日時:2018年7月8日(日)14:00-16:00
場所:人文学研究科B棟(B135)
・キャラクターのいる場所──音楽と空間について/長田祥一(城西大学付属城西中学高等学校)
・黒が色として見せる奥行きについて/浦野歩(一橋大学)
・字幕/陽光のモーメント──『マルメロの陽光』における字幕とホワイトアウトの係わりを中心に/下山田周平(一橋大学)
【コメンテーター】阿部修登(一橋大学)
【司会】武村知子(一橋大学)
まず始めに司会者より、発表者三名は「空間の生起」と言い表しうる問題を共有しているものの発表内容それ自体は各々独立したものであり、そのため三者を通じて何らかの統一見解が示されるわけではないが、寧ろこれが様々なアプローチを許容しうる度量の広い問題であることが聴講者にも共有されんことを願うと宣言された。
第一発表者 長田「キャラクターのいる場所──音楽と空間について」
アニメ「家なき子」において使用された、背景画をいくつかのレイヤーに分けそれぞれを別の速度でスライドさせることにより奥行きのようなものを現出させる「密着マルチ」という手法がまず説明された。続けて長田は旅芸人の老人に引き取られた主人公レミと彼の育ての母バルブラン夫人との別れの場面に鳴り響く「鐘の音」に着目する。曰く「鐘の中での共鳴も鐘の外に出てからの反響もないまぜになって鐘から同心円的に、遠心的に響き広がってきたその豊富な響きの名前が「鐘の音」である」と。この二つによって「家なき子」にもたらされたのは「鐘の音」の仮構的な発生源を中心にその周囲を「密着マルチ」のレイヤーが周回する、惑星軌道図の如き円周状の動的な空間であり、互いを呼び合うレミと育ての母との別れは、双方が別の円周上を周回し、さもなくば同じ円周上を等速で周回するという、その近づけなさゆえに生じる、と述べられた。最後に長田は二人の再会が、「鐘の音」に類する音が止み円周運動の発端に二人が戻るかたちでなされると指摘し発表が終了した。
この発表に対する最大の疑問は、自明のこととして語られた一部の音楽がもつとされる「鐘の音」的な性質は果たして自明であり得るのか、とうことである。この問いに対し長田は「音楽の非人称性」という語を以て、「鐘の音」の発生源は画面に映っていない鐘ではなく仮に映っていたとしてもその鐘ではない、という趣旨のことを述べようとしていたが、十全と説明されたとは言いがたかった。
第二発表者 下山田「字幕/陽光のモーメント──『マルメロの陽光』における字幕とホワイトアウトの係わりを中心に」
映画『マルメロの陽光』(ビクトル・エリセ監督、1992年)で画家ロペスがマルメロを題材に「陽光」を描こうとしてそれを捉え損ね続ける物語において、彼の「失敗」を必然と見なすこの映画の評者の多くが「画面に映る太陽と私たちが生きる世界を照らす太陽を一対一に対応するものだとする」前提を共有していることを指摘し、この発表が「捉え損ねた陽光を捉えなおす」=「陽光狩り」であると宣される。下山田はまず「字幕」と「ホワイトアウト」の二つを「陽光狩り」の道具に仕立て上げる。まずこの映画の字幕の白さ・不均質性に着目し「画面上における字幕の明るさは映写機に由来するものです。陽光狩りにおいて字幕は映写機を光源とした光として捉え直されます」と述べられる。続いてこの映画の場面つなぎに度々現れる「ホワイトアウト」に通常ありえない光源の設定がなされることを指摘し、これを起こしうる太陽を〈ソル〉と名付ける。〈ソル〉の陽光は画面奥から画面手前へと射し込む不思議な光だと説明される。下山田の疑問は「この映画の字幕は陽光なのではないか」というものである。しかし字幕が画面上ではなく画面内で白く光るためには画面手前から陽光が差し込まなければならないという事情が立ちはだかる。
これを解決する手段として下山田は鑑賞者の背後に存在する「映写機」を第二の〈ソル〉、すなわち「ソルプロジェクター」と呼び、「ソルプロジェクター」に照らされた字幕を「陽光字幕」と見なすことで解決を図る。そしてマルメロの絵を捉えた画面の上に白トビした字幕が映るシーンが取り上げられ、この字幕をめぐる〈ソル〉と〈ソルプロジェクター〉の係わりが検証される。また奥と手前二つの「ソル」に挟まれた位置に鑑賞者がいることから、副産物的に『マルメロの陽光』の空間が鑑賞者のいる空間を浸食するようなものであることが示唆された。
この議論の最大の問題は、「映写機」を使用しない昨今の視聴環境において「陽光狩り」が如何様になされうるのかである。下山田もまたこの問いに明確に答えることはできなかったが、しかし先になされた長田の議論を受け、「ホワイトアウト」の際同時に流れている音楽の作用に何らかの打開案を見いだしたようだった。
第三発表者 浦野 「黒が色として見せる奥行きについて」
デンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの「《Interior of Courtyard, Strandgade 30》、邦名「中庭の眺め」の中央にある開いた窓がどう見えるか、それが本発表の主題である。議論の拠り所は大まかに二つある。グリーンバーグがモダニスム絵画の持つ性質として述べた「平面性 flatness」の内、特にヴァンタブラック(可視光線吸収率99.96の黒色塗料)を観たときなどに得られる「純粋視覚的平面」としての「二次元性 two-dimensionality」と、色彩現象学における「空間色」「物体色」「平面色」といった概念である。集合住宅を外から眺めたようなこの絵画には、建物の壁に複数の窓が描かれている。中央を除くすべての窓は閉じていてそのどれも窓の奥は暗がりとなっているものの、場所によってはガラスの反射と見えるような照り返しがあったりしてその暗さにも濃淡がある。しかし中央の開いた窓だけはガラスのもたらす濃淡が介在せず一様に黒い。浦野の議論によれば、こののっぺりと広がる黒色領域は鑑賞者が自ずから脳内に構築する「この絵を建物を描いた絵として観る」見方をほんの一瞬突き崩し、その黒が「純粋視覚的平面」=「平面色」、つまり単なる色としての黒として見られることとなる。またその色が黒であるがゆえに、奥行きの深度を測り得ない「空間色」ともなる(鑑賞者が日常的に経験する夜の暗さと通底するという意味で浦野はこの黒を「写実的」と述べた)。開いた窓の黒が「純粋視覚平面」かつ「空間色」として一瞬鑑賞者に受け取られてしまう際、両者のせめぎ合いによって鑑賞者がこしらえたこの絵の見方の整合性、つまり絵画として描かれた建物、という見方が脅かされる、というのが本発表の結論だった。
アニメと実写映画すなわち動画を扱った前二者がそれぞれの作品における「空間の生起」を語るものであったのに対し、静止画を扱った本発表では逆にこの絵が建物を描いたものであると諒解されるときの三次元的な空間の広がりは自明とされており、専らその空間性を破壊する黒の作用について述べられたが、果たしてこの黒の作用は静止画ならではのものなのだろうかという質問があがった。浦野がこれに答えて曰く、動きがあること並びにとりわけアニメでは輪郭線が引かれることにより、たとえ黒であっても物体色(物の表面の色)と受け止められやすく破壊作用は生じにくいのではないか、とのことだった。
総じてわかりにくい発表だったのだろう。全発表を通して聴講者から質問が一つも挙がらなかったことが示しているのは、話を聞いても取っ掛かりようがなかった、という事態である。これは各発表者と聴講者との間に使用言語以外の共通了解がほとんど存在しないまま、延々と新情報を提示され続けたことに由来していたとおぼしい。既存の学説なりの延長にない論旨を述べるのであればなおのこと、発表者三名は今話されている内容がどこに向かっているのか、何を述べようとしているのか、を簡潔明瞭にまとめて繰り返し提示し、聴講者の千々に乱れた思考を限定・誘導すべきだったのではなかろうか。それさえ怠らなければ、「映像における空間の生起」という一見壮大な話が、その場で話を聞く各々の研究分野にも関係ある問題だと関心を持って迎えられたに違いない。しかし語るべき事柄を十全に伝えるには、発表者側が尺に合わせて論旨の整理をする等の配慮がいかんせん足りなかった。コメンテーターも適切な補足なり疑問の提示なりによって、発言しやすい場を用意できていたとは間違っても言えない。ただこんなことは伝える技術を各人が磨けば解決する類の問題である。精進されたし。
阿部修登(一橋大学)
パネル概要
スクリーンに、鏡に、水面に、目に、脳裏に、「像」は「映」る。本パネルでは「映る」と称されるそれらすべての「像」を「映像」として扱うこととし、とりわけ脳裏に「映」る「像」であるところの「映像」を発表者三者の発表テーマとする。
「映像」という言葉のこの定義は、発表者三名が考察の対象とする、視聴覚媒体における「像」の生起に際し機能する諸要素のありかたから必然的に要請されるものである。本パネルでは、「像」は畢竟、我々鑑賞者の認識においてのみ存在するという立場を採用するが、このことは、「像」が各鑑賞者の主観によってのみ成立するということを意味するわけではない。「像」が我々の脳裏に「映」るに際しては、各鑑賞者が通常意識しない無数の構造が、意識の埒外にあるがゆえの機能を発揮し、結果的に各鑑賞者の認識において「像」を成立せしめる。そのプロセスは必然的な事実の連鎖であって、決して主観的なものではない。
本パネルでは各発表者が、この意識外に存在するプロセスに関与する要素として「音楽」「黒」「白=光」の三つを取り上げ、それぞれの「アニメ」「絵画」「実写映画」における機能を考察する。これらの要素は「像」の存立基盤としてのいわゆる「空間」の生起、およびその「空間」内に存在するものとしての「像」の認識にそれぞれ深く寄与するが、その寄与のしかたは要素毎に異なり、また媒体によっても異なるのである。
