法的人間 ホモ・ジュリディクス 法の人類学的機能
「人は生まれながらにして平等である」と謳ったフランス人権宣言に結晶化している、平等な法主体という理想は、19世紀末に危機を迎える。テクノロジーの進展により、女性や子供も機械労働に従事させられ、あるいは電気照明の出現により、昼夜を問わず労働者を搾取することが可能になった。それまでにも確実に存在していた不平等が、機械化により顕在化するところとなり、労使間の平等性を担保する新たな法制度の必要性が高まったのだ。本書の著者アラン・シュピオが専門とする労働法とは、そのような文脈の中で19世紀末に誕生した、あらたな法領域である。
労働法の誕生とともに、人は「生まれながら」には決して平等ではないということが、明らかになってしまったのだとも言える。労働法に体現されるような超越的な審級によって、平等は担保されなければならない。このような超越的な審級によって担われる機能が、本書の言う「ドグマ的機能」である。あらゆる文化における主体形成に欠かせないこの機能を、西洋において担うのが「法」であり、この文化において形成された主体が、「法的人間」に他ならない。
この西洋的なドグマが特異なのは、自らがドグマであることを否定するドグマだという点である。つまり人は神の前において平等なのではなく、ただ生物学的に生まれてくるだけで平等なのであり、神のような宗教的形象を必用とする文化は、「非合理」な文化として否定されることとなる。
このような法文化の延長線上にあるのが、生物学的な個体を制度的な基盤にも据えようとする優生学的な思想や、そのような個体を市場の唯一のアクターと見なし、国家などの介入を極力避けようとする市場中心主義である。このような流れの中にあって、労働法の誕生は、西洋が自らの中にドグマ的機能を再度取り入れなおそうとした、稀有な出来事であったことがわかる。
ネオリベラリズムが伸長する中で、旗色をますます悪くしている労働法の設立理念を、法人類学的な観点から再評価するのが、本書の主たる試みであると言える。それは西洋の合理主義的な文化が、非合理なものを自らのうちにいかに取り込むことができるか、という問いでもある。この問いの射程が、法学の領域だけにとどまるものではないのは言を俟たないだろう。
(橋本一径)