編著/共著

染谷昌義、細田直哉、野中哲士、佐々木正人(著) 『身体とアフォーダンス ギブソン『生態学的知覚システム』から読み解く(新・身体とシステム)』 金子書房、2018年4月

身体とアフォーダンス ギブソン『生態学的知覚システム』から読み解く(新・身体とシステム)

金子書房
2018年4月
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アフォーダンスという言葉も日本ではそれなりに市民権を得たようで、ずいぶんと偉くなった。聞くところによると同名のダンスサークルもあるとか!?ギブソンがこの概念を公にしたのが1966年刊行のThe Senses Considered as Perceptual Systemsだから、太平洋を挟んだこちら側に定着するまで、およそ半世紀の時間を要したことになる。この年月は長かったのか短かったのか。

ギブソンはたくさんの論文を書いたけれど、著書は生涯たったの3冊しか残さなかった。書き直し魔だった。その2冊目が上述した1966年の『生態学的知覚システム』だ(翻訳は2011年に東京大学出版会より刊行された)。ギブソンがこの本で展開しているのは一種の身体論である。知覚と運動に関する生理学を全面的に見直し、オリジナルな身体生理学を構築しようとする。生態学的な知覚論(情報にもとづく知覚論)を採用すると、眼・耳・鼻・口・頭部・首・胴体・手・腕・腰・脚・足は、そしてそれらの背後にある神経や筋骨格系の組織は何をやっているのか──知覚と運動のメカニズムが当時の生理学の定説(もちろん今でもすこぶる健全!)との対決のなかで検討され、その定説とやらがじわじわと覆されていく。たとえば、五つの感覚モダリティに代えて五つの知覚システムを設定し、神経の機能的区分(感覚神経と運動神経)を破棄し、知覚する器官が解剖学的に固定しているという考え方、入力と出力と脳による情報処理という見方、中枢から抹消への指令による運動制御という見方をことごとく否定する。そしてそれらに代わるオリジナルが提起される。教科書で教えられた常識が通じないので、理解するには時間がかかるし読みにくい。もっとも、難解というのとも少し違う。「汝らここに入る者、一切の先入見を棄てよ!」なのである。けれど一切の先入見を棄ててもこの地獄の門をくぐる甲斐は十分にある。晩年の『生態学的視覚論』(1979年)のさらにラディカルな高地に辿り着くには、ギブソンとともに身体の生理学を根本から見直す道を歩むべきである/歩んだほうがよい。『身体とアフォーダンス』はこのようなメッセージを届けたくて、日本の生態心理学研究の第一人者である佐々木正人氏を中心に3名の専門を異にする生態心理学者──野中哲士(認知科学)、細田直哉(発達科学)、染谷昌義(哲学)──が行った三つのライブ(発表と座談)からなる。

ちょっとだけ覗いてみようか。野中は、66年のギブソンの身体論を運動研究の歴史のなかに位置づける。ロシアの生理学者ベルンシュタイン(1896-1966)から最新の身体媒質論(テンセグリティ構造にもとづく身体運動論)まで、反中枢制御の考えのもとで運動制御のメカニズムを模索する流れにギブソンの知覚システム論をつらねる。細田は、1950年以降晩年に到るまでのギブソンの理論的変遷において『生態学的知覚システム』が占める意義を取り出す。66年の身体論がステップとなって『生態学的視覚論』でジャンプする理論的道具立てが用意されたという。染谷は、19世紀末から20世紀半ば頃までに生じた哲学・思想界における動揺(英米圏のリアリズム論争、現象学運動、言語論的転回)のなかでギブソンの知覚論・身体論がはらむ革新性を指摘する(アリストテレスにまで言及してちょっと挑戦的)。『生態学的知覚システム』には、情報やアフォーダンスという環境資源を利用するメカニズム、オリジナルな身体生理学が説かれている。大地や空気や重力にもたれかかりながら、つま先から頭のテッペンまでを駆使して世界を知覚しその中を動き回る(誤解を恐れずに言えば)唯物論的で生気論的で目的論的な身体が描かれている。そこには、脳と神経による情報処理と運動制御を金科玉条とする現代の理論的状況に対し、待ったを迫る宝が埋まっている!

「汝らここに入る者、一切の先入見を棄てよ!」。でも門をくぐるその前に、ギブソンのアイディアの意義と思想史・理論史のなかでのその位置づけを知っておくと、少しは足元が明るくなるというもの。ギブソンのお相伴にあずかるためにもご賞味いただきたい。

(染谷昌義)

広報委員長:香川檀
広報委員:利根川由奈、増田展大、白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年10月16日 発行