〈つながり〉の現代思想 社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析
本書は、現代における「社会的紐帯」の可能性をめぐって、哲学、政治、精神分析の研究者が共同で探究した成果をまとめたものである。だが、本書全体を貫くトーンは、〈つながり〉の安易な称揚ではなく、むしろ、現代における社会的紐帯の困難、その不可能性の意識である。各論者はそれぞれの仕方で、〈つながり〉のもたらす息苦しさを警戒し、そうした息苦しさから離れた、新たなかたちでの社会的紐帯を模索している。しかし、その試みはむろん決して簡単なものではない。読者は各論者の格闘の姿を目にすることになるだろう。
不可能性の刻印は、冒頭の淵田論文から明確に表れている。社会契約によって政治的共同体の一体化を図るジャン=ジャック・ルソーの理論において、もはや社会的紐帯の居場所は存在しない。にもかかわらず、淵田はルソーの言説のなかに明滅する「憐憫」に社会的紐帯の手がかりを見ようとする。松本論文は、フロイトからラカンへと至る「集団心理学」の変化を跡づけながら、近代を〈父〉の統合機能の衰退の時代と特徴づける。今日のレイシズムは、〈父〉の回帰と捉えられるだろう。松本はこうした〈父〉の原理に基づかない社会的紐帯の理論として、後期ラカンのディスクールの理論を提示する。
主に政治的観点から論じられる第二部は、福祉国家のように社会的紐帯がネイションに基づけられている現状を批判する山本論文で幕を開ける。山本は、「国民」が必然的に排除を伴うことを指摘し、本質主義的なネイションに代えて、「人民」という集合的アイデンティティを政治的紐帯の基礎にするべきだという。そしてその可能性をポピュリズムに見るのである。続く乙部論文は、今日の政治理論において、〈政治的なもの〉から〈社会的なもの〉へと論争点が移ってきたことを問題とする。両者の対立点を明らかにすることで、乙部は社会的紐帯の問題をいわばメタレベルから論じる。第二部最後の拙論は、ジル・ドゥルーズ晩年の思想に、デモクラシーに対する両義的な態度を見いだす。そして、同時期に現れる「来るべき民衆」の形象に、デモクラシーの深化としての社会的紐帯を読み込む。
第三部では、社会的紐帯の理論的基礎が、哲学や精神分析の観点から検討される。まず柿並論文は、ジャン=リュック・ナンシーとフェリックス・ガタリを交差的に読解しながら、彼らの特異性の概念に新たな集団的主体性への手がかりを見つけようとする。比嘉論文は、ユルゲン・ハーバーマスの精神分析理解が、患者の症状を公共的コミュニケーションへと翻訳するものとする一面的なものであることを批判し、自我にとって他なるものである「エス」に、新たな「われわれ」の可能性を見る。信友論文は、ジャック・ラカンの晩年の思想に、「グループなき紐帯」を可能にする、「不能の倫理」を読み込む。その倫理は、一般的なラカン像、すなわち〈他者〉のシニフィアン構造の欠如を幻想で埋める「不可能の倫理」ではなく、シニフィアン構造の外に残る、生の「屑」とその効果に求められるだろう。
本書で提示される社会的紐帯は、たんなる「横」の連帯でもなければ、「縦」の垂直的統合でもない。松本が「あとがき」で強調するように、各論文に共通するのは、いわば「斜め」からのアプローチである。現代において社会的紐帯を論じるとき、こうした「斜め」からのアプローチが不可避であること、これこそが本書の一番のメッセージかもしれない。
(大久保歩)