キャラクターのいる場所──音楽と空間について
長田祥一(城西大学付属城西中学高等学校)
アニメの画面に映るキャラクターの姿と背景は限定的、擬似的な空間性しか帯びていないが、音は持続的な空間性を持っている。鑑賞者の脳裏に映る映像においては、キャラクターは音を出す者になりうるし、映っている風景はその音が響きうる空間ともなりえ、キャラクターはその空間内に位置を占める者ともなりうる。しかしキャラクターと音と空間との、互いが互いを支えるようなこの関係は長くは続かないし、相互の支え合いが常に全て維持されるわけでもない。そのことが最も明白に観察されるのが音楽演奏の場面である。
音楽は常に、たやすくキャラクターの演奏動作から離れBGMへ移行してしまう。インからオフ、画面外への免れがたい音楽の移行に沿って設計された画面の連鎖を観察することは、画面と音楽が結びつき離れていく仕方を観察することであり、脳裏において空間が立ち上がるその立ち上がりの諸相を観察することである。その空間は、背景とキャラクターが運動をもって音と関わり合うことで形成する全体の中に見いだされるものであり、常に運動性と関わりながら生起していく、謂わば動的な空間である。アニメ画面における運動の持続はショットやキャラクターの動きの切り替わりによって頻繁に切断されるものであるのだが、しかしその切断以外にアニメの画面と音楽とが同期する契機はないのだ。
本発表においては、主にテレビアニメ『家なき子』(1977)における音楽演奏の場面をめぐって、持続性のある空間が脳裏に映るまでのプロセスを観察し、その空間にキャラクターがいるということの内実を考察する。
黒が色として見せる奥行きについて
浦野歩(一橋大学)
本発表は、黒色と、描かれた建物空間との関係を巡るものである。
建物を描いた絵画にベタ塗りの黒が用いられ、それを鑑賞者が暗い領域と見なしたとする。現実であれば他の感覚器官で把握できるその領域の奥の様子も、絵画では視覚で捉えることしかできないが、その領域は黒のベタ塗りであるため、鑑賞者の目は、暗い領域がどれほどの奥行きを持つのか、その奥に何があるのか、を把握できない。しかし、恐らく鑑賞者はそれを「暗い」と一括りに考え、それ以上意識することはない。仮に鑑賞者が奥行きを意識するとしても、黒い領域の奥は目に見えず「なにもない」としか形容できないような空間であるから、その奥行きは、絵画の名やテキスト、黒の領域の周辺などから類推されるものでしかない。それゆえ、黒の領域がその周辺と何らかのコンフリクトを起こした場合には奥行きの把握に支障をきたすこととなる。しかし、このコンフリクトへの注目によって、その絵の建物空間の形成のされ方が明らかになることがある。それは平面における空間の立ち上がりという、より普遍的なテーマと大きく関係する。
本発表ではそのようなコンフリクトの例として、19世紀のデンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイによる絵画《中庭の眺め、ストランゲーゼ30番地》を取り上げ、描かれた建物で起こる上述のコンフリクトへの注視によって、黒色の色としての特性と、建物空間の形成との係わり方を論じる。
字幕/陽光のモーメント──『マルメロの陽光』における字幕とホワイトアウトの係わりを中心に
下山田周平(一橋大学)
映画を見ているとき、字幕が表示されることがある。字幕はぱっと現れては数秒後に消えてゆく。観客は字幕を見る、と同時に、読む。登場人物の発話、年代、場所などが記された字幕の文字情報から観客は映画の台詞や設定を読み取る。字幕を見て読むというプロセスにおいては観客のなかである不文律が働いている。字幕を、物語世界内にはないものとして見るということだ。本発表ではこの不文律を問い直す。『マルメロの陽光』(ビクトル・エリセ監督、1992年)を考察の対象としてこの作品の字幕を作中のホワイトアウトと絡めて考える。
作中でホワイトアウトはシーンの切り換わりに生じる。そのときの画面には画面内を白トビさせるほどの光源は見当たらない。画面内/外とは無関係の場から、つまり物語世界の外から一見その現象は引き起こされている。だがつぶさに観察すると、実は物語世界内にホワイトアウトの光源と、その光に照らされる空間が存在することが明らかとなる。それは映像の連鎖を観客が追う限りにおいて各々に認識されると同時に物語世界内に呼び出される想像的な光源と空間である。本発表ではこの空間から射し込む光をよすがに『マルメロの陽光』の字幕の色を捉え直し、字幕の不文律に囚われたままでは知覚できない一瞬、すなわち字幕が物語世界内で輝く陽光となる瞬間/契機を示す。この変化は映画のあらすじや観客のいる上映空間にも影響する。