愛」した、かつての恋人を模った「アルマ・マーラー人形」と、画家の肖像画制作との並行関係を検討した。書簡や自伝等のテクストに対する考察、および近年のココシュカ研究の参照というふたつの視点から解き明かされたのは、人形と肖像画との入り組んだ「生命賦与」の過程である。つまり、(従来の研究で指摘されてきたように)ココシュカの人形愛は「奇行」や「パフォーマンス」あるいは「倒錯的な性愛」ではない。そうではなく、かつて愛した人の人形(あるいは人形と自己像)を「記憶イメージ」とともに妄執的に描きつづけることで、肖似性を欠くアルマ人形を「人間化」するとともに、画家本人を「人形化」する二重のプロセスなのだ。アルマ人形をめぐる一連の出来事は、いわば自己投影による人形の再活性化であり、しかもそれは、近代の合理的な思考が脇に追いやった神話的で根源的なイメージの相、すなわちその現前と不在にココシュカが対峙していたことを集約的に物語っている。
続く岡本佳子氏の発表は、バレエ『木彫りの王子』(1917年)を、従来のバルトーク研究の文脈ではなく、原作者バラージュ・ベーラの原作テクストと演劇論から照射することで、舞台上の人形が「完全な個性」と称される所以が探られた。主たる考察対象である、木の棒に装身具を纏わせた「人形」は王子の「分身」であるが、王子その人以上に、王女に愛されることになる。この木棒が(一時的であれ)人間を超えてしまうという逆説の要因はバラージュの演劇理論のなかに見いだされる。つまり、舞台においてもっとも重要なのは、役者の情念(バラージュの説く「内的葛藤」)ではなく、その身体によって可視化される「機械部品の一斉動作」なのだという。役者も人形のごとく、進んでマリオネットと化すことで役柄の「完全な個性」を獲得することになる。岡本氏は、この人間=人形論が、原作と上演時の差異や、制作に対するバルトークとの温度差を説明する手立てともなることを示唆した。
最後の発表者、須田永遠氏は、ピエール・クロソウスキーの妻、ドニーズ・ロベルトが反復的に描写されることで、妻本人の肖似性が破綻し、むしろ把捉しがたい何かへと変容していく様を、とくに『歓待の掟』の精緻な分析により導きだした。もはや肖像とは言いがたいものへの変容が生じるのは、ロベルトが作中において他者(客人)に性的な対象として差しだされ、男たちの眼差しに執拗に晒されるからにほかならない。このことを須田氏は、(ほかでもなくクロソウスキーが仏語訳を務めた)ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」(1936年)の名高いテーゼ、展示的価値/礼拝的価値に接続する。芸術作品において、前者が後者を駆逐する一方で、後者の礼拝的価値は「人間の顔という最後の砦に退却する」。この議論とアナロジーを成すのが、まさしくクロソウスキー小説におけるロベルトの「変容」である。他者のあいだで流通・複製化することで、妻が本来的に宿していた「かけがえのなさ」、すなわち礼拝的価値が回帰するというのである。
コメンテーターの香川檀氏は、二十世紀以後の広い意味での「人形文化」と関連づけながら議論を整理し、個別のテクスト分析に偏りがちであった各発表をより広い文脈のなかで理解する可能性を提起した。たとえば、古川発表の中核をなすココシュカのアルマ人形について、非肖似性と触覚とのせめぎあい、裸婦像の伝統、フェティッシュや憎悪をない交ぜにした「身代わり」の現前性など、さらに掘り下げるべき複数の経脈の存在が指摘された。岡本発表については、(メイエルホリドやゴードン=クレイグが提唱した)先鋭的な前衛演劇理論との関連からバラージュの「人間=人形論」を考察する余地があると指摘があった。須田発表については、いわば「シュミラークル」としてあるロベルトの形象が、眼差しの「暴力」を介してもなお、やはり「アウラ」の再認につながるのではないかという問題が呈示された。フロアからの質疑においても、イメージ、タブロー、身ぶりなど、作品の表層的な要素に沿った考察が必要なのではないかという疑問が寄せられた。
作者や主人公と近しい(愛の対象でもある)存在が〈肖像〉と化すことによって、オリジナル/コピーが攪乱され、別の何かへと変容するという事態をいかに思考するか──対象はちがえど、各発表に通底するのはまさしくこの問題意識であった。この点に関して、当日司会を務めつつ感じたのは、この問題系が「モダニズム」の時代性のなかで議論されたことの意義である。たとえば、20世紀初頭の幼児教育に目を向けるとき、母性の涵養を意図した愛玩人形は、積み木に象徴されるシュタイナーやモンテッソーリの知育メソッドによってその教育的効果を否定されつつあった。他方、「人間の人形化」や「眼差しの暴力性」という語は、近代以後の人間の道具化、機械化の先にある、極限的な生政治の身体を否応なく想起させる。本パネルの議論は、人形(ヒトガタ)のこの両極に位置する中間地帯にあり、モダニズムの隠れた一面を形成しているように思われた。
鯖江秀樹(京都精華大学)
パネル概要
人形と彫刻作品の違いを猿から人間への進化に準えた美術史家M・v・ベーン(『人形と人形劇』1929年)に対し、ベンヤミンは「感情移入する純真な教育者よりも、きわめて変人的な蒐集家・愛好者のほうが」愛の狂気と遊びの精神を知っていると述べ反感を露にしている(「人形礼賛」1930年)。19世紀から20世紀にかけて文学、美術、演劇、舞踊、映画等において、人形や肖像、模像、分身に狂気的な愛が向けられ、願望が投影され、それが戯れの相手となり、時として人間を凌駕するほどの主体的な役割を演じてきたことを考えるなら、モダニズムの芸術における〈肖像〉は、「人の似姿(イメージ)」の持つ根源的な魔力へと立ち返る試みとして捉えることができるだろう。
本パネルは、「人の似姿」への囚われのうちに芸術創作の契機を見出した三つの事例を取り上げ、人形論、絵画論、タブロー論、演劇・舞踊論の交錯する地点から20世紀の西洋芸術における〈肖像〉を捉え直す試みである。古川はココシュカのアルマ人形を「投影」の観点から彼の肖像画(論)に接続させる。岡本はバラージュの『木彫りの王子』の分析を通じて人形論と演劇論の接点を浮き彫りにする。須田はクロソウスキーの作品に執拗に現れる妻の肖像を検討することを通じて、彼の芸術観の中核を成すタブロー概念を再考する。
以上のように異なるジャンルの芸術を横断しながら、モダニズム芸術における〈肖像〉の特異性について考えたい。
オスカー・ココシュカのアルマ・マーラー人形──肖像画との関連からの一考察
古川真宏(京都造形芸術大学)
1919年から1922年にかけてココシュカは、かつての恋人アルマ・マーラーの人形と連れ添い、この人形を題材とした油彩画を3点制作した。こうした画家の奇妙な行動は、固定観念から解放されるまでの経緯を表す逸話とされることが多いが、近年では一種のパフォーマンスであった可能性も指摘されている。しかし、それがどのような意図でなされたのかは不明瞭なままである。
本発表は、ココシュカの肖像画制作の文脈のなかにアルマ人形を位置づけ、彼の「奇行」に積極的な芸術上の意義を見出すことを目的とする。同時代の美術史家ゴンブリッチは、画家の側からの感情移入や投影という点でココシュカの肖像画に破格の評価を与えている。これをアルマ人形に置き換えると、自らの生を賭した心理的投影の実験として捉えることが可能なのではないだろうか。
そこでまず、人形に対するココシュカの態度が書簡や自伝等の記述において分裂していることや、描かれた人形が時に人間らしく時に人形らしく立ち現れてくることに着目し、画家にとっての人形の意味を「フェティッシュ」と「肖像/代理身体」(Effigie)の観点から検討する。次に、こうしたアルマ人形に対する分裂した態度を、「心理的缶切り」を用いた人物観察や、「生け贄」としてのモデルへの自己投影といった、ココシュカの肖像画制作方法と比較する。このとき、肖像画についての同時代的言説における「非肖似性」と「内面性」の偏重についても留意する。最後に、人形のような不自然な姿で描かれたココシュカの肖像画や自画像についても検討したい。
完全な個性──バレエ『木彫りの王子』における分身としての「人形」の役割
岡本佳子(東京大学)
ハンガリーの作曲家バルトークによるバレエ音楽で知られる《木彫りの王子》(1917年初演)では、王子の分身としての「木の人形」という役柄が現れる。主人公である王子が愛しい王女の気をひくために木の棒で人形をこしらえるが、王女は逆にその着飾った木彫りの王子に夢中になってしまうという筋書きである。このリブレットは、同じくハンガリーの劇作家であるバラージュが1914年にブダペシュトの主要文芸誌『ニュガト(西方)』で無言舞踊劇として発表したものである。
《コッペリア》や《ペトルーシュカ》を初めとして人形の登場するバレエ作品は少なくないが、本作品《木彫りの王子》は分身であるはずの人形が、いっときではあるが本物の王子を凌いでしまう点で特徴がある。しかし、その際立った個性とは対照的に、バラージュはテクストにおいて木の人形を感情表現の描写なしにあくまでただの「人形」(王子ではなく)として舞台に登場させるのみにとどまった。1918年のバラージュの人形劇と舞踊についての記述を参照すると、人形と舞踊は内的な葛藤ではなく外的な身体の動きによってのみ本質を表し完全な個性を発揮するという指摘があり、王子とその分身の対比はテクストと舞台の両方においてその方針に合致するよう書かれている。
本報告ではこの「木の人形」の役割と効果について、作品のほか、バラージュの演劇理論、バルトークによるバレエ音楽による性格付けや、作者らの初演制作の回想資料等を参照しながら論じる。
クロソウスキーにおけるロベルト像
須田永遠(東京大学)
事実だけをしるすならば、ピエール・クロソウスキーは妻ロベルトをモデルとする像をいくつも描き残している。ロベルトをめぐった想念に憑かれながらも、それを祓うように残した一連のテクストとタブローを、思想(家)における「イメージの優位」として片付けてしまうことは、ともすれば、晩年みずからを称して「ひとりの偏執狂者」と述べた作家の本懐であるのかもしれない。
しかしながら、クロソウスキーが像について語るとき、それは、いつも伝達というものを支える記号(化)の問いと切り結んで現れる。本来的に慣習的記号とあい容れることのない妄執的な像の表現を許すのが(絵画にせよ文章にせよ)その記号のみであるというアポリアは、つまるところ、すでにして記号化された事物(あるいは記号)それじたいに不可視の像を「読み込む」というわたしたちの態度変更と、記号それじたいの地位の更新を迫る。キリスト教神学における「受肉」の思考(記号論)をいわば模範的とも言える仕方で辿り直すこうしたクロソウスキーの思惟をふまえるならば、彼の残したロベルト像は(稚拙なスタイルもその解釈に寄与した)想念の単純な発露というよりも「タブロー」或いは「肖像」に対して彼が発した問いかけのひとつの指標として捉えることが、やはり、クロソウスキーの一連の営為に対するフェアな態度であると思う。
以上の問題意識のもと、本発表ではクロソウスキーの思考におけるロベルトの像(そして肖像)の地位を、関連する諸概念(模像、身振り、記号など)との関連をふまえつつ再定義することを目的とする